この学校には、呼んではいけない名前がある。
それは怪談として語られるにはあまりにも具体的で、噂として笑い飛ばすには妙に現実味があった。
誰かが授業の合間にひそひそ話す。
「理科室で変な文字を見たらしいよ」
「名前だったらしい」
「呼んだら、何かを失うんだって」
大抵はそこで話が終わる。
怖がるふりをして、笑って別の話題に移る。
けれど、理科室の前を通るときだけ、誰もが少しだけ歩く速度を速める。
完全に信じてはいない。
でも、完全に忘れてもいない。
そんな距離感で、この噂は何年も生き延びてきた。
僕の学校では、中学二年生になると理科の授業で炭酸の実験をする。
教科書に載っている、ごくありふれた内容だ。
ペットボトルの炭酸水をビーカーに注ぎ、泡が発生する様子を観察する。
温度や気圧によって、泡の立ち方が変わる、そんなことを学ぶための実験。
理科室は、昼間は明るい。
黒い机、金属の器具、薬品棚。
どこにでもある学校の一室だ。
けれど、放課後になると様子が変わる。
窓から差し込む夕日が床に長い影を落とし、ガラスの器具が鈍く光る。
昼間には聞こえなかった音が、やけに目立つ。
蛇口から水が滴る音。
換気扇の低い唸り。
遠くの部活の掛け声。
あの日、僕が理科室に残っていたのはただの偶然だった。
実験器具の片付けを頼まれただけだ。
特別な理由なんて何もない。
正直、なんで僕ひとりなんだ、とは思った。
でも、断る理由も見つからなかった。
早く終わらせて帰ろう。
そう思って、黙々と片付けを始めた。
ビーカーを洗い、布巾で拭き、棚に戻す。
単純な作業の繰り返し。
その途中で、ふと思い出してしまった。
ーー泡に、名前が浮かぶ。
昼間は忘れていた噂が、静まり返った理科室の中で急に現実味を帯びた。
くだらない。
そう思いながらも、心のどこかで確かめてみたいという気持ちが芽生えていた。
ほんの、出来心だった。
授業で余った炭酸水のペットボトルを手に取り、ビーカーに注ぐ。
しゅわっと音を立てて、泡が立ち上る。
白い線が、無数に絡まり合う。
最初は、ただの泡の流れにしか見えなかった。
でも、次第にそれがーー
意味を持った形に変わっていく。
文字だ。
そう認識した瞬間、背中を冷たいものが走った。
「それ、こぼれるよ」
声がした。
驚いて手を止めると、炭酸水はビーカーの縁ぎりぎりまで来ていた。
慌てて蓋を閉め、声のした方を見る。
窓際に、少女が立っていた。
僕たちと同じ制服を着ている。
それなのに、僕の記憶のどこにも彼女はいなかった。
まるで、最初から存在していなかったみたいに。
「今、文字、、、見えた?」
彼女は確認するように言った。
否定しようとした。
けれど、なぜか喉が動かなかった。
「、、、見えた」
そう答えると、彼女は安堵したように小さく息を吐いた。
「よかった。じゃあ、話せるね」
その言い方が、まるで“条件“を満たしたかのようで、少しだけ怖かった。
彼女は名前を名乗らなかった。
僕も、聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
それが、全ての始まりだった。
それから、彼女は毎日、放課後の理科室に現れるようになった。
約束をしたわけでもない。
時間を決めたわけでもない。
それでも、僕が放課後の理科室に行くと、彼女はそこにいた。
窓際の席。
夕方の光を背に受けて、静かに立っている。
最初のうちは、少し距離があった。
同じ空間にいながら、互いに何を話せばいいのかわからず、ビーカーの泡が消えるまで、黙って過ごすことも多かった。
彼女は炭酸水を注ぐ。
白い泡が立ち上り、やがて消える。
それを、ただ眺めている。
「どうして、毎日泡を見てるの?」
ある日、僕はそう聞いた。
理由を深く聞くことができなかった。
聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。
少しずつ会話は増えていった。
「今日、天気いいね」
「あの芸人面白いよね」
どれも、どうでもいい話ばかりだ。
でも、そのどうでもよさが、心地よかった。
彼女は、授業の話をする。
先生の話もする。
でも、自分がその場にいたかのような話し方をするのに、実際に彼女の姿を見た記憶は、どこにもなかった。
「何年生なの?」
「二年だよ」
「僕と同じじゃん。じゃあ、クラスはどこなの?」
何気なく聞いた質問に、彼女は少しだけ間を置いた。
「、、、理科室」
冗談かと思った。
でも、彼女は笑っていなかった。
学年全体で撮った集合写真。
部活動の名簿。
廊下に貼られた掲示物。
どこを探しても彼女はいなかった。
それなのに、理科室にいるかのだけは、誰よりもはっきりと“そこにいる“。
「ねえ、名前、教えてよ」
言葉にした瞬間、胸が少しだけざわついた。
「名取紗凪(なとりさな)」
その名前を聞いたとき、不思議と泡が弾ける音が重なった気がした。
「、、、綺麗な名前だね」
「そう?」
彼女は、少しだけ笑った。
「じゃあ、君は?」
「白井想空(しらいそら)」
「想空、、、」
彼女は、何度か小さく口の中で繰り返した。
翌朝、僕は先生に生徒名簿を借りた。
理由は聞かれなかった。
ただ、「他の人には見せないこと」と念を押された。
昼休み、教室の隅でページをめくる。
だけど、「名取紗凪」という名前はどこにもなかった。
クラスメイトに聞いても、反応は同じだ。
「そんな人、知らない」
「転校生?」
「幽霊じゃないの?」
笑い話にされるたび、胸の奥が冷えていく。
その夜、僕は家で残りの名簿を広げた。
ページをめくる音がやけに大きく響く。
一年、二年、三年。
だんだんと時間を遡っていく。
そして最後の一冊。
十年前の二年生の名簿。
そこに、一箇所だけ不自然な空白があった。
本来名前があるべき場所に、何もない。
その瞬間、背筋が凍りついた。
翌日、僕はそのことを彼女に話した。
「ああ、、、そこ」
彼女は、あっさり言った。
「私の名前があった場所」
「どうして、、、」
「いじめられてたの」
彼女は淡々と語った。
無視されて。
名前を呼ばれなくなって。
まるで存在しないみたいに扱われて。
「最初はね、まだ平気だったんだよ。仲良かった子が何人かは話しかけてくれてたから」
でも、時間が経つにつれて、それもなくなったらしい。
「この学校の生徒ってね、誰にも名前を呼ばれなくなると、少しずつ消えていくの」
彼女は、ビーカーの泡を見つめながら言った。
「最初に名前。次に声。最後に残るのは、ほんの一瞬の泡だけ」
その言葉の意味が、僕にはよくわからなかった。
だけど、その言葉がなぜか胸に沈んだ。
「誰かから聞いたことがあるんだけど、名前を呼ばれないと永遠に忘れられてしまうってほんと?」
「ほんとだよ。誰の記憶にも残らないまま、ただ消えていく。そんなの、つらすぎるよね」
その日、彼女はずっと、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
翌日からはいつもの彼女に戻っていたが、日を追うごとに彼女の輪郭は、確かに薄くなっていた。
光に溶けるみたいに。
泡が消えるみたいに。
「もう、時間なんだ」
ある日彼女は、諦めたようにそう言った。
「でも、僕が君の名前を呼べば、忘れ去られずに済むんでしょ」
「うん。でも、その代わり、、、呼んだ人は必ず何かを失う。それでもいいの?」
全てを失うわけじゃない。
そうわかっていても、怖くないはずがなかった。
それでも、僕は言った。
「君は確かにここにいた。それを、僕が証明する」
彼女は少しだけ切なそうに笑った。
「名取、紗奈」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥がすとんと空いた。
いくつかの記憶が、確かに抜け落ちてく感覚。
でも、後悔はなかった。
「ありがとう。これで私はちゃんと、“存在した“」
そして、泡が弾けるように、彼女は消えていった。
彼女が消えた後、理科室には静けさだけが残った。
ビーカーの中の炭酸水はすでに透明で、泡ひとつ残っていない。
さっきまで、確かにそこに誰かがいたはずなのに。
名前を呼び、声を交わし、視線を交わしたはずなのに。
それでも、空間は何事もなかったかのように、ただの理科室に戻っていた。
僕は、しばらく動けなかった。
立ちあがろうとすると、胸の奥が、ふっと軽くなる。
何かを置き忘れたような感覚。
でも、それが何だったのかは思い出せない。
「、、、あれ?」
帰り道、校門を出たところで立ち止まった。
今日は、何しに理科室に行ったんだっけ。
放課後、誰と会っていたんだっけ。
答えが出てこない。
ただ、胸の奥にぽっかりとした空白だけが残っている。
翌日から少しずつ、僕の中で「抜け落ちたもの」が明確になっていった。
理科室に行こうとして、なぜか立ち止まる。
理由は分からない。
行ってはいけない気がする。
ノートの端に、意味のない落書きが残っていた。
「泡」
その下には、何かを書いて消しゴムで消した跡がある。
それを見ても、「何か大切だった」という感覚だけが残り、具体的な記憶は戻らない。
先生に呼ばれても、クラスメイトと話していても、世界は変わらず動いている。
誰も、何も失っていないように見えた。
ーー僕だけが、何かを失った。
ある日の昼休み、図書室で、古いアルバムを見つけた。十年以上前の、学校行事の記録。
ページをめくっていると、一枚だけ奇妙な写真があった。
集合写真の中で、一人分だけ空白がある。
人がうつっているはずの場所が、不自然に空いている。
切り取られたわけでもない。
加工されたわけでもない。
ただ、「いなかった」ように見える。
その下に、小さく書き込みがあった。
ーーつらい。消えてしまいたい。
誰が書いたのかも分からない文字。
その瞬間、胸の奥がひそかに震えた。
「、、、あ」
言葉にならない感情、喉の奥に引っかかる。
放課後、僕は無意識のまま理科室の前に立っていた。
扉を開ける理由は分からない。
それでも、手は勝手に動く。
中は、いつも通りだった。
薬品の匂い。
夕焼けの光。
それなのに。
「、、、来ちゃった」
思わず、そう呟いていた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
机の上に、小さな紙切れが落ちていた。
拾い上げると、そこには薄い文字でこう書かれていた。
ーー呼ばれた事実は消えない。
その一文を読んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
うっすらと、少女の面影が頭に浮かぶ。
「、、、紗凪」
気づいたら、その名前を口にしていた。
さらに、名前が浮かんだ瞬間、失くした全ての記憶が蘇ってきた。
彼女の顔も、声も、笑い方も。
それに、二人で過ごした放課後の時間もすべて。
すると、窓から差し込む光に中に、一瞬だけ、泡のようなものが見えた気がした。
ぱちん、と小さく弾けて、すぐに消える。
幻かもしれない。
ただの光の錯覚かもしれない。
それでも、胸の奥が不思議と温かかった。
なぜ僕は記憶を取り戻せたのかは分からない。
でもその日から、僕は変わった。
誰かの名前をきちんと呼ぶようになった。
当たり前のような日常を、当たり前だと思わなくなった。
名前を呼びぷこと。
呼ばれること。
それは、存在を確かめ合う行為だと、今なら分かる。
春が来て、新しい生徒が入学してきた。
校舎は、また少し賑やかになる。
その中で、誰にも気づかれずに消えていく人が、もう二度と出ないように。
僕は、名前を呼び続ける。
たとえ、記憶が消えても。
たとえ形が残らなくても。
誰かに呼ばれたという事実は、確かにここに残る。
彼女は、消えていく段階の中で、「名前」が一番最初に消えると言った。
けれどあの日、炭酸の泡には彼女の名前が浮かんでいた。
いつか、忘れられてしまったその名前を呼んでくれる誰かに、届くように。
幸せも、記憶も、関係も、泡みたい消えていく。
とても儚いものだ。
泡はいずれ消えていく。
それでも泡は、最後に名前を残す。
それが、人が人として、確かに生きた証なのだから。
泡は、消える。
それは怪談として語られるにはあまりにも具体的で、噂として笑い飛ばすには妙に現実味があった。
誰かが授業の合間にひそひそ話す。
「理科室で変な文字を見たらしいよ」
「名前だったらしい」
「呼んだら、何かを失うんだって」
大抵はそこで話が終わる。
怖がるふりをして、笑って別の話題に移る。
けれど、理科室の前を通るときだけ、誰もが少しだけ歩く速度を速める。
完全に信じてはいない。
でも、完全に忘れてもいない。
そんな距離感で、この噂は何年も生き延びてきた。
僕の学校では、中学二年生になると理科の授業で炭酸の実験をする。
教科書に載っている、ごくありふれた内容だ。
ペットボトルの炭酸水をビーカーに注ぎ、泡が発生する様子を観察する。
温度や気圧によって、泡の立ち方が変わる、そんなことを学ぶための実験。
理科室は、昼間は明るい。
黒い机、金属の器具、薬品棚。
どこにでもある学校の一室だ。
けれど、放課後になると様子が変わる。
窓から差し込む夕日が床に長い影を落とし、ガラスの器具が鈍く光る。
昼間には聞こえなかった音が、やけに目立つ。
蛇口から水が滴る音。
換気扇の低い唸り。
遠くの部活の掛け声。
あの日、僕が理科室に残っていたのはただの偶然だった。
実験器具の片付けを頼まれただけだ。
特別な理由なんて何もない。
正直、なんで僕ひとりなんだ、とは思った。
でも、断る理由も見つからなかった。
早く終わらせて帰ろう。
そう思って、黙々と片付けを始めた。
ビーカーを洗い、布巾で拭き、棚に戻す。
単純な作業の繰り返し。
その途中で、ふと思い出してしまった。
ーー泡に、名前が浮かぶ。
昼間は忘れていた噂が、静まり返った理科室の中で急に現実味を帯びた。
くだらない。
そう思いながらも、心のどこかで確かめてみたいという気持ちが芽生えていた。
ほんの、出来心だった。
授業で余った炭酸水のペットボトルを手に取り、ビーカーに注ぐ。
しゅわっと音を立てて、泡が立ち上る。
白い線が、無数に絡まり合う。
最初は、ただの泡の流れにしか見えなかった。
でも、次第にそれがーー
意味を持った形に変わっていく。
文字だ。
そう認識した瞬間、背中を冷たいものが走った。
「それ、こぼれるよ」
声がした。
驚いて手を止めると、炭酸水はビーカーの縁ぎりぎりまで来ていた。
慌てて蓋を閉め、声のした方を見る。
窓際に、少女が立っていた。
僕たちと同じ制服を着ている。
それなのに、僕の記憶のどこにも彼女はいなかった。
まるで、最初から存在していなかったみたいに。
「今、文字、、、見えた?」
彼女は確認するように言った。
否定しようとした。
けれど、なぜか喉が動かなかった。
「、、、見えた」
そう答えると、彼女は安堵したように小さく息を吐いた。
「よかった。じゃあ、話せるね」
その言い方が、まるで“条件“を満たしたかのようで、少しだけ怖かった。
彼女は名前を名乗らなかった。
僕も、聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
それが、全ての始まりだった。
それから、彼女は毎日、放課後の理科室に現れるようになった。
約束をしたわけでもない。
時間を決めたわけでもない。
それでも、僕が放課後の理科室に行くと、彼女はそこにいた。
窓際の席。
夕方の光を背に受けて、静かに立っている。
最初のうちは、少し距離があった。
同じ空間にいながら、互いに何を話せばいいのかわからず、ビーカーの泡が消えるまで、黙って過ごすことも多かった。
彼女は炭酸水を注ぐ。
白い泡が立ち上り、やがて消える。
それを、ただ眺めている。
「どうして、毎日泡を見てるの?」
ある日、僕はそう聞いた。
理由を深く聞くことができなかった。
聞いてしまったら、何かが壊れる気がした。
少しずつ会話は増えていった。
「今日、天気いいね」
「あの芸人面白いよね」
どれも、どうでもいい話ばかりだ。
でも、そのどうでもよさが、心地よかった。
彼女は、授業の話をする。
先生の話もする。
でも、自分がその場にいたかのような話し方をするのに、実際に彼女の姿を見た記憶は、どこにもなかった。
「何年生なの?」
「二年だよ」
「僕と同じじゃん。じゃあ、クラスはどこなの?」
何気なく聞いた質問に、彼女は少しだけ間を置いた。
「、、、理科室」
冗談かと思った。
でも、彼女は笑っていなかった。
学年全体で撮った集合写真。
部活動の名簿。
廊下に貼られた掲示物。
どこを探しても彼女はいなかった。
それなのに、理科室にいるかのだけは、誰よりもはっきりと“そこにいる“。
「ねえ、名前、教えてよ」
言葉にした瞬間、胸が少しだけざわついた。
「名取紗凪(なとりさな)」
その名前を聞いたとき、不思議と泡が弾ける音が重なった気がした。
「、、、綺麗な名前だね」
「そう?」
彼女は、少しだけ笑った。
「じゃあ、君は?」
「白井想空(しらいそら)」
「想空、、、」
彼女は、何度か小さく口の中で繰り返した。
翌朝、僕は先生に生徒名簿を借りた。
理由は聞かれなかった。
ただ、「他の人には見せないこと」と念を押された。
昼休み、教室の隅でページをめくる。
だけど、「名取紗凪」という名前はどこにもなかった。
クラスメイトに聞いても、反応は同じだ。
「そんな人、知らない」
「転校生?」
「幽霊じゃないの?」
笑い話にされるたび、胸の奥が冷えていく。
その夜、僕は家で残りの名簿を広げた。
ページをめくる音がやけに大きく響く。
一年、二年、三年。
だんだんと時間を遡っていく。
そして最後の一冊。
十年前の二年生の名簿。
そこに、一箇所だけ不自然な空白があった。
本来名前があるべき場所に、何もない。
その瞬間、背筋が凍りついた。
翌日、僕はそのことを彼女に話した。
「ああ、、、そこ」
彼女は、あっさり言った。
「私の名前があった場所」
「どうして、、、」
「いじめられてたの」
彼女は淡々と語った。
無視されて。
名前を呼ばれなくなって。
まるで存在しないみたいに扱われて。
「最初はね、まだ平気だったんだよ。仲良かった子が何人かは話しかけてくれてたから」
でも、時間が経つにつれて、それもなくなったらしい。
「この学校の生徒ってね、誰にも名前を呼ばれなくなると、少しずつ消えていくの」
彼女は、ビーカーの泡を見つめながら言った。
「最初に名前。次に声。最後に残るのは、ほんの一瞬の泡だけ」
その言葉の意味が、僕にはよくわからなかった。
だけど、その言葉がなぜか胸に沈んだ。
「誰かから聞いたことがあるんだけど、名前を呼ばれないと永遠に忘れられてしまうってほんと?」
「ほんとだよ。誰の記憶にも残らないまま、ただ消えていく。そんなの、つらすぎるよね」
その日、彼女はずっと、今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。
翌日からはいつもの彼女に戻っていたが、日を追うごとに彼女の輪郭は、確かに薄くなっていた。
光に溶けるみたいに。
泡が消えるみたいに。
「もう、時間なんだ」
ある日彼女は、諦めたようにそう言った。
「でも、僕が君の名前を呼べば、忘れ去られずに済むんでしょ」
「うん。でも、その代わり、、、呼んだ人は必ず何かを失う。それでもいいの?」
全てを失うわけじゃない。
そうわかっていても、怖くないはずがなかった。
それでも、僕は言った。
「君は確かにここにいた。それを、僕が証明する」
彼女は少しだけ切なそうに笑った。
「名取、紗奈」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥がすとんと空いた。
いくつかの記憶が、確かに抜け落ちてく感覚。
でも、後悔はなかった。
「ありがとう。これで私はちゃんと、“存在した“」
そして、泡が弾けるように、彼女は消えていった。
彼女が消えた後、理科室には静けさだけが残った。
ビーカーの中の炭酸水はすでに透明で、泡ひとつ残っていない。
さっきまで、確かにそこに誰かがいたはずなのに。
名前を呼び、声を交わし、視線を交わしたはずなのに。
それでも、空間は何事もなかったかのように、ただの理科室に戻っていた。
僕は、しばらく動けなかった。
立ちあがろうとすると、胸の奥が、ふっと軽くなる。
何かを置き忘れたような感覚。
でも、それが何だったのかは思い出せない。
「、、、あれ?」
帰り道、校門を出たところで立ち止まった。
今日は、何しに理科室に行ったんだっけ。
放課後、誰と会っていたんだっけ。
答えが出てこない。
ただ、胸の奥にぽっかりとした空白だけが残っている。
翌日から少しずつ、僕の中で「抜け落ちたもの」が明確になっていった。
理科室に行こうとして、なぜか立ち止まる。
理由は分からない。
行ってはいけない気がする。
ノートの端に、意味のない落書きが残っていた。
「泡」
その下には、何かを書いて消しゴムで消した跡がある。
それを見ても、「何か大切だった」という感覚だけが残り、具体的な記憶は戻らない。
先生に呼ばれても、クラスメイトと話していても、世界は変わらず動いている。
誰も、何も失っていないように見えた。
ーー僕だけが、何かを失った。
ある日の昼休み、図書室で、古いアルバムを見つけた。十年以上前の、学校行事の記録。
ページをめくっていると、一枚だけ奇妙な写真があった。
集合写真の中で、一人分だけ空白がある。
人がうつっているはずの場所が、不自然に空いている。
切り取られたわけでもない。
加工されたわけでもない。
ただ、「いなかった」ように見える。
その下に、小さく書き込みがあった。
ーーつらい。消えてしまいたい。
誰が書いたのかも分からない文字。
その瞬間、胸の奥がひそかに震えた。
「、、、あ」
言葉にならない感情、喉の奥に引っかかる。
放課後、僕は無意識のまま理科室の前に立っていた。
扉を開ける理由は分からない。
それでも、手は勝手に動く。
中は、いつも通りだった。
薬品の匂い。
夕焼けの光。
それなのに。
「、、、来ちゃった」
思わず、そう呟いていた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
机の上に、小さな紙切れが落ちていた。
拾い上げると、そこには薄い文字でこう書かれていた。
ーー呼ばれた事実は消えない。
その一文を読んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
うっすらと、少女の面影が頭に浮かぶ。
「、、、紗凪」
気づいたら、その名前を口にしていた。
さらに、名前が浮かんだ瞬間、失くした全ての記憶が蘇ってきた。
彼女の顔も、声も、笑い方も。
それに、二人で過ごした放課後の時間もすべて。
すると、窓から差し込む光に中に、一瞬だけ、泡のようなものが見えた気がした。
ぱちん、と小さく弾けて、すぐに消える。
幻かもしれない。
ただの光の錯覚かもしれない。
それでも、胸の奥が不思議と温かかった。
なぜ僕は記憶を取り戻せたのかは分からない。
でもその日から、僕は変わった。
誰かの名前をきちんと呼ぶようになった。
当たり前のような日常を、当たり前だと思わなくなった。
名前を呼びぷこと。
呼ばれること。
それは、存在を確かめ合う行為だと、今なら分かる。
春が来て、新しい生徒が入学してきた。
校舎は、また少し賑やかになる。
その中で、誰にも気づかれずに消えていく人が、もう二度と出ないように。
僕は、名前を呼び続ける。
たとえ、記憶が消えても。
たとえ形が残らなくても。
誰かに呼ばれたという事実は、確かにここに残る。
彼女は、消えていく段階の中で、「名前」が一番最初に消えると言った。
けれどあの日、炭酸の泡には彼女の名前が浮かんでいた。
いつか、忘れられてしまったその名前を呼んでくれる誰かに、届くように。
幸せも、記憶も、関係も、泡みたい消えていく。
とても儚いものだ。
泡はいずれ消えていく。
それでも泡は、最後に名前を残す。
それが、人が人として、確かに生きた証なのだから。
泡は、消える。



