湯雷

これは、2025年夏にSNS上で拡散した「湯雷」と呼ばれる現象について、現在も散発的に続いているとされる記録を再構成したものである。

その湯は、山の奥のさらに奥にあった。湯を囲むのは岩と木だけで、人が用意した設備らしいものはなかった。料金表も、利用の決まりもない。湯舟の脇には、着替え用と思われる小さな小屋がひとつある。木々が垂れ下がり、谷風がまっすぐ抜ける静かな沢に、岩をくり抜いた小さな湯舟がひとつ――そこに、二つの湯口が寄り添うように並んでいた。
かつては両方から勢いよく湯が流れ落ちていたという。湯気が谷を満たし、夜には月を照らすほどだったらしい。けれど右の湯口は、いつの頃からか沈黙したままになった。残った左の湯口も、近年は細くなり、地元の人は「もうすぐ枯れるかもしれない」と言い合っていた。山を訪れる人々も、「最後に一度だけ入りたい」と口にして湯に浸かっていた。
その、終わりかけの湯をめぐる小さな関心――そこへ、あの投稿が現れた。深夜、フォローもフォロワーもなく、アイコンも初期設定のままの、誰とも知れぬアカウントが、たった一度だけ、こう呟いた。

@YURAI_0000
その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る。

何の画像も添えられていなかった。それでも、その文はどこか強い引力を持っていた。それが人の気持ちを揺さぶり、瞬く間に憶測が拡散した。「どこの湯だ?」というコメントが夜のSNSを埋めた。数時間後には特定され、翌朝にはもう、温泉愛好家たちが山へ向かっていた。
湯がある谷にたどり着いた者たちは、二つの湯口がある湯舟の前に立ち尽くした。左からはわずかに湯が落ち、右は乾いたまま――誰もが「ここで間違いない」と確信した。湯舟の縁には、黒く焼け焦げたような跡があった。誰かが、確かめるようにその周りをスコップで掘りはじめた。泥をかくたび、湯気が立ち、硫黄の匂いが強くなる。やがて、硬いものに触れた。
土の中から現れたのは、奇妙な小像だった。縄文の荒々しさもなく、陶器のように滑らかな肌──六体の土偶。それぞれの表情が、湯のかたちをしているように見えた。そして、それぞれの胸の中央に、墨で書かれたような文字があった──湯香、湯音、湯流、湯面、湯華、湯塊。
さらに掘り進めると、金属とも陶器ともつかぬ灰色の箱が出てきた。側面には六つの刻印、そしてかすかに浮かぶ二文字――湯雷。手に取ると、かすかに温かかった。恐る恐る蓋を開けると、中には一枚の古びた紙──湿って、端が黒ずんでいる。そこにはこう書かれていた──あの投稿とまったく同じ文。
「その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る」
その場にいた誰もが息をのんだ瞬間だった。その瞬間、山が、唸った。風が逆流し、谷が暗く染まる。木々が裂けるような音──空を見上げると、雲が底を抜けたように広がり、稲妻が枝を走る。
「逃げろ!」
人々は湯舟の脇の小屋へ駆け込む。扉を閉めるや否や、白い光と轟音が同時に襲った。耳が割れ、視界が真白に塗りつぶされる。胸の中で骨が鳴るほどの衝撃──雷が、湯舟に落ちた。
やがて、風が止んだ。雷も雨もやみ、谷に静けさが戻る。小屋の扉を押し開けると、薄い湯気と正午の光──湯舟のほうから、「コポコポ……」とやさしい音が聞こえる。近づくと、二つの湯口から湯が出ていた。右も左も、同じ温度で、同じ量で──透明で、あたたかい湯。長い年月、沈黙していた右の口が、再び息を吹き返していた。そして、湯舟の縁の黒く焼け焦げたような部分の横に、同じような模様ができていた。
「……帰ろうか」
誰かが言った。誰も反論しなかった。この場所に、もうこれ以上何かを見つける必要はない。湯は流れ、生きている。それで十分だと思えた。山を下りる道すがら、雷に打たれた木の破片が散らばり、地面には湯気が残っていた。全員が無言で歩いた。
麓の集落に着くと、誰からともなくSNSに投稿がなされた。
「【現地報告】止まっていた湯口から湯が出てきた」
「湯雷、マジで起きた」
「掘った跡も土偶もなくなってた。夢と違うよ」
夜までのうちに、写真と動画がいくつも拡散され、「#湯雷#復活した右の口」がトレンドの上位に並んだ。

この一連の流れを、東京の小さなワンルームでじっと追っていた女性がいた──名はイブリダ。東京温泉大学に籍を置く研究者で、専攻は温泉考古学だ。ノートパソコンの画面には、複数のタブが開きっぱなしだった──学会誌のPDF、SNSの動画、衛星地形図、そして温泉地帯の電磁分布データ。時計は深夜2時を回っていたが、イブリダは目を離さなかった。
「……二つの湯口。一方が止まり、もう一方が弱る。その中で一本の投稿。そして雷のあとの復活。こんな出来事、偶然で済ませていいはずがない」
イブリダの研究テーマは、「温泉地における人為と自然信仰の境界」──温泉が聖なる場所として祀られていた時代の痕跡を、古文書や伝承資料と現代の地熱データを突き合わせて検証している。彼女にとって、湯雷の出来事はまさに生きた事例だった。祈りと科学が再び交わる地点──資料の中で目にしてきた、雷と湯が結びつく古い伝承が、現代に再現されたかのように見えたのだ。
今もSNSでは活発に議論が行われている。画面の光が、部屋の壁にゆらゆらと反射している。動画のコメント欄を指でスクロールするたび、「奇跡」「予言」「神話」「AI生成」──無数の言葉が流れていく。イブリダは背もたれから身体を起こし、手帳の新しいページを開いた。
「これは、誰かが見た夢じゃない。最初に投稿があった。文字があった。なら、その向こうに書いた人がいるはず」
研究者としての理性よりも先に、どうしても確かめたいという感情が勝った。紙の上に、固い筆圧で書き込む。「はじめの投稿主に会う」
ペン先が震えて、インクが滲む。それが彼女の次の研究テーマになった。
翌朝、イブリダは大学の図書館にこもった。「発信者情報開示請求」「プラットフォームの法的責任」「匿名表現と公共性」──法学部の論文をいくつもプリントアウトして、蛍光ペンで線を引く。
「不特定多数に影響を与える投稿であれば、公益性を理由に開示を求めることができる……」
読み進めるうちに、法の網の目の細かさと、その隙間の大きさに気づく。個人ではまず勝てない。けれど、やらなければ何も始まらない。
夜、イブリダは机の上にノートパソコンを置き、自分の顔が画面に映るのを確認した。背後には何もない──白い壁と、淡い光。録画を始める。
「イブリダと申します。東京温泉大学に所属し、温泉考古学の研究を行っています。今日、ひとつお願いがあります」
声は落ち着いていたが、胸の鼓動がマイクに触れるほど高鳴っていた。
「湯雷と呼ばれる現象に関連するとされる、SNS上の投稿があります。投稿主は不明です。私はこの発信者情報を、法的に開示請求します。そのための費用を、クラウドファンディングで集めたいと思います」
数秒の沈黙ののち、彼女は微笑んだ。
「この時代の奇跡を、記録として残したいのです」
録画を止めたあと、指先が少し震えていた。だが、迷いはもうなかった。
翌日、サイトが公開された。タイトルは簡潔に「#湯雷現象の調査」――説明欄にはこう記した。
「本プロジェクトでは、自然現象と人間の言葉が重なったとされる湯雷の投稿について、発信の経緯を調査します。その過程で必要となる、発信者情報の開示請求等の法的手続きを行います。ご支援いただいた資金は、弁護士費用および各種請求手続きに充てられます」
開始からわずか3時間で目標額を超えた。コメント欄には、「真実を知りたい」「研究支援」「信仰ではなく記録を」という言葉が並んだ。イブリダは、更新ボタンを押すたびに増えていく数字を見ながら、深く息をついた。
「……ありがとう」
画面の明かりが彼女の頬を照らしていた。イブリダは、そのまま画面を見つめていた。
クラウドファンディングの成功から2週間後、イブリダのもとに弁護士事務所からメールが届いた。
「発信者情報開示請求、受任いたしました」
彼女はノートパソコンの前で深呼吸をした。クリック一つで現象を呼び起こせる時代なのに、真実へたどり着くためには紙と印鑑が必要なのだ。申立書に書かれた文面は、彼女がこれまで読んできたどんな論文よりも無味乾燥だった。
【申立人】東京温泉大学所属 研究者 イブリダ
【相手方】SNS Japan株式会社(日本代理法人)
【請求内容】アカウント「@YURAI_0000」に関する発信者情報の開示請求
【理由】当該投稿は社会的影響を有する自然現象に関連し、学術的・公益的価値を有するものであり、発信者を特定することが当該現象の検証および記録に不可欠であるため。
提出書類は十数枚に及んだ。弁護士の指示に従い、湯雷現象の記事、画像・動画の記録、学術的な分析結果を添付した。書面にはイブリダ自身の署名と、法的効力はないものの、社会的関心の広がりを示す資料として、クラウドファンディング支援者の署名リストも付けた。
数日後、弁護士経由でSNS Japan株式会社から返信が届いた。
「当社では、アカウント“@YURAI_0000”に関する登録情報を保有しております。ただし開示には法的手続きが必要です」
存在は、認められた。イブリダは画面を見つめながら、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「……いたんだ、本当に」
弁護士の助言のもと、東京地裁に発信者情報開示の仮処分の申立てを行った。費用はおよそ120万円──クラウドファンディングの残額がぎりぎりだった。期日は平日の11時。霞が関のビル群の中、イブリダは書類を抱えて歩いた。受付で名前を呼ばれると、案内に従って廊下を進んだ。審尋室の扉を開けた瞬間、空気が肌に触れ、背筋がわずかに震えた。
裁判官の質問は淡々としていた。
「あなたはこの投稿によってどのような被害を受けましたか?」
「被害ではありません。記録です」
「記録?」
「この投稿は、自然現象と人間の意識の交錯点です。学術的な検証が必要だと考えています」
一瞬、静まり返る。裁判官は頷き、こう言った。
「公益性の有無について検討します」
申立てから10日、イブリダは毎晩、メールの受信ボックスを開いた。通知が鳴るたび、心臓が跳ねる。8月12日、弁護士からメールが届いた。クリックする手が震える。
「東京地方裁判所は、本件発信者情報の開示請求を認める決定を下しました」
呼吸を整えようとしても、胸が上下する。モニターの光の中で、イブリダの瞳がわずかに潤んでいた。
「……届いたんだ」
そして、SNS Japan株式会社から弁護士事務所に情報が正式に送られる日が決まった――8月13日、13時。
開示情報には、アカウント作成時のIPアドレス、登録メール、アクセスログの一部が含まれるという。イブリダは手帳に日付を書き込み、その下に小さく一行添えた。
「湯雷――人の指が打った文字か、それとも湯そのものが書いたものか」
そして、窓の外を見た。東京の空は青く澄んでいたが、遠くの雲の端が、ほんのわずかに光った気がした。
開示予定日の前夜。イブリダはモニターの光に照らされながら、深夜のSNSを検索していた――「湯雷」。いつものようにキーワードを打ち込む。次の瞬間、画面がざらついた。次々と、新しい投稿が流れはじめる。

@YURAI_0001
湯雷、まだ沈まぬ。
@YURAI_0002
湯雷の底に、もう一つの口。
@YURAI_0003
湯雷は見ている。

スクロールするたび、数字が増えていく――0004、0005……0046……0079……0110。止まらない。すべて同じ構造、同じ静けさ――どの文にも「湯雷」が含まれていた。投稿時刻はいずれも23時59分台だった。イブリダは息を止めた。胸の奥で、鼓動が湯の音と重なる。
翌朝、イブリダは弁護士事務所に電話をかけた。
「先生、開示請求……一旦止めてください」
「え?どうしてです?」
「同様のアカウントが、100以上、突然現れたのです。いずれも、湯雷についての投稿でした」
「確認します……」
電話口が沈黙した。受話器の向こうで、キーボードを叩く音がかすかに響いた。
昼過ぎ、折り返しがあった。
「イブリダさん、SNS Japan株式会社からの回答ですが――その100以上のアカウント、発信元が一つに見えるそうです。IPも、時間も、一致しているようだ、と」
「一つ?つまり……?」
「同じ場所から100人以上の指が同時に打っている、もしくは、同じ何かが100以上の端末を使っている」
次の日、@YURAI_0111 から @YURAI_0222 が現れた。また100以上――すべて一回きりの投稿だった。今回の文の末尾には、雷が落ちたとされている時刻「11:59」が付されていた。

@YURAI_0220
湯雷、再び息づく。11:59
@YURAI_0221
湯雷の声、ひとつではない。11:59
@YURAI_0222
湯雷はまだ終わらない。11:59

翌日以降も、同じ時刻に、同じ規模の投稿が現れた。3日目も、4日目も、それは続いた。
そして7日目の夜、最後の群れが現れた。

@YURAI_8886
湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。
@YURAI_8887
湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。
@YURAI_8888
湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。湯雷は永遠に続く。

その一文を見た瞬間、イブリダは手を離した。ノートパソコンが床に落ち、鈍い音を立てた。背中を走る冷たい汗――視界の端で、窓の外が一瞬だけ光った。
翌朝、弁護士事務所に呼び出された――机の上には分厚いファイル。弁護士は眼鏡を外して、言葉を選ぶように言った。
「イブリダさん……もう、やめましょう。これは、法の領域じゃありません。SNS Japan株式会社も、これ以上の調査は不可能と回答してきました。データが……生きているように動くそうです」
イブリダは頷いた。もう、何も言えなかった。
その夜、イブリダはノートパソコンを閉じた。部屋は暗く、外の街灯がレースのカーテンを照らしている。壁に、一枚の紙が貼られていた。研究の初期に、資料として打ち出したものだ。いつから貼っていたのかは、はっきり思い出せない。

@YURAI_0000
その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る。

文字を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
「……もう、十分」

京都市内の北端、山のふもとに旧観測棟がある。屋上室には窓が一枚だけあり、雲の流れがそのまま見えた。スピリチアーレは、そこを自分だけの研究室にしていた――正式な所属は、京都温泉大学・気象精神動態学研究室。しかし実際には、雷の観測データと映像機材しか置かれていない――助手も学生もいない、彼女ひとりだけ。壁には、落雷位置予測のモニター、横の机には、編集用のノートパソコンがある。そのどちらも、白く光っている。
6月の終わり。スピリチアーレは、小さなメモ帳に「湯雷」と書いた――雷を読む研究から、雷を見せる実験へ。彼女はいつも、気象と映画の境界に立っていた。「奇跡は、編集できる」――それが信念だった。
スピリチアーレは新作映画の候補地を探していた。そして、山深くにあるひとつの野湯を見つける。二つの湯口を持つ古い湯舟――片方は長く沈黙しており、もう片方もぬるく細く、いつ止まってもおかしくない。「終わりかけの湯ほど、美しいものはない」――そう考え、そこに決めた。
準備は7月の初めに始まった。夜ごと山に入り、湯舟の縁にセンサーを埋めた。周囲の木々にカメラを隠し、赤外線で湯気を拾えるよう調整した。そして、右の沈黙した湯口の裏に、小さなバルブを仕込んだ。その湯口は完全に死んでいたが、岩の裏には浅い温泉脈がまだ残っていた。そこへ極細のパイプを通し、遠隔で圧をかけると、その湯が噴き出すようにした。
それだけでは物語にならない。スピリチアーレは小道具を作った――六体の土偶、湯舟の縁の焼け跡、灰色の箱、古い紙。土偶は粘土で成形し、釉薬を塗らずに低温で焼いた。湯香、湯音、湯流、湯面、湯華、湯塊などの文字は筆ではなく金属棒で刻んだ。
焼け跡はガスバーナーで焦がし、湿った木炭を擦り付けて時間の跡をつくった。古い紙には、投稿予定の文を印字し、灰色の箱に収めた。夜ごとそれらを運び、人目のない時間に埋めていった。泥の匂いと硫黄の匂いが混ざる。小動物の足跡の上に、自分の足跡を重ねていった。
7月13日、22時。スピリチアーレは机に向かって息を吸った。画面の中では、落雷確率98パーセントの座標が赤く点滅していた。雷は、明日の正午にその谷に落ちる。すべて整っている。投稿プログラムを開く。文を打ち込む。
「その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る」
アカウント名は「@YURAI_0000」――アイコンも説明文もなく、フォロワーもゼロ。そして、発信の日時を7月13日23時59分に設定した。
投稿は、静かに発信された。そして、すぐにスピリチアーレが持ついくつかの裏アカウントで広めた。数行のコメントを添えて――「こんな文見たことある?」「これ、どこの湯の話?」数分後、誰かが反応した。誰かが拡散した。深夜一時には、「#湯雷」というタグが生まれていた。
翌朝、人々が山に向かっていた。スピリチアーレは部屋のモニターでその様子を見ていた。木々のカメラが送る映像には、湯舟の周りに数十人の影が集まっている――手にはスマホ、声をひそめながら笑う人々。彼女は息を止めた。
正午になる。轟音、閃光、風――すべてが一瞬で白くなる。空が裂けた。カメラが震える。その時、バルブを開くスイッチを押す。止まっていた右の湯口から、透明な湯が音を立てて溢れた。スピリチアーレは画面の前で、手を握りしめた。
「……これで、終わり」
その声は小さく、まるで祈りのようだった。
その後、SNSは「湯雷」で埋まった――奇跡、神の湯、再生。スピリチアーレはただモニターを見つめ、指先でペンを回し続けた――映像も、音も、完璧。1か月後、その映画が世に出る頃、彼女はきっと話題の中心にいるはず。風が吹いた。部屋の窓がかすかに鳴る。彼女は微笑んで、低くつぶやいた。
「やっぱり、奇跡は自分で作るもの」
数日後、SNSのトレンドに一人の名前が上がった――イブリダ。東京温泉大学に所属し、温泉考古学を研究しているらしい。スピリチアーレは彼女の動画を開いた。そこには、淡い声で話す若い女性がいた。
「この現象は偶然ではありません。どこかに意図がある。私はその痕跡を辿ります」
まるで映画の一場面のようだった。胸の奥で何かがざわついた。けれど、すぐに自分に言い聞かせた。
「大丈夫。開示請求なんか通るわけがない」
そう口にして、しばらく画面を見つめたまま、瞬きを忘れていた。
だが気づけば、数日おきに更新されるイブリダの動画を毎晩チェックしていた。彼女は分析を進め、視聴者を増やし、その目は次第に熱を帯びていっているように見えた。ある夜、スピリチアーレはまた動画を開いた。冒頭、淡々とした口調でイブリダが言った。
「本日、裁判所が開示請求を認めました」
指先が止まった。コーヒーの液面がかすかに揺れる。
「……嘘でしょ」
脳裏に浮かんだのは、埋めた土偶、焼け跡、そして遠隔バルブ――もし調べられたら、すべて露呈する。
スピリチアーレは、照明を落とした研究室でノートパソコンに向かい直した。窓の外は暗く、雲の流れだけがゆっくりと動いている。彼女は、かつて映画のために組んだ仕組みを呼び出した。奇跡を見せるためのものだったが、今は別の使い道がある。設定を変える――それだけで十分だった。
画面に、短い文を打ち込む。

@YURAI_0001
湯雷、まだ沈まぬ。

時刻を指定し、数を確かめる。迷いはなかった――実行。端末の隅で、同じような投稿が並びはじめた。数は、彼女が見届けるより早く膨らんでいく――画面の端から、追えなくなるほどに。スピリチアーレは途中で視線を外した。すべてを見る必要はない。あとは、世界が勝手に混乱する。

@YURAI_0059
湯雷、息をしている。
@YURAI_0060
湯雷の声、まだ静かだ。
@YURAI_0061
湯雷、右と左が同じになる。

「……これでいい」
そう呟いて、ノートパソコンを閉じた。 
約1週間後の朝、イブリダが動画を投稿した。
「開示請求を取り下げます。ここまでの記録を一旦整理します」
その宣言を見て、スピリチアーレはようやく笑った。だが次の瞬間、ふと気づいた。この騒動で、もう映画を出すことはできなくなった。世界が本物の奇跡と信じた以上、自分が仕掛け人だと名乗ることはできない。
「……まぁ、人生なんてそんなもんか」
スピリチアーレはそう呟いて、ノートパソコンを閉じた。

その夜、スピリチアーレはいつものようにSNSを開いた。同じ時刻、東京ではイブリダもまた同じ画面を見ていた。タイムラインの最上段に、ある投稿が現れた。

@YURAI_9876543210
その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る。

投稿時刻は今、23時59分――京都でも、東京でも、二人の顔が同じように驚きに染まる。雷鳴が遠くで鳴った。その音は、どちらの街にも同じ強さで届いた――「湯雷」。
その後、@YURAI_9876543210 の末尾の数字が夜ごとに減少していった。規則性はなかった。減らない日もあれば、一晩で大きく欠けることもあった。ただ、投稿される文だけは毎回同じままである。

@YURAI_9876543210
その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る。
@YURAI_9876542199
その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る。
@YURAI_9876383936
その湯舟に湯雷が落ちるとき――もうひとつの湯口から湯があふれ出る。

どこで止まるのかは、誰にも分からない。なお、本稿作成時点でも、同様の減少を示す記録が散発的に確認されている。