木漏れ陽が机に斜めの光を当てている休み時間に、私はもしこれが学園ドラマだったら、という件について真剣に脳内で議論していた。仮に私が誰かに演じられるならば、きっとエキストラだろう。一言ぐらいはセリフをもらえるだろうか。その時にエキストラだったとしても、知らないうちに別のドラマで跳ねて、すっかり有名女優になった時に、ええっ! あのドラマにも出てたの? しかもエキストラで? みたいな感じで取り上げられるだろうか。それともエキストラはこれきりですっぱりやめて、普通の女子高生としての生活を送り、ふとした瞬間に違う学校の生徒を演じていた時間を、思い出すだろうか。おそらく、後者ではないかと思う。
そして主演を務めるのはもちろん――私は、教室の真ん中に集まって談笑する複数の男女を見やった。私が彼らと積極的に交わることはないし、彼らも別に私に雑談しに来ることはない。このような断絶がありながらも、彼らを羨ましがったり、自分を卑下したりする気持ちは全く起こらない。私は彼らの世界が、そのままであってくれることだけを願っている。私がわざわざ介入して、壊すなんてことはもってのほかだ。
四人の中でも一層際立っているのが竹内美桜。誰もが振り返る美貌、白い肌に泣きぼくろという上品な顔立ちでほっそりした体ながら、性格はさばけており、誰とでも壁を作ることなく話すことができる能力の持ち主。きっと彼女が主人公……あるいは、いつも美桜の隣にいる小柄で目のくりっとした小動物系の女子、松澤花乃だろうか。天然そうな見た目とは裏腹に、成績はいつも学年でトップを保っている才女だ。そして綺麗系の美桜と可愛い系の花乃を前にしても全く物怖じしないコミュ強イケメンの栗原理玖。時に「美桜ってほんと、中身おっさんだなー」とか言えるのがポイントが高い。そして異色の眼鏡男子、桃山絢斗。縁の黒い眼鏡をかけて顔立ちの美しさを抑えようとして逆に醸し出されている。時々理玖に冷静なツッコミを入れているとき、四人が一番盛り上がる。
私は、机にかけている鞄からスマートフォンを取り出した。
『大内様 お世話になっております。青春小説の件、お受けいたします。よろしくお願いいたします』
女子高生ならではのリアルな青春を描いてほしいんです、と大内さんから言われたのは先週末のことだ。小説家としてデビューしてからずっと私の担当編集をしてくれている。私より10歳近くは年上なのに、敬語を使い、秋月先生と呼ぶ。とはいえ私を甘やかしている存在ではない。締切を守らなかったり敬語を間違えたりした時は本気で叱られる。最初は泣きそうになったけど、次第にありがたく思えてきて、今では大内さんのことを全面的に信頼している。私にとっては、大内さんの方が先生なのだ。
話を受けた時、私は最初、言葉がうまく出てこなかった。
「私……一応は高校生ですけど、そんな青春のど真ん中にいる人間じゃありませんよ」
「そんな秋月先生にこそ、書いてほしいんです」
大内さんの頬骨の線が微かにへこむ。紺色のスーツにワインレッドのネクタイがよく似合っていた。
「女子高生作家と編集者の恋とか……どうですか?」
「やめてください。最近はフィクションでも未成年とか、厳しいんですから」
「真面目だなぁ」
「大人を揶揄わない」
そして、大内さんは咳払いをした。
「僕は秋月先生のこと、推してるんですから。青春小説……題材期待してますよ」
私は、クラスの真ん中にいる、美桜、花乃、理玖、絢斗の四人をモデルにした青春小説を考案した。話の筋としては、こんな感じだ。理玖は美桜に一目惚れし、告白したのだが「私のこと何にも知らないのに付き合うなんてできない」と突っぱねられてしまう。まずは友達から、と美桜に接近したところ、美桜の親友、花乃に惹かれはじめる。美桜は話しているうちに理玖の魅力と、彼が花乃に心を寄せているのに同時に気づき苦しむ。一方で花乃は知的で冷静な絢斗のことが好きで――
……以上、私の妄想である。私は大内さんに概要を送ると、すぐに返信が来た。
『悪くないですね。まずは一話、書いてみてください。ポイントとしてはできるだけ見たものを書くことです』
私は隅の席から四人を観察して、スマホの執筆アプリに打ち込んだ。傍からみればただスマホをいじっている怠惰で地味な女子である。私が作家であることは、この学校の誰も知らな。変な属性も付けたくないので黙っていることにした。この前、私の過去作である「エクレア王国物語」の文庫を手に持っている人とすれ違って、つい話しかけそうになったけど、気まずいだろうから、やめた。
「エクレア王国物語」がこんなにヒットするなんて思わなかった。題材を考えたのは小学生の時だ。ある時、母に来客があった時にエクレアをお土産でいただいた。いつもなら私はジュースとお菓子の組み合わせなのだが、来客に合わせて私も紅茶をいただいた。甘いエクレアに香り高い紅茶のハーモニーがお互いを引き立てて、ものすごく美味しかった。
その様子を見ていた来客のマダムが私の方を見て微笑んだ。
「お菓子にもマリアージュ、つまり結婚があるのよ」
私は当時読んでいた「王国モノ」から、アイディアをひらめき「エクレア王女に数々の飲み物が求婚してくるお話を作ってみたい」と思うようになった。それぞれの飲み物の人間関係などを色々盛り込んで、何世代にもしていたら、かなりの大長編になった。母のすすめでライトノベル賞に出してみたところ、なんと受賞してしまった。中学2年の時だった。大内さんという担当編集と出会い、私は作家になった。大内さんは作家活動が受験勉強の妨げにならないように最大限の配慮をしてくれた。「エクレア王国物語」は細々ではあるが今も続いており、小規模ながらアニメ化もされている。しかし原作者がどんな人物であるかは、関係者以外誰も知らない。まさか高校生だとは思ってもいないだろう。
スマホ越しに教室の真ん中を見つめて、指が止まった。
書けない。これは、エクレア王国じゃない。本当に起こっている、青春だ。私は、見てないものを書くことはできたが、見たものを書くことが苦手だ。作家の肩書きがあるにもかかわらず、私は学校の作文コンクールで入賞したことは一度もない。現実を書いていると途端につまらなくなってしまう。それが、私の現実のつまらなさゆえのものなのだろう。大内さんは、もしかして私に現実を書く練習をするために、こんなことを言っているのかもしれない。
私は、一人一人の動きを観察した。
理玖が冗談を言って、美桜と花乃が可笑しそうに笑う。美桜の艶っけのある長い黒髪が揺れる。絢斗が冷静に突っ込んで、また笑う。その時、ふと花乃の目線が、絢斗に流れる。案外、私の妄想通りの関係性なのではないか。
理玖が美桜に言っていた実際のセリフを思い出した。「美桜って、中身ほんとおっさんだよなー」このセリフを、手元のメモアプリに書き起こした。「中身おっさん」と言われると、彼女の外見の魅力がますます際立つから不思議なものだ。そもそも中身が「おっさん」というのはどのような言動を見て言ったものなのだろう。私から見ると美桜のどの言動も、女神のように美しい。「おっさん」とあえて雑に扱うことで、逆に見た目の美しさが際立ってしまうのかもしれない。
「美桜って、中身ほんとおっさんだよなー」
ほら、また言った。花乃がクスクスと笑う姿が小動物めいていてなんとも愛らしい。私は次に花乃が言いそうなセリフを考えたが、いかんせん彼女のセリフはどこに飛ぶか全く予想がつかない。花乃は天真爛漫で、時々授業中にトンデモ回答を出してみんなをほっこりさせる。それで頭がいいんだから実はガリレオ・ガリレイの生まれ変わりとかなんじゃないか。ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回ってる。ついでに言うと美少女に生まれ変わりたい」という名言を残したんじゃないか。何にも思い浮かばないけど、歴史人物繋がりで、「おっさんって言っても美形のおっさんだよ。チェ・ゲバラみたいな」と私はメモアプリに書いた。すると、花乃ののんびりした声が響く。
「おっさんって言っても美形のおっさんだよ。チェ・ゲバラみたいな」
当てた。しかも、チェ・ゲバラまで当てた。まあ、さっきの世界史の授業でその時期をやって教師が散々「チェ・ゲバラが世界史で一番のイケメン」だと言っていたから、そこから発想したに違いない。そしたらきっと、絢斗、美桜と会話が続いていく。私は彼らが言いそうなセリフを打つ、するとまるでそれを読みあげたかのように、
「竹内さんって革命起こしそうだもんね」
「いやどんな見られ方よ」
心臓がどきんと音を立てた。あまりにも、四人の会話を当てすぎている。もしかして、四人は幻なのか? そんなことない。名簿にもしっかり四人の名前はあるし、むしろ消えそうなのは私の方である。そうだ、逆に彼らが言わなさそうなことを考えてみるのはどうだろうか。たとえば、理玖は勉強があまり好きじゃないはずなので、世界史の話題は引っ張らないだろう。だからあえて…………
「さっきの世界史、楽しかったよなー」
へー珍しいね、と言う美桜の声を私は呆然と聞いていた。メモアプリには、理玖が言ったのと全く同じセリフが書かれている。そのうちに、3限目を告げるチャイムが鳴った。私は慌ててスマホをしまって、英語Bのテキストを出した。
しかし、その後の授業もなかなか集中することができなかった。どうしても、書いた通りに四人が動くことが思い浮かんでしまう。これって、仕草とかも有効なのだろうか。私は鞄からそっとスマホを取り出して、メモアプリに書いた。
《理玖が美桜の方を振り返った。美桜が髪を耳にかけると同時に理玖が急に立ち上がり……》
「サーセン、ちょっとトイレ行ってもいいっすか」
唐突な宣言にクラス中が笑いに包まれた。英語教師が呆れたように「はいはい」と言って手で教室の外を促す。理玖は「いやー急にウンコしたくなっちゃって」と言いながら教室の外に出て行った。理玖は、本当に便意を催したのだろうか、今すぐ追いかけて聞きたくなる衝動をなんとか抑えた。
私は、彼らのリアルを書けるかもしれない。
帰宅後、高揚感のままに書き進め、第一話の初稿を完成させた。いつもの日常、そして男女混合グループが話しそうなことを詰め込んだ第一話だった。送ってしばらくすると、大内さんから、チャットで返信が来た。
「なんだか、綺麗すぎます。こんなにキラキラしてるんですか、あなたのクラスは」
「でも、私が見た、本当に起こったことなんです。むしろ、書いてからそうなった……っていうか」
チャットでは、この不思議な出来事を説明するのに手間取ってしまう。
「秋月先生は、どこにいるんですか?」
「私は……いないも同然です。このクラスには」
「では、誰が見てるんですか、誰目線なんですか、この話は」
私が考え込んでいると、ビデオ通話の受信音が鳴った。グレーのトレーナーを着て少し髭の伸びた大内さんが映っている。
「あー……ちょっと説明すると、エクレア王国は、いわゆる『神の視点』でしたよね。何代にもわたる大河ドラマ的な物語なので俯瞰した視点、鳥の目が必要なんです。一方で、この青春物語は虫の目で描いてほしい。当事者の生っぽい感じが欲しいんです」
「虫の目……」
「秋月先生も、参加しませんか。この話に」
「参加? どういうことですか?」
「五人目として、秋月先生のキャラクターを加えませんか、って言ってます」
「む……無理です無理です! 私があの真ん中になんか、もう眩しすぎていけません!」
私が慌てているのを見て、大内さんはクツクツと笑った。
「そうは言ってませんよ。無理に真ん中に行く必要はない。でも、影響を与える存在になって欲しいんです」
「それは、話の中で……ですよね」
「できれば、現実でも」
「勘弁してくださいよ……」
「四人の中で、一番仲良くしたいのは、誰ですか? 男子でも女子でもいいです」
「うーん……強いて言うなら、花乃ちゃんですかね。話が合いそうな感じがします」
「僕もそう思います。彼女に、近づいてみるのはどうでしょう。先生の学校生活も開けてくるはずですよ」
そう言うと、「とはいえ早く寝てくださいね、では」とビデオ通話が切れた。
私は、しばらく呆然としていた。現実の方をまず変えないと、創作も進まない。
私は、昼間、クラスで起こったことを思い出した。彼らが言いそうなことを、当てた。いや、ひょっとすると……私には大内さんに笑われるかもと思っていた、ある考えがあった。私は初稿の続きを打ち進めた。
《琴葉は、「あ」と言った》
「あ」、そりゃそうか。だって自分だし、この文も見てるし。証明しようがない。
《琴葉は、「う〜っ」と伸びをした》
すると、急に首筋の辺りがぼんやりとしはじめて、両手を上に伸ばした。背中に血流が流れるのが気持ちよく「う〜っ」という声が出てしまう。高校生として普通に勉強して、執筆もしているとどうしても同じ姿勢になりがちだ。だから体育の授業などはしっかり受けるようにしている……
《琴葉は、「ふふ」と笑った》
自分で自分を操っていることが急に可笑しくなって「ふふ」と笑いを漏らした。
同時に、確信した。
私は、書くことで、現実を動かせる……
「書く」一家だった。
コピーライターの父と、エッセイストの母は、一人娘である私に「琴葉(ことは)」と名付けた。それこそその名の通りに言葉を愛し、そして両親と同じく本ばかり読む子どもだった。
「人間の最大の発明は、物語だと思うよ」
父はよくそう言っていた。私は父、秋月文太郎の書くコピーが、今でも好きだ。いわゆる一言で「売れる」コピーではないけれど。商品に物語が生まれて、この商品をずっと大切にしたいと思わせてくれる。父の全集を、時々読み返す。もう、秋月文太郎から、新しい言葉が出てくることはない。
エクレア王国の受賞を待たずに、父は急死した。父のほっこりエピソードを書いていた母は体調を崩し、しばらく塞ぎ込んでいた。母の体調は回復したものの、エッセイは書いていない。私だけが、物語を書き続けていた。
「琴葉には、筆力がある」
父の言葉を思い出す。筆力。文章力がある、そういう意味だと思っていた。そうじゃない。筆で、何かを動かせる、力。そういうことなのではないか。
書くことが現実になるんだったら、なんだってしたい。
《文太郎は……》
キーボードを打って、消した。
父ともっと話したかった。
エクレア王国について、今書いている青春小説について、話したかった。
母に、またエッセイを書いて欲しかった。
名コピーライターのおかしな日常を、もっと読みたかった。
でも、それは、書けない。
書いたってどうにもならないことがあることぐらい、わかっていた。
私は再びキーボードを打ち進めた。
《体育の時間。花乃の打ったバレーボールが琴葉の頭を直撃し――》
「琴葉ちゃん! ごめん! 大丈夫!?」
あんなことを書かなければよかった。あまりにも痛い。倒れるとは書いたけどボールの衝撃と痛さで立っていられなくなった。
「わ、私が当てちゃったんで、保健室連れて行きます!」
「あ……大丈夫。私が勝手に当たっただけなんで」
「ううん。ちょっと私もサボりたいしさ、行こ行こ」
ここまでは全部、私の書いた通りの会話が行われていた。しかし、保健室までの道中は何も書いていない。なんの会話をすればいいのか、思い浮かばなかったのだ。そして今も、頭をぶつけたこともあって何も考えられない。
「ごめんね、琴葉ちゃんの大事な頭脳が……」
いきなりそう言われて、私は慌ててしまった。これは謙遜できるボールを投げてくれてるのだとわかっていたが、花乃をなんて呼んでいいかもわからない。
「え……っ、いやぁ……私は……あなたほどじゃ……」
台本がないと全然言葉が出てこない自分が情けなくなる。
「え! まさかのあなた呼び? 初めてだよ! でも、花乃でいいよ!」
「あ、じゃあ、花乃……ちゃん、よろしくね」
花乃はニッと笑い、少し声を小さくした。
「ねえ……聞いてもいい?」
「うん」
「琴葉ちゃんってさ、休み時間いつもスマホ高速フリックしてるよねえ」
はっとした。「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という言葉を思い出した。
「当てていい?」
「え……」
「ズバリ! すごい束縛の強い彼氏がいる!……どう?」
私は思わず吹き出してしまった。大内さんの姿が頭を掠めて「ある意味そうかも」と言った。
「えー、いいなあ、年上でしょ、なんとなく」
「うんうん、いい大人」
「憧れちゃうなあ、なんか琴葉ちゃんって、大人びてるもんね」
「そ……そうかな、あんまり言われたことないけど……」
「いつも落ち着いてるし、読書とか好き?」
「うん、読書は大好きだよ」
そう言うと、花乃は目を輝かせた。
「やっぱり! 私、本の話をする人を探してたの! 最近みんな教科書以外の活字読まないって言っててさ……めちゃめちゃ語りたい!」
「そうそう、読む人少なくなってて、寂しいよね」
書く側としては寂しいどころではなく、危機感しかない。
そのうちに保健室に到着したが、頭痛はすっかりなくなっていた。けれども一応は養護教諭に見せて、頭に乗せる氷を貰った。花乃は、今度本を交換しよう! と言いながら去っていった、
翌日、花乃は大きめの紙袋を重そうに持ってきていた。
何それ、どうしたの、と美桜の声がする。
「ちょっとね」
そうして、端っこの私の席に近づいて、紙袋を手渡した、ずっしりと重く中には本が縦に詰まっている。
「これ、私のおすすめ。中学生の時から大好きなの」
私には、上から見ただけで、なんの本かわかっていた。
……だって、今まで散々見てきた本だからだ。
「琴葉ちゃん、エクレア王国物語、って知ってた?」
胸がいっぱいになって、涙が出そうになった。うん、すごく知ってる。でも、花乃はこの本を抱えて、持ってきたのだ。
「……ずっと、読みたいと思ってたんだ、ありがとう」
「そうなの? よかったー! 勢いで全巻持ってきちゃったけど、そういえば読んだことある場合は意味ないなーって途中で気づいて、引き返せなかったんだぁ。ぜひ読んで! 誰推しかも知りたいし! ちなみにね、私はコーラ王子が好き! コーヒー王子とか紅茶王子がやっぱり王道だと思うけど、コーラ王子は健気だから、憎めないんだよねー、って言ってもまだ読んでないからわからないか、とにかく読んでほしい!」
私は何度も頷いた。そうそう、コーラ王子は私のお気に入りキャラでもある。
「ありがとう、貸してくれて」
そして、読んでくれて。誰かに勧めるほど、愛してくれて。
「大谷翔平現象……? なんですかそれは」
相変わらずビデオ通話の時はグレーのトレーナーを着ている大内さんが呆れた顔になった。
「すごいことが起きすぎてて、現実を書くと逆に嘘っぽくなっちゃうんです」
私は、自分の身に起こっていることをかいつまんで大内さんに話した。
「いいじゃないですか。このまま楽しく高校生活を送ってみてください、書くことはいつでもできますから」
「え、いいのですか?」
「花乃ちゃんとこのまま話してみてください、四人だって、ただキラキラしてるだけじゃないはずです」
「はい……」
大内さんが花乃ちゃん呼びをすることに、少しだけ心がざわついた。
「多少書けない時があってもなんの問題もないです。エクレア王国は続いてるし、僕は先生の筆力を信じてます」
「大内さん、あの……筆力って、大内さん的にはどのようなものだと思いますか?」
大内さんは少し考えてから言った。
「秋月先生の筆力は、世界を動かします」
「そんな……」
「僕はお世辞は言いませんよ。エクレア王国はあんなにファンタジーなのに、自分ごとのように受け取れる。子ども向けの小説かと思っていたら、僕も夢中になってしまいました。本当に、エクレア王国があったらいいのにな、って思いました。だから、本当に嬉しいんですよ、それに……」
大内さんは珍しく饒舌だったが、急に言い淀んだ。
「僕は、あなたのお父さんに憧れてました」
「秋月文太郎、ですか」
「文太郎さんみたいな、コピーを書きたいと思った、最初は広告業界を目指していました。けれども自分自身には言葉を生み出す才能がないことに気づいて……でも、最大限言葉には関わりたくて、ここに入ったんです」
「そう……だったんですか」
「まさか、お嬢さん、琴葉さんの担当をするとは夢にも思わなかったですけどね」
大内さんは「ごめんなさい、語りすぎてしまいました」と照れ笑いをしたが、私は一緒になって笑うことができなかった。胸に熱いものが込み上げて、何が言おうとすると涙がこぼれそうだった。でも、それでよかった。
もし話せてたら、うっかり、大内さんに、告白してしまうところだったから。
1週間後、だいたい一般の高校生がエクレア王国物語を読破できる期間を置いて、私は花乃にもらったままの紙袋ごと学校に持ってきた。紙袋を見て、教室にいた花乃は目を輝かせた。
「琴葉ちゃん! すごい語りたい気分! 今日、一緒にお昼食べよ!」
花乃と話すときは、もう、台本は書いていなかった。
学内の食堂は「カフェテリア」という看板がかけられていたものの、その実やっぱり学食でうどんやカレーなど様々な匂いが混ざっていた。購買のパンを買う生徒やトレイを持つ生徒で溢れていた。実は私はカフェテリアに行ったことがなかったが、この青春四人組はいつも決まった席があるらしい。私はこのテーブルの端、花乃の向かい側を促されておずおずと席についた。美桜は理玖や絢斗と談笑している。
ガパオライスを運んできた花乃が席に着くなり私に話しかけてきた。
「ね、ねっ琴葉ちゃんは、誰推し?」
「うーん、やっぱりコーラ王子かな、紅茶王子もいいよね、冷静な感じが」
私はなるべく読者が好きそうであろう、無難な答えを言った。
「なんかさ」
花乃が可笑しそうに言った。
「紅茶王子は絢斗くん、コーラ王子は理玖くんに似てるよね、なんとなく」
「たしかに」
「でね、美桜ちゃんは、やっぱりエクレア王女にぴったりだなって思って」
えーなんのはなしー?と、美桜が私たちの方を見て華やかに笑う。理玖と絢斗の視線も続いた。
私はハッとして、花乃の顔を見た。
花乃のふんわりした丸顔、雰囲気。甘やかな声。
ぜんぶ、ぜんぶ……あの、才気煥発な……
「花乃ちゃんは、パンナコッタ姫……?」
思わず呟くと、いやー、そんな恐れ多いわあ……と謙遜する花乃の声が遠くなっていく。
私は、自分の描いた登場人物を思い浮かべた。
コーヒー王子、ルイボス侯爵、ジンジャー騎士団長、フランボワーズ姫、
パズルのように、次々とクラスメイトの姿がはまっていく。
ここは、天砂学園2年3組。
そして……エクレア王国。
どこかで馬がいなないた声が聞こえた気がした。
エクレア王国は......終わらない。
そして主演を務めるのはもちろん――私は、教室の真ん中に集まって談笑する複数の男女を見やった。私が彼らと積極的に交わることはないし、彼らも別に私に雑談しに来ることはない。このような断絶がありながらも、彼らを羨ましがったり、自分を卑下したりする気持ちは全く起こらない。私は彼らの世界が、そのままであってくれることだけを願っている。私がわざわざ介入して、壊すなんてことはもってのほかだ。
四人の中でも一層際立っているのが竹内美桜。誰もが振り返る美貌、白い肌に泣きぼくろという上品な顔立ちでほっそりした体ながら、性格はさばけており、誰とでも壁を作ることなく話すことができる能力の持ち主。きっと彼女が主人公……あるいは、いつも美桜の隣にいる小柄で目のくりっとした小動物系の女子、松澤花乃だろうか。天然そうな見た目とは裏腹に、成績はいつも学年でトップを保っている才女だ。そして綺麗系の美桜と可愛い系の花乃を前にしても全く物怖じしないコミュ強イケメンの栗原理玖。時に「美桜ってほんと、中身おっさんだなー」とか言えるのがポイントが高い。そして異色の眼鏡男子、桃山絢斗。縁の黒い眼鏡をかけて顔立ちの美しさを抑えようとして逆に醸し出されている。時々理玖に冷静なツッコミを入れているとき、四人が一番盛り上がる。
私は、机にかけている鞄からスマートフォンを取り出した。
『大内様 お世話になっております。青春小説の件、お受けいたします。よろしくお願いいたします』
女子高生ならではのリアルな青春を描いてほしいんです、と大内さんから言われたのは先週末のことだ。小説家としてデビューしてからずっと私の担当編集をしてくれている。私より10歳近くは年上なのに、敬語を使い、秋月先生と呼ぶ。とはいえ私を甘やかしている存在ではない。締切を守らなかったり敬語を間違えたりした時は本気で叱られる。最初は泣きそうになったけど、次第にありがたく思えてきて、今では大内さんのことを全面的に信頼している。私にとっては、大内さんの方が先生なのだ。
話を受けた時、私は最初、言葉がうまく出てこなかった。
「私……一応は高校生ですけど、そんな青春のど真ん中にいる人間じゃありませんよ」
「そんな秋月先生にこそ、書いてほしいんです」
大内さんの頬骨の線が微かにへこむ。紺色のスーツにワインレッドのネクタイがよく似合っていた。
「女子高生作家と編集者の恋とか……どうですか?」
「やめてください。最近はフィクションでも未成年とか、厳しいんですから」
「真面目だなぁ」
「大人を揶揄わない」
そして、大内さんは咳払いをした。
「僕は秋月先生のこと、推してるんですから。青春小説……題材期待してますよ」
私は、クラスの真ん中にいる、美桜、花乃、理玖、絢斗の四人をモデルにした青春小説を考案した。話の筋としては、こんな感じだ。理玖は美桜に一目惚れし、告白したのだが「私のこと何にも知らないのに付き合うなんてできない」と突っぱねられてしまう。まずは友達から、と美桜に接近したところ、美桜の親友、花乃に惹かれはじめる。美桜は話しているうちに理玖の魅力と、彼が花乃に心を寄せているのに同時に気づき苦しむ。一方で花乃は知的で冷静な絢斗のことが好きで――
……以上、私の妄想である。私は大内さんに概要を送ると、すぐに返信が来た。
『悪くないですね。まずは一話、書いてみてください。ポイントとしてはできるだけ見たものを書くことです』
私は隅の席から四人を観察して、スマホの執筆アプリに打ち込んだ。傍からみればただスマホをいじっている怠惰で地味な女子である。私が作家であることは、この学校の誰も知らな。変な属性も付けたくないので黙っていることにした。この前、私の過去作である「エクレア王国物語」の文庫を手に持っている人とすれ違って、つい話しかけそうになったけど、気まずいだろうから、やめた。
「エクレア王国物語」がこんなにヒットするなんて思わなかった。題材を考えたのは小学生の時だ。ある時、母に来客があった時にエクレアをお土産でいただいた。いつもなら私はジュースとお菓子の組み合わせなのだが、来客に合わせて私も紅茶をいただいた。甘いエクレアに香り高い紅茶のハーモニーがお互いを引き立てて、ものすごく美味しかった。
その様子を見ていた来客のマダムが私の方を見て微笑んだ。
「お菓子にもマリアージュ、つまり結婚があるのよ」
私は当時読んでいた「王国モノ」から、アイディアをひらめき「エクレア王女に数々の飲み物が求婚してくるお話を作ってみたい」と思うようになった。それぞれの飲み物の人間関係などを色々盛り込んで、何世代にもしていたら、かなりの大長編になった。母のすすめでライトノベル賞に出してみたところ、なんと受賞してしまった。中学2年の時だった。大内さんという担当編集と出会い、私は作家になった。大内さんは作家活動が受験勉強の妨げにならないように最大限の配慮をしてくれた。「エクレア王国物語」は細々ではあるが今も続いており、小規模ながらアニメ化もされている。しかし原作者がどんな人物であるかは、関係者以外誰も知らない。まさか高校生だとは思ってもいないだろう。
スマホ越しに教室の真ん中を見つめて、指が止まった。
書けない。これは、エクレア王国じゃない。本当に起こっている、青春だ。私は、見てないものを書くことはできたが、見たものを書くことが苦手だ。作家の肩書きがあるにもかかわらず、私は学校の作文コンクールで入賞したことは一度もない。現実を書いていると途端につまらなくなってしまう。それが、私の現実のつまらなさゆえのものなのだろう。大内さんは、もしかして私に現実を書く練習をするために、こんなことを言っているのかもしれない。
私は、一人一人の動きを観察した。
理玖が冗談を言って、美桜と花乃が可笑しそうに笑う。美桜の艶っけのある長い黒髪が揺れる。絢斗が冷静に突っ込んで、また笑う。その時、ふと花乃の目線が、絢斗に流れる。案外、私の妄想通りの関係性なのではないか。
理玖が美桜に言っていた実際のセリフを思い出した。「美桜って、中身ほんとおっさんだよなー」このセリフを、手元のメモアプリに書き起こした。「中身おっさん」と言われると、彼女の外見の魅力がますます際立つから不思議なものだ。そもそも中身が「おっさん」というのはどのような言動を見て言ったものなのだろう。私から見ると美桜のどの言動も、女神のように美しい。「おっさん」とあえて雑に扱うことで、逆に見た目の美しさが際立ってしまうのかもしれない。
「美桜って、中身ほんとおっさんだよなー」
ほら、また言った。花乃がクスクスと笑う姿が小動物めいていてなんとも愛らしい。私は次に花乃が言いそうなセリフを考えたが、いかんせん彼女のセリフはどこに飛ぶか全く予想がつかない。花乃は天真爛漫で、時々授業中にトンデモ回答を出してみんなをほっこりさせる。それで頭がいいんだから実はガリレオ・ガリレイの生まれ変わりとかなんじゃないか。ガリレオ・ガリレイが「それでも地球は回ってる。ついでに言うと美少女に生まれ変わりたい」という名言を残したんじゃないか。何にも思い浮かばないけど、歴史人物繋がりで、「おっさんって言っても美形のおっさんだよ。チェ・ゲバラみたいな」と私はメモアプリに書いた。すると、花乃ののんびりした声が響く。
「おっさんって言っても美形のおっさんだよ。チェ・ゲバラみたいな」
当てた。しかも、チェ・ゲバラまで当てた。まあ、さっきの世界史の授業でその時期をやって教師が散々「チェ・ゲバラが世界史で一番のイケメン」だと言っていたから、そこから発想したに違いない。そしたらきっと、絢斗、美桜と会話が続いていく。私は彼らが言いそうなセリフを打つ、するとまるでそれを読みあげたかのように、
「竹内さんって革命起こしそうだもんね」
「いやどんな見られ方よ」
心臓がどきんと音を立てた。あまりにも、四人の会話を当てすぎている。もしかして、四人は幻なのか? そんなことない。名簿にもしっかり四人の名前はあるし、むしろ消えそうなのは私の方である。そうだ、逆に彼らが言わなさそうなことを考えてみるのはどうだろうか。たとえば、理玖は勉強があまり好きじゃないはずなので、世界史の話題は引っ張らないだろう。だからあえて…………
「さっきの世界史、楽しかったよなー」
へー珍しいね、と言う美桜の声を私は呆然と聞いていた。メモアプリには、理玖が言ったのと全く同じセリフが書かれている。そのうちに、3限目を告げるチャイムが鳴った。私は慌ててスマホをしまって、英語Bのテキストを出した。
しかし、その後の授業もなかなか集中することができなかった。どうしても、書いた通りに四人が動くことが思い浮かんでしまう。これって、仕草とかも有効なのだろうか。私は鞄からそっとスマホを取り出して、メモアプリに書いた。
《理玖が美桜の方を振り返った。美桜が髪を耳にかけると同時に理玖が急に立ち上がり……》
「サーセン、ちょっとトイレ行ってもいいっすか」
唐突な宣言にクラス中が笑いに包まれた。英語教師が呆れたように「はいはい」と言って手で教室の外を促す。理玖は「いやー急にウンコしたくなっちゃって」と言いながら教室の外に出て行った。理玖は、本当に便意を催したのだろうか、今すぐ追いかけて聞きたくなる衝動をなんとか抑えた。
私は、彼らのリアルを書けるかもしれない。
帰宅後、高揚感のままに書き進め、第一話の初稿を完成させた。いつもの日常、そして男女混合グループが話しそうなことを詰め込んだ第一話だった。送ってしばらくすると、大内さんから、チャットで返信が来た。
「なんだか、綺麗すぎます。こんなにキラキラしてるんですか、あなたのクラスは」
「でも、私が見た、本当に起こったことなんです。むしろ、書いてからそうなった……っていうか」
チャットでは、この不思議な出来事を説明するのに手間取ってしまう。
「秋月先生は、どこにいるんですか?」
「私は……いないも同然です。このクラスには」
「では、誰が見てるんですか、誰目線なんですか、この話は」
私が考え込んでいると、ビデオ通話の受信音が鳴った。グレーのトレーナーを着て少し髭の伸びた大内さんが映っている。
「あー……ちょっと説明すると、エクレア王国は、いわゆる『神の視点』でしたよね。何代にもわたる大河ドラマ的な物語なので俯瞰した視点、鳥の目が必要なんです。一方で、この青春物語は虫の目で描いてほしい。当事者の生っぽい感じが欲しいんです」
「虫の目……」
「秋月先生も、参加しませんか。この話に」
「参加? どういうことですか?」
「五人目として、秋月先生のキャラクターを加えませんか、って言ってます」
「む……無理です無理です! 私があの真ん中になんか、もう眩しすぎていけません!」
私が慌てているのを見て、大内さんはクツクツと笑った。
「そうは言ってませんよ。無理に真ん中に行く必要はない。でも、影響を与える存在になって欲しいんです」
「それは、話の中で……ですよね」
「できれば、現実でも」
「勘弁してくださいよ……」
「四人の中で、一番仲良くしたいのは、誰ですか? 男子でも女子でもいいです」
「うーん……強いて言うなら、花乃ちゃんですかね。話が合いそうな感じがします」
「僕もそう思います。彼女に、近づいてみるのはどうでしょう。先生の学校生活も開けてくるはずですよ」
そう言うと、「とはいえ早く寝てくださいね、では」とビデオ通話が切れた。
私は、しばらく呆然としていた。現実の方をまず変えないと、創作も進まない。
私は、昼間、クラスで起こったことを思い出した。彼らが言いそうなことを、当てた。いや、ひょっとすると……私には大内さんに笑われるかもと思っていた、ある考えがあった。私は初稿の続きを打ち進めた。
《琴葉は、「あ」と言った》
「あ」、そりゃそうか。だって自分だし、この文も見てるし。証明しようがない。
《琴葉は、「う〜っ」と伸びをした》
すると、急に首筋の辺りがぼんやりとしはじめて、両手を上に伸ばした。背中に血流が流れるのが気持ちよく「う〜っ」という声が出てしまう。高校生として普通に勉強して、執筆もしているとどうしても同じ姿勢になりがちだ。だから体育の授業などはしっかり受けるようにしている……
《琴葉は、「ふふ」と笑った》
自分で自分を操っていることが急に可笑しくなって「ふふ」と笑いを漏らした。
同時に、確信した。
私は、書くことで、現実を動かせる……
「書く」一家だった。
コピーライターの父と、エッセイストの母は、一人娘である私に「琴葉(ことは)」と名付けた。それこそその名の通りに言葉を愛し、そして両親と同じく本ばかり読む子どもだった。
「人間の最大の発明は、物語だと思うよ」
父はよくそう言っていた。私は父、秋月文太郎の書くコピーが、今でも好きだ。いわゆる一言で「売れる」コピーではないけれど。商品に物語が生まれて、この商品をずっと大切にしたいと思わせてくれる。父の全集を、時々読み返す。もう、秋月文太郎から、新しい言葉が出てくることはない。
エクレア王国の受賞を待たずに、父は急死した。父のほっこりエピソードを書いていた母は体調を崩し、しばらく塞ぎ込んでいた。母の体調は回復したものの、エッセイは書いていない。私だけが、物語を書き続けていた。
「琴葉には、筆力がある」
父の言葉を思い出す。筆力。文章力がある、そういう意味だと思っていた。そうじゃない。筆で、何かを動かせる、力。そういうことなのではないか。
書くことが現実になるんだったら、なんだってしたい。
《文太郎は……》
キーボードを打って、消した。
父ともっと話したかった。
エクレア王国について、今書いている青春小説について、話したかった。
母に、またエッセイを書いて欲しかった。
名コピーライターのおかしな日常を、もっと読みたかった。
でも、それは、書けない。
書いたってどうにもならないことがあることぐらい、わかっていた。
私は再びキーボードを打ち進めた。
《体育の時間。花乃の打ったバレーボールが琴葉の頭を直撃し――》
「琴葉ちゃん! ごめん! 大丈夫!?」
あんなことを書かなければよかった。あまりにも痛い。倒れるとは書いたけどボールの衝撃と痛さで立っていられなくなった。
「わ、私が当てちゃったんで、保健室連れて行きます!」
「あ……大丈夫。私が勝手に当たっただけなんで」
「ううん。ちょっと私もサボりたいしさ、行こ行こ」
ここまでは全部、私の書いた通りの会話が行われていた。しかし、保健室までの道中は何も書いていない。なんの会話をすればいいのか、思い浮かばなかったのだ。そして今も、頭をぶつけたこともあって何も考えられない。
「ごめんね、琴葉ちゃんの大事な頭脳が……」
いきなりそう言われて、私は慌ててしまった。これは謙遜できるボールを投げてくれてるのだとわかっていたが、花乃をなんて呼んでいいかもわからない。
「え……っ、いやぁ……私は……あなたほどじゃ……」
台本がないと全然言葉が出てこない自分が情けなくなる。
「え! まさかのあなた呼び? 初めてだよ! でも、花乃でいいよ!」
「あ、じゃあ、花乃……ちゃん、よろしくね」
花乃はニッと笑い、少し声を小さくした。
「ねえ……聞いてもいい?」
「うん」
「琴葉ちゃんってさ、休み時間いつもスマホ高速フリックしてるよねえ」
はっとした。「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」という言葉を思い出した。
「当てていい?」
「え……」
「ズバリ! すごい束縛の強い彼氏がいる!……どう?」
私は思わず吹き出してしまった。大内さんの姿が頭を掠めて「ある意味そうかも」と言った。
「えー、いいなあ、年上でしょ、なんとなく」
「うんうん、いい大人」
「憧れちゃうなあ、なんか琴葉ちゃんって、大人びてるもんね」
「そ……そうかな、あんまり言われたことないけど……」
「いつも落ち着いてるし、読書とか好き?」
「うん、読書は大好きだよ」
そう言うと、花乃は目を輝かせた。
「やっぱり! 私、本の話をする人を探してたの! 最近みんな教科書以外の活字読まないって言っててさ……めちゃめちゃ語りたい!」
「そうそう、読む人少なくなってて、寂しいよね」
書く側としては寂しいどころではなく、危機感しかない。
そのうちに保健室に到着したが、頭痛はすっかりなくなっていた。けれども一応は養護教諭に見せて、頭に乗せる氷を貰った。花乃は、今度本を交換しよう! と言いながら去っていった、
翌日、花乃は大きめの紙袋を重そうに持ってきていた。
何それ、どうしたの、と美桜の声がする。
「ちょっとね」
そうして、端っこの私の席に近づいて、紙袋を手渡した、ずっしりと重く中には本が縦に詰まっている。
「これ、私のおすすめ。中学生の時から大好きなの」
私には、上から見ただけで、なんの本かわかっていた。
……だって、今まで散々見てきた本だからだ。
「琴葉ちゃん、エクレア王国物語、って知ってた?」
胸がいっぱいになって、涙が出そうになった。うん、すごく知ってる。でも、花乃はこの本を抱えて、持ってきたのだ。
「……ずっと、読みたいと思ってたんだ、ありがとう」
「そうなの? よかったー! 勢いで全巻持ってきちゃったけど、そういえば読んだことある場合は意味ないなーって途中で気づいて、引き返せなかったんだぁ。ぜひ読んで! 誰推しかも知りたいし! ちなみにね、私はコーラ王子が好き! コーヒー王子とか紅茶王子がやっぱり王道だと思うけど、コーラ王子は健気だから、憎めないんだよねー、って言ってもまだ読んでないからわからないか、とにかく読んでほしい!」
私は何度も頷いた。そうそう、コーラ王子は私のお気に入りキャラでもある。
「ありがとう、貸してくれて」
そして、読んでくれて。誰かに勧めるほど、愛してくれて。
「大谷翔平現象……? なんですかそれは」
相変わらずビデオ通話の時はグレーのトレーナーを着ている大内さんが呆れた顔になった。
「すごいことが起きすぎてて、現実を書くと逆に嘘っぽくなっちゃうんです」
私は、自分の身に起こっていることをかいつまんで大内さんに話した。
「いいじゃないですか。このまま楽しく高校生活を送ってみてください、書くことはいつでもできますから」
「え、いいのですか?」
「花乃ちゃんとこのまま話してみてください、四人だって、ただキラキラしてるだけじゃないはずです」
「はい……」
大内さんが花乃ちゃん呼びをすることに、少しだけ心がざわついた。
「多少書けない時があってもなんの問題もないです。エクレア王国は続いてるし、僕は先生の筆力を信じてます」
「大内さん、あの……筆力って、大内さん的にはどのようなものだと思いますか?」
大内さんは少し考えてから言った。
「秋月先生の筆力は、世界を動かします」
「そんな……」
「僕はお世辞は言いませんよ。エクレア王国はあんなにファンタジーなのに、自分ごとのように受け取れる。子ども向けの小説かと思っていたら、僕も夢中になってしまいました。本当に、エクレア王国があったらいいのにな、って思いました。だから、本当に嬉しいんですよ、それに……」
大内さんは珍しく饒舌だったが、急に言い淀んだ。
「僕は、あなたのお父さんに憧れてました」
「秋月文太郎、ですか」
「文太郎さんみたいな、コピーを書きたいと思った、最初は広告業界を目指していました。けれども自分自身には言葉を生み出す才能がないことに気づいて……でも、最大限言葉には関わりたくて、ここに入ったんです」
「そう……だったんですか」
「まさか、お嬢さん、琴葉さんの担当をするとは夢にも思わなかったですけどね」
大内さんは「ごめんなさい、語りすぎてしまいました」と照れ笑いをしたが、私は一緒になって笑うことができなかった。胸に熱いものが込み上げて、何が言おうとすると涙がこぼれそうだった。でも、それでよかった。
もし話せてたら、うっかり、大内さんに、告白してしまうところだったから。
1週間後、だいたい一般の高校生がエクレア王国物語を読破できる期間を置いて、私は花乃にもらったままの紙袋ごと学校に持ってきた。紙袋を見て、教室にいた花乃は目を輝かせた。
「琴葉ちゃん! すごい語りたい気分! 今日、一緒にお昼食べよ!」
花乃と話すときは、もう、台本は書いていなかった。
学内の食堂は「カフェテリア」という看板がかけられていたものの、その実やっぱり学食でうどんやカレーなど様々な匂いが混ざっていた。購買のパンを買う生徒やトレイを持つ生徒で溢れていた。実は私はカフェテリアに行ったことがなかったが、この青春四人組はいつも決まった席があるらしい。私はこのテーブルの端、花乃の向かい側を促されておずおずと席についた。美桜は理玖や絢斗と談笑している。
ガパオライスを運んできた花乃が席に着くなり私に話しかけてきた。
「ね、ねっ琴葉ちゃんは、誰推し?」
「うーん、やっぱりコーラ王子かな、紅茶王子もいいよね、冷静な感じが」
私はなるべく読者が好きそうであろう、無難な答えを言った。
「なんかさ」
花乃が可笑しそうに言った。
「紅茶王子は絢斗くん、コーラ王子は理玖くんに似てるよね、なんとなく」
「たしかに」
「でね、美桜ちゃんは、やっぱりエクレア王女にぴったりだなって思って」
えーなんのはなしー?と、美桜が私たちの方を見て華やかに笑う。理玖と絢斗の視線も続いた。
私はハッとして、花乃の顔を見た。
花乃のふんわりした丸顔、雰囲気。甘やかな声。
ぜんぶ、ぜんぶ……あの、才気煥発な……
「花乃ちゃんは、パンナコッタ姫……?」
思わず呟くと、いやー、そんな恐れ多いわあ……と謙遜する花乃の声が遠くなっていく。
私は、自分の描いた登場人物を思い浮かべた。
コーヒー王子、ルイボス侯爵、ジンジャー騎士団長、フランボワーズ姫、
パズルのように、次々とクラスメイトの姿がはまっていく。
ここは、天砂学園2年3組。
そして……エクレア王国。
どこかで馬がいなないた声が聞こえた気がした。
エクレア王国は......終わらない。
