誰かが君に恋している

 隣のクラスの女子は次の時間は体育らしい。ジャージの入ったスポーツバッグを手に提げた一群と擦れ違った。廊下の先を歩いていた卓也がふと足を止め、擦れ違った生徒達の後ろ姿を見送っていた。

 また誰か気になる子でもいたのか? 凝りもせずに……

 僕と眼が合うと、なんだかニヤニヤしている。ちょっと不気味だ。あれ以来、YURIのハンドルネームでは卓也にメッセージの返信はしていない。アカウントにログインすらしていないから、向こうから来たメッセージも見ていない。YURIとのことでは決して相手を喜ばせるような事態にはなっていないのだけど。

「壮太、わかったよ」

 僕が追いつくと、卓也は即座に報告した。

「なにが?」

「YURIちゃんの正体……」

「はあ?」

 心臓が飛び出しそうになるくらいドキッとした。どこでバレた? なにが原因? 僕も立ち止まって、そのまま廊下で固まってしまった。

「彼女だよ」

 と、卓也は最後に擦れ違った女子の一人を視線で示した。

「え? 今の人……?」

 スポーツバッグを手に提げた一群の最後には、他の皆から若干遅れて、動きの鈍そうな女子生徒が一人ぽつんと続いている。あれはC組の嶋田さんだ。小学校も中学校も別の学校だったし、高校になってからも同じクラスになったことはなかったから、今迄話したことは一度もなかった。いや、かといって同じクラスにいたとしても話ができたかどうか…… 自分も他人のことは言えないけど、凄く内気だって噂されている。現に今だって、他の子達が連れだってきゃあきゃあ喋りながら歩いていったのに、一人ぽつんと離れて俯きながら通り過ぎていった。

「なんで嶋田さんなの?」

 まるで寝耳に水。YURIはプロフの情報はだいたいが非公開で正体不明だが、分厚い眼鏡をかけて陰気に猫背で俯いて歩く嶋田さんとどうやって結びつくのか?

「だって、彼女の名前、友梨佳っていうんだ」

 一瞬言葉を失った。嶋田さんの名前が友梨佳だなんて、初めて知った。

「そ、それだけ……?」

「うん」

「YURIっていうのはネット上のハンドルネームでしょ? 本名じゃないんじゃない?」

「本名かもしれないだろう?」

「それにたとえハンドルネームに本名が絡んでいたとしても、それが友梨佳だとも限らないんじゃない? ユリコかもしれないし、ユリエかもしれないし……」

「調べたよ、この学校の三年生の女子生徒全員の名前……」

「そ……そうなんだ……」

 なんかYURIの正体を探ろうと陰でゴソゴソ動いているようだ。うっかりバレないようにしなくちゃと気を引き締めた。

「でも、なんで三年生だけなの?」

「彼女はメッセージで自分は学生で受験生だって書いてあった。俺と同じ高校三年だよ」

 送ったメッセージには、“学生です”“受験勉強の真っ最中です”って書いたと思う。“高校三年生です”とは書かなかったはず……

「中学三年かもしれないんじゃない? 予備校生かも……」

「たぶん高三だよ。俺を気に入ってくれているんだから」

 水を注すとよくわからない根拠で言い返してきた。相手が自分と同年齢の高三だと思うのは、ただの願望にすぎないのではないのかと詮索した。

「それで、名前に“ユリ”の文字がつくのは、嶋田友梨佳、彼女一人だけだった……」

「待ってよ。なんでそのメッセージをくれた子がこの学校の生徒だってことになっているの?」

 その努力には感心するが、そんなことで甘い顔を見せては駄目だ。YURIの正体を探ろうだなんて無駄な試みだとわからせてやらなければ。

「卓也のSNSは全国の人が見ているんだよ。メッセージの送り主が、この同じ町に住んでいて、同じ学校の子だって、なんでわかるの?」

 海外からだって見れるんだ。YURIのメッセージは日本語だけど、それをくれたのは外国に住んでいる日本人か、日本語のわかる外国人かも。いや、今じゃ優秀な翻訳ソフトだってある。日本語がわからなくたって日本語でメッセージが送れる……

 こちらのごく当たり前で故に決定的な反論に、相手はたいして動じていない様子で、

「俺のSNSのフォロワーなんて何人もいないんだよ。大概が俺の知り合いだし」 

 表示されていたフォロワー数はよく覚えていないけれど、数十人くらいいたんじゃないか? それだって全員が身内や知人だとしたら、その数は多い。全員が知り合いだなんてありえない。それもまた願望で、勝手にそう思い込んでいるのにすぎないのではないか?

「だいたいがこの学校の奴らか、中学時代のダチばっかりなんだから。全然関係ない人がなんで俺のSNSを覗きに来んの? きっと俺の知り合いか、知り合いのSNSに貼られたリンクから飛んで来ただけなんだよ」

「そうとは限らないんじゃ……」

 僕達はもう自分達の教室の前まで来ていた。でも、すぐには教室に入らずに、そのまま立ち話を続けた。

「“よく似たユーザー”で検索して、卓也のページがひっかかったのかも。もとは卓也のプロフ画像に似ている別人のページを見ていてさ、その人の容姿が好みで、もっとこういう感じの人のページを見たくて、それで“よく似たユーザー”の卓也のページに移動して来たのかも……」 

「でもさ、彼女だったら、わかるよ。だって、YURIから来たメッセージには“自分はブス”って書いてあったんだ……」

 “ブス”だなんて書いていない。僕はそんな露骨な書き方はしていない。ただ“人に見せられるようなルックスではありません”って書いただけだ。

「彼女、分厚い眼鏡かけているからなあ。あんな度の強そうな眼鏡で顔を隠しているもんだから、自分ではブスだって思い込んでいるんだろう」

 もう廊下に出ている生徒は他にはいない。とうに休み時間の終了のチャイムは鳴り終わっている。教室に入らなければならないのに、卓也が熱弁を奮うものだから、まだ話を切り上げられないでいる。

「俺さ、別に彼女のこと、悪くないと思っているよ。全然ブスじゃないよ。いや、きっと可愛いよ。素顔見たことないけど、あの眼鏡取ったら、きっと……」

 もう教室に入ろうと僕は後ろの引き戸に向かった。なのに、なおも卓也は僕の背後から耳に被せるように熱い声を放ってくる。

「きっと彼女だよ、俺、今度、聞いてみる」

「彼女じゃないよ」

 教室の引き戸から手を離し、僕は卓也を振り返った。

「だから、確かめてみるんだって……」

「無駄だよ、そんなこと」

 出席簿を抱えた教師が廊下の階段口に見えた。幸い他の教室の授業の教師だったから、こちらには来なかったけど。僕と卓也は慌てて自分達の教室に入った。



 
「壮太君、ちょっと相談があるんだけど」

 同じクラスの中川洋子に声をかけられた。僕が気安く声をかられる数少ない女子生徒の一人だ。

 洋子は文芸部の部長。一年生の時には僕も文芸部に入っていたが、そこは女子ばっかりで、男子は僕一人だったから、半年もたずに辞めてしまった。彼女とはその時からのつきあいだ。僕は半年も続かなったけど、文芸部では数少ない部員の中で二人きりの級友だったから。

 僕は校庭のベンチで開いていた日本史の参考書を閉じた。

 話相手のいない僕は、昼休みはこうして一人校庭のベンチで本を読んで過ごすのが常だった。一年生の頃は読む本は主に小説の文庫本だったけど、大学受験の迫った今は参考書になっている。洋子は校庭で僕の姿を見かけると、以前はよく“何読んでいるの?”って聞いてきたが、僕の膝に載せた本が参考書では、それには全く興味を示さないようだった。

 彼女はベンチの僕の隣に腰掛けた。

「松崎君にC組の友梨佳にやたら話しかけるのやめさせてくれない?」

「友梨佳?」

「うん。C組の嶋田友梨佳」 

 卓也が隣のクラスの女子に声をかけてみると宣言して一週間が過ぎていた。その経緯については卓也からなにも聞いていなかったし、“無駄だよ、そんなこと”って僕も忠告しておいたから、それっきりになっているんだと思っていた。だが、知らない所で彼は自分の宣言した通りに動いていたらしい。

「あの人、友梨佳に関心あるみたい」

「卓也が嶋田さんになにかしたの?」

「会う度ににやっと笑って、声をかけてくるんだって」

「声って…… なにか言われたの?」

「“おはよう”とか、“さよなら”とか、“やあ”とか、“元気”とか……」

「それだけ? それってただの挨拶じゃない? なんでそれで……」

「それだけじゃないの、あの人、友梨佳のことを馴れ馴れしく“ユリチャン”って呼んでくるの。男子は皆、“嶋田”って名字で呼ぶし、私達だって“友梨佳”って呼んでいるわ」

「別に名前を呼んでいるだけじゃない。それだけじゃあ……」

 洋子は読書家だし、知性的で感性豊かだ。僕も一目置いている。そんな彼女が真顔でこんなことを言ってくるなんてと、僕は聊かその良識を疑った。

「でも、それを友梨佳はひどく気味悪がっているの」

「卓也が嶋田さんに気があるとして、それはその人の自由なんじゃない、それって他人から咎められること?」

「うん、私もそう思う。でも、友梨佳にはそれがすごい迷惑なのよ」

 迷惑…… その硬質で無機質な言葉が僕の心の池に石のようにドボンと放り込まれた。石は水面いっぱいに暗い波紋を広げ、水底に重々しく横たわるようだった。

「友梨佳って男の人が苦手みたいで…… 本人にはその気が全然ないのに、しつこく声をかけてくるのって嫌じゃない?」

 そうなのか? 声をかけられるのってそんなに……

「でも、僕が口出しするようなことじゃ……」

 なんで本人に直截言わないで自分に言ってくるのだろう? そう訝っていると、洋子は、

「友梨佳は松崎君のことがどうも好きでないみたいで…… 私からそんなこと言うのもなんだか…… 壮太君は松埼君と最近仲いいじゃない。仲のよい友達から言ってもらった方が角が立たないと思って……」

「そ、そうかなあ……」

 卓也と仲がいいって言われたのは嬉しいけど、そうなれたのはごく最近になってからだ。自分だってそんな役回りは御免だ。下手なことを言って彼を傷つけてしまって、せっかく築けた関係をもし壊しでもしたら…… ただ事の始まりは僕がYURIだなんてネームでメッセージを送ったからで、その責任は自分にあると感じてはいた。

「そうね、やっぱり本人から言ってもらった方がよいわよね。本人からきっぱりと……」

 洋子は決心したようだ。強いサバサバした口調で言った。

「わかったわ。私、友梨佳に話すわ。友梨佳にはっきり自分から言ってもらうようにする」

 言ってもらうって…… 

 二年前だ、裏の体育倉庫の前でとある女子生徒と卓也のやりとりが蘇った。

“私、あなたのこと、なんとも思ってないから……”“仕方ないでしょう? タイプじゃないんだから。靴箱に手紙入れるのやめて。話しかけてもこないで。私、あなたに見られるのも嫌なんだから……”

 あの時の顔のわからない女子生徒の台詞。そして、その後で目撃した、悄然と立ち尽くしていた卓也の悲壮感漂う表情……

 駄目だ、彼にまたあんな思いをさせたりしたら……

「いや、それは待って……」

 咄嗟に僕は言った。ベンチから立ち上がりかけた洋子がこちらを顧みた。

「僕が言ってみるよ」

「本当?」

「いちおう…… 僕が言ったって、聞かないかもしれないけど……」

「ありがとう」

 洋子はひっそりとした笑いを浮かべた。

「ねえ、壮太君、小説書いている?」

 彼女は僕が小説を書いているのを知っている、この学校で唯一の人だ。

「前に休み時間に校庭でタブレットになんか入力していたでしょう? あれ、小説よね? 今も書いているの?」

「いや、今は受験勉強があるから……」

「そう……」

 彼女はベンチから立ち上がり、僕を振り返ってまたひっそりとした笑いを浮かべた。

「そうよね。私も今は受験勉強しなくちゃね」



 
 この日の放課後、僕は卓也に話してみた。嶋田友梨佳はYURIではない。彼女は急におまえが話しかけるようになったのでたいそう困惑している。彼女は進学組で受験のことで頭がいっぱいだ。余計な刺激は与えず、そっとしておいてやるべきだって…… 相手を傷つけないよう、彼女が迷惑しているとか、気味悪がっているとか、そういう表現は避けたのだけど。

「あの子が自分でそう言ったのか? 自分はYURIじゃないって……」

「それは聞いていないけど…… ただあの人は僕と違って国立の難関を受験するみたいだし、余計な人づきあいは勉強の邪魔になるからそっとしておいて欲しいって、当人からの伝言で……」

 卓也は僕の言うことなど信じなかったし、嶋田友梨佳がYURIなのかどうかももはや問題にしてはいないようだった。

「あの子はYURIちゃんだよ!」

 人に聞かれないよう校庭の一番隅のベンチまで連れ出したのだけど、それでも物怖じしない卓也の威勢のよい声は、近くを行き来する生徒達に届きはしないだろうかと僕をやきもきさせた。

「あの子は内気で恥ずかしがり屋だから、俺にメッセージをくれたのを隠しているんだ!」

「まあ、内気で恥ずかしがり屋だっていうのは僕もそう思うけど……」

「俺はあの子が好きになったんだ。だから、あの子がYURIだって思っていたいんだ」

 なんだ? YURIじゃないかと疑っているうちに、YURIかどうかに関係なく好きになってしまったっていうのか…… それで彼女がYURIだって信じていたいって…… 

 そんな勝手な……と思ったけど、

「好きになってしまった子に声をかけるのがどうして悪いんだよ。人にどうこう言われることじゃない!」 

 卓也が先に放った力強い声に圧倒され、口を噤んだ。卓也ってこんなに逞しかったっけ? この時の彼の態度は、二年前に校舎の裏で耳にした顔のわからない女子生徒の前でボソボソ喋っていた途切れがちの声と、その直後に見たしょぼくれた顔に結びつかなかった。女子の前でなければこうなのか? 校庭の一番隅のベンチを選んだが、こりゃ校舎の裏にまで連れ出した方がよかったと後悔した。

「あの子の受験勉強の邪魔なんかしないよ」

 まあ、それはそうでも……

「声をかけたぐらいでなんだよ、なんでそれが邪魔になるんだよ」

 いや、そう判断するのは声をかけられた方であって……

「勝手にあの子のことを想っているのは俺の勝手だろ!」

 そうだ、その通りだ。

 自分の心の声にはっとした。なんとか言いくるめてやろうと身構えていたのに、いつのまにか反論する余地がなくなって、それどころか相手の言い分を認めざるを得ないでいる。

 卓也は正しい。僕だって素性を明かさずにSNSで彼にメッセージを送っている。

 自分のやっていることを考えると、なにも言い返せるはずがなかった。



 
 後日、僕は洋子に、話してみたけど駄目だったと伝えた。

「そう…… やっぱり本人に直截言わせるしなかいよね?」

 洋子はこちらの同意を確かめるように顔を向けたが、僕は黙って廊下の床板を見つめた。 

 授業の合間の10分の休憩時間。廊下の先の隣の教室に眼を向ける。あの教室にいるのであろう嶋田友梨佳が、あの眼鏡をかけたおとなしい女子が、卓也にどういう言葉を投げかけるのか…… 

“迷惑なんです…… 話しかけられるのは迷惑なんです。ただ想われているだけでも嫌なんです……”

 駄目だ、そんなこと、卓也に言ったら絶対駄目だ、傷つく……

 僕が黙っているので、洋子が自分の教室に戻ろうとした瞬間、

「もう少し、待って……」 

 彼女は怪訝な顔をして僕を振り返った。

「僕、もう一度、話してみる。だから、まだ本人が直接卓也に言うのは待って……」

 僕が洋子の後から教室に戻ると、何も知らない卓也は、また成子坂46フアンの男子達と他愛ないお喋りで陽気な声を響かせていた。