玉響の花雫  壱

「マスター‥‥私の我儘でアルバイトとして雇って
 くださり本当にありがとうございました。」


ついに来週から新しい会社で、新社会人としての入社式を迎える


卒業旅行やサークルのみんなとの時間も勿論作りつつも、とにかくギリギリまでここで働けてよかった‥‥。


窓際を眺めると誰もいない空間に賭けには負けてしまったけれど、ここで過ごした時間は本当に幸せだった。


『霞さん』

「はい、マスター。」

『最後に一杯飲んでいきませんか?
 私からのお祝いです。』

「わぁ!嬉しいです‥‥ありがとうございます!」


いつもと変わらない温かい表情と、優しい声色でカウンターの椅子をひいてくれたので、お辞儀をしてそこへ座らせてもらった


次ここへ来る時は、マスターのブラックコーヒーを
余裕で美味しく飲める大人になっているだろうか‥

丁寧に豆を挽くこの音も、この香りも、日常になりすぎていて、急に寂しく感じ、涙が溢れそうになってくる


『霞さんアルバイトご苦労様でした。
 あなたの人柄を信じて雇ったことを
 わたしは誇りに思いますよ。
 霞さんが来るのをいつでも
 ここでのんびり待っています。
 こちらこそ来てくださって
 ありがとうございました。』


私のために淹れてくれた珈琲に、我慢していた涙が溢れ、テーブルにいくつもの雫を落としていく


たかがアルバイト。ただのお小遣い稼ぎ。

この珈琲店に来る前は、アルバイトというのは
そういうものだと思って働いてきた

でもここでは、話し方や接客の仕方一つでお客様が笑顔になってホッとしていただけることを知り、お金を稼ぐ以上の経験ができ多くを学べた場所でもある。


口数が多いマスターではないけれど、悩んだ時、悲しい時、嬉しい時にいつも素敵な言葉を送ってくださった



「‥グスッ‥‥とても苦いです。」

『では蜂蜜でも入れなさい。今はまだ
 無理せずそのままでいいんですよ。』


泣きながら頷くと、マスターは蜂蜜を用意してくれ私はその甘さをしっかりと忘れないように一口ひとくち
大切に飲んだ



「はぁ‥‥‥終わっちゃった‥‥」


いつもは裏口から帰る私は、その足で表通りに向かうと、喫茶店の前に立ち素敵な店構えを眺め色々と思い出していた。


ここで筒井さんに出会えて、珈琲をお席まで何度運んだのだろう

いつもお似合いのスーツ姿がもう見れなくなるのはとても悲しいな‥‥

それでもやっぱりここに来て良かった‥‥


筒井さんどうかお元気でいつまでも素敵でいらしてください‥‥



『こんばんは。』


えっ?