玉響の花雫  壱

どうしよう‥‥‥‥あと15分ほどで喫茶店のバイトの時間は終わるのに、彼がここに来たことで一気に
帰りたくなくなってしまった。

マスターと笑顔で何かを話しているそんな表情にさえ、心が落ち着かない‥


Openの看板立てを店中に片付けると、カウンターに座っていたあの人が、私を見てニコっと笑ってくれたので
緊張しつつも小さくお辞儀をした。


ああ‥‥‥今日アルバイトに来て良かった‥‥


話すことは出来ないけど、自分だけに向けられたこの笑顔だけで今日1日がいい日だって思える。


『霞さん、そろそろ21時なのでお仕事は上がって
 くださいね。傘はありますか?』


テーブルを拭き裏の片付けをしていた私は、帰る支度をした後、マスターの呼びかけに表に向かった


「はい、マスター。今日もありがとうございました。
 傘は持ってますので平気です。」


ペコリとお辞儀をすると、カウンターの向こうにいた彼とまた目が合う


話しかけようか頭だけ下げようか、一瞬モヤモヤと悩んでしまったけど、黙って帰るのもおかしいと思い、唾をゴクリと飲み込んでから深呼吸をした。


「ッ‥あ、あの‥良ければこの傘を使ってください。」


鞄から水色の折り畳み傘を取り出しそっとカウンターに置くと、傘に視線を落とした彼が私の方にまた視線を向けた。

外はまだかなり雨が降っていていつ止むかも分からない‥‥


筒井さんは珈琲も殆ど飲み終わっていたようだから、
この傘が帰るきっかけになればいいなと思ったのだ。


『ありがとう‥‥とても助かるけど君の傘は?』

「えっ!?あ‥‥だ、大丈夫です。もう一本持ってる
 んです。その‥素敵なスーツがまた濡れてしまうと
 いけませんし、夜はまだ寒いのでどうぞ風邪など
 引かれませんように。」


緊張しながらもニコっと笑ってからお辞儀をすると、彼が折り畳み傘を手に取りそのままカウンター席から
立ち上がった。


『ありがとう。遠慮なく使わせて頂きます。』

「お、お役に立てて良かったです‥‥
 では‥‥ッ‥そろそろ失礼します。
 マスターお疲れ様です。」

『はい、霞さん。
 また月曜日にお会いしましょう。』


2人にまた頭を下げると裏口に向かって歩き、ドアを開けた後そこから思い切り走り出す。


嘘をついてごめんなさい‥‥。
傘なんて持ってないんです‥‥‥。


きっととても優しい人だから持ってないと伝えれば
受け取ってもらえないと思ったから咄嗟に嘘をついてしまった。


スーツが濡れてしまうことも、風邪をひいてほしくないと言ったことも嘘じゃない‥‥
ただ‥筒井さんにそうしたかった‥‥。


こんなにもあなたに恋焦がれる幼稚な大学生がいるなんて筒井さんは知らないでいい‥‥


でも‥どうしようもなく好きなんです。


土砂降りの中を走りながらも、あの人のために何かができたことが嬉しいなんて‥‥恋は未知の世界だ‥