放課後、清掃の時間になると、当番以外の者は一度教室から退出する。廊下に出ている生徒達の目に怖気づきながらも、僕は鞄を手にして玄関に向かう。文化祭の準備でもリーダーシップを発揮している委員長からも、今日芝居の稽古があるから残るようにって釘を刺されていた。もう自分の役割は済んだ、自分は舞台に立つわけじゃないし、裏方だからいても出番はないからって断ったのに、聞き入れてもらえなかった。これは個人ではなくチームとしての活動なんだ、役者任せにしないで、自分は舞台に立たなくても一緒にいて、役者の彼らを支えてやらなきゃならないだろう、舞台係と衣装係は別に作業を請け負っているから任意参加にしたけど、おまえは別だ、なにせ監督なんだから、見ているだけでもいいんだから……とかなんとか言われて。見ているだけの奴なんて必要か、だったら僕じゃなくてもいいじゃないかと思ったけれど……
仕方ない、委員長の言う通りにしよう、稽古では、卓也の顔を見ずに、他の役者の顔だけ見ていよう。卓也の声を聞かずに、他の役者の声だけ聞いていよう。そんなことも思った。でも、駄目だ。いざ放課後になったら、どっと心の中が暗くなって、一刻も早く学校から逃げ出したくて仕方なかった。
今日も一日、卓也とは顔を合せないようにしたし、口だって利いていない。移動教室の時間も離れて席を取ったし。あの時間は授業が始まるまで、卓也は香坂と二人で仲睦まじく話をしていたっけ。差し迫った成子坂46のフアン投票のことかもしれないけど、ひょっとしたら僕のことかもしれない。
“そういえば、あいつのメールアドレスってさあ……”
香坂が思い出してそう切り出すかもしれない。いや、とっくにもう知らされているのかも。なんであいつのアドレスがYURIと同じなのか? あいつ、ネカマだ、俺を騙していたんだ…… 卓也は既に気づいている……
駄目だ、駄目だ、駄目だ…… ここにいたくない……
クラブ活動をサボる時の要領だ。なるべく人に見られぬように小さくなって、急ぎ足で廊下を渡り、階段を降りる。始終顔を俯け、擦れ違う生徒とは絶対に視線を合わせない。
鞄を手に一階の玄関まで来た。ここまでは誰にも見咎められずに済んだのだけど、
「あれ? 壮太、今日、稽古は?」
声をかけられてびくっとした。氷室が先に玄関にいた。
「まあ、俺は照明係だから出ないけど」
無視して靴箱から下履きを取り出す。氷室といえ、発表のチームの一員だ。何を言われるかわからない。
「サボんのか?」
これも無視だ。校舎を出ると、僕の横に並び歩いてきた。反射的に僕の足は急ぎ足になる。今のところ文句は言われていないけど、これから聞かされることになるんじゃないか。それにまだ学校の構内だ。校庭で誰かに出くわすかもしれない。校舎の窓からだって誰かにジロジロ見られているかもしれないし。早く校門を抜け、ここから解放されたい。
「真っ直ぐ帰るのか?」
氷室が横でなんだか言ってくる。
そうだよ、そう。他に用なんかないよ。稽古はただのサボりだよ。用もないのにただサボッて帰るんだよ……!
ああ、堂々と声に出して言えたら、せいせいするのに。
校門を出たが、まだ解放された気分じゃない。氷室がついてきているからだ。商店街の通りに出たら、ダッシュだ。全速力でダッシュだ。氷室の帰る方角なんか知らないが、そうしたらもうついてこなくなるだろう。
そう構えていたのに、商店街が近づくと、
「なあ、ちょっと、寄り道しないか?」
なんて氷室は言ってきた。
行くって、どこへ……?
「どこでもいいけどさ、カフェでもどこでも……」
カフェに連れ込んでたっぷり説教しようというわけか。“おまえ、稽古サボッてどういうつもりだよ? 他のみんなが頑張っているのによ、おまえ、それでもクラスの一員かよ?”って…… でも、氷室ってそういうキャラだっけ……?
「ゲーセンでもいいよ。俺、最近行ってねえから」
え? ゲーセン……
「このまま家に帰っても、一人じゃなにかと心苦しいだろ? なんか気晴らししないとさ。つきあってやるよ」
たしかに…… 一人稽古をサボッたことで後ろ暗さを抱えている。早く帰って受験勉強もしなければならないけど、そんな気分じゃない。とくに今のこの時間は文化祭の発表チームは学校に残って芝居の稽古をしているのだ。勉強したって捗らないだろう。気晴らしが必要だ。氷室はそんな僕の内情を見透かしていた。
「よし、決まり。遊んで行こうぜ」
ゲーセンなんて滅多に行かないけど、行ったら行ったで楽しかった。学校の友達と一緒にこういう所で遊ぶなんて、僕には初めてのことだったかもしれない。
すっかりお金を使ってしまった。喉も乾いたし、どこかで休みたかったけど、手持ちの小遣いを使い果たした僕には、マックに立ち寄る分も残っていなかった。
「しゃあないなあ。缶コーヒーぐらいなら、奢ってやるよ」
氷室は僕よりまだ少し余裕があるのか、僕を駅の反対側にある西口公園に誘った。
駅の西口は大きな商店街はなく、住宅地に密接している。二、三の文化施設と大きな公園があり、僕自身はあまり来ることはないけど、東口とは違って静謐で落ち着いた雰囲気を醸し出している。
公園のベンチに並んで腰かける。途中氷室が「飲めよ」と自販機で買ってくれた缶コーヒーを、膝に載せた両手でしっかり包み込みながら。
園内の樹々が徐々に葉を落とし始めている。日が暮れるのが日増しに早くなっている。手の中のコーヒーの温みが心地よかった。
発表のチームはもう芝居の稽古を終えただろうか? ゲーセンでの気晴らしが終わってしまうと、小心者の自分はついそんなことを考えてしまう。
「見てみ、きれいだろう」
住宅地の中に陽が沈み込んでゆく。
「俺さ、ここで夕日見るのが好き好きなんだ」
真上の空はもう黒に近い群青色なのだが、家々の連なりの隙間から見える空のごく低い位置だけが赤かった。
駅から吐き出された勤め人達は、まっすぐ家路を急ぐ。向こうの大通りを蟻のように列をなして、住宅地に向かって進んでいる。もう日も遅いし、公園に立ち入ってくる者なんてほとんどいない。
「ここでならさ、ゆっくり話ができそうだよな」
話って…… なんの……?
「昼休みの続きなんだけどさあ。俺が好きな奴の名前を教えるっていう……」
あ……
5時間前に時間が遡ったようだ。氷室がまた首を傾け、ジロジロ僕のことを見つめてきていた。
なんだ? なんでそんなに僕を……?
また急ピッチで心臓の鼓動が早くなる。5時間前は衣装係の子が間に入ってくれたけど、今度は誰が止めてくれるのか? こんなだだっ広い公園、周りは誰もいない……
「おまえだよ」
「……」
たしかに彼はそう言った。顔を上げ、相手と眼を合わせた。その表情には別にふざけている様子はなかった。
「どうだ、好きでもない奴に言い寄られて、やっぱり迷惑だろう?」
「そんな……」
「結局、おまえだって同じなんだよ。あんな物語を作っておきながらさ。好きでもない相手から好意を持たれたって、誰だって拒否感しか感じないんだよ。それは生理的にそうなるんだから、仕方ないんだよ」
「違うよ、拒否感だなんて、そんなんじゃ……」突き放すように顔を背けた氷室に、僕は躍起になって言った。「ただ……驚いただけで……」
氷室が再び顔をこちらに向けた。
「じゃあ、キスできるか?」
え……?
「ここで……?」
僕はあたりを見回した。
「誰も見てないだろう?」
「だって……」
「いいよ、無理すんなよ」
氷室は笑いかけ、僕の頬に手をあて、長い指の先で僕の髪を掻き上げた。これも昼休みにされたのと同じだ。無理じゃない…… 自分の意志を示すために、この時は僕は身を引いたりしなかったが。
「気持ちだけでいいよ。本音はどうだか知らないけど、まあ、こちらの想いを受け止めようとしてくれているのはわかったから」
できるよ、キスぐらい……
「俺は女の子も好きだけど、絶対に女じゃなきゃ駄目っていうわけでもないんだ。たぶん、女の子のような心を持った人間に魅かれるんだと思う」
バイなのか……
それでもまだ驚きだった。僕にとっての氷室は誰からもなんの指摘も受けないようなごく普通の人間に見えていたから。
僕から顔を逸らし、彼はまっすぐ前を向いた。消え入る寸前の夕日に視線を戻した。
「繊細で、可愛くて、どこか弱々しい感じのする奴に…… そんな奴を見ると、なんか守ってやりたくなる…… そいつが男でも女でもさ……」
「……」
「松崎が持っていた、あいつのSNSのフォロワーだっていうあの画像の子…… あれ、おまえだろう? 俺、すぐにわかったよ」
かあっと顔に火が点いた。素性を隠した僕の苦心作の画像も氷室にはお見通しだったのだ。動揺をきたしたこちらの反応を横目で見て、彼は口元にかすかな笑みを浮かべた。
「まあ、俺からは松崎には言わないでいてやるよ」
肯定したわけではないけど、否定もできない。内面を赤裸々に晒してくる相手に対して、こちらばかりが自分を隠し続けることなどできない。
「俺って、あんな画像の子が好きなんだ。女みたいな中性的な奴……つまり、おまえが……」
再びじっと僕の顔を覗き見る。僕はさっきから黙り込んだままだ。見られている方の横顔が厚ぼったく震えてくる。
「俺、おまえのこと、可愛いと思っている……」
「……」
「おまえは俺のこと、嫌か……?」
「い、嫌じゃないけど……」
声を詰まらせながらやっと一言返した。言えたのはそれだけ。胸がドキドキして後が続かない。残照の中で氷室の顔は青黒く翳っている。でも、そんな微弱な光の中でも、彼の横顔は整って見える。こんなきれいな顔、嫌だなんて言ったら、バチが当たりそう。氷室はイケメンで…… 氷室はカッコよくて…… 氷室は…… でも、気持ちは嬉しいけど、自分は卓也が好きだ。何故、卓也じゃなきゃ駄目なんだろう。見栄えがよいだけじゃない、氷室はスポーツ万能で、成績も上位の方で、女子からも絶大な人気があって…… 目立った欠点なんてない。それにひきかえ、卓也は何処にでもいそうなパッとしない人だ。自分に自信がなくて、気弱で、頼りなげで…… 僕はそんなあいつが好きだ。そんな欠点のある人間が好きだ。人を愛するということは、その人の欠点をも愛することだ。欠点のないことがその人の欠点だと言う人もいる。故に、僕は氷室には……
「けど、なんだよ?」
「それは……」
「俺の気持ちは受け止めてくれないのかよ? あんな話作っておいて、やっぱおまえだって迷惑なんだろう?」
俄かに彼は興奮しだして、声を荒げた。ポーカーフェイスの顔を悔しそうに歪めて…… こんな氷室、初めて見る。自分よりも二、三年上に見えるくらい大人びていたのに、今は拗ねた子供のようだ。
「迷惑千万極まりないってか。しゃあないよな、こっちがどんなに想っていようが、相手からしてみれば、ただ迷惑だとしか……」
「いいよ……」
相手の声を遮って言った。
氷室が開いていた口を閉じ、おそるおそるこちらを見た。
「いいって、なにがだ……?」
「いいよ、キス……」
氷室が驚いた顔をした。
「本気か?」
「本気。迷惑だなんて感じていない。むしろ嬉しい」
「本当か?」
「本当……」
僕は素直に笑みを浮べた。卓也以外の者に対して自分がこんなに開放的になれるなんて思っていなかった。だって、今、眼の前にいるのは僕の知っていた氷室じゃない、別人だ。人間的な弱さを抱え込んだ、僕の全然知る由もなかった氷室だ。全くのゲイっていうわけじゃないかもしれないけど、性的マイノリティだとは自覚している。それは決して彼の内面を明るい方向にばかり導きはしなかっただろう。自分と同じだ。それを決して表に出さず、他人に微塵も感じさせないできただけなのだ。僕はそんな彼にいたく心を動かされてしまっていた。
「じゃあ、するぞ……」
「うん……」
顔をしっかり上げ、目蓋を閉ざした。氷室の顔を寄せてくる気配がした。くぐもった息遣いが間近でする。相手の熱い息がこちらの頬を滑り下りてゆくようだ。
相手の柔らかくて温かい唇が、自分の唇に重ねられるのだと思っていた。その感触を想像していた。だけど、氷室の唇は僕の前髪の隙間の額に押しつけられ、すぐに離れた。
「俺はこれでいいよ」
え? 拍子抜けだ。
眼を開けると、彼は笑っていた。
「無理すんなよ」
べ、別に……無理なんか……
「ファーストキス、まだなんだろ?」
そ、そうだけど……
「俺を受け入れてくれて、その気持ちだけで嬉しいよ」
ほっとする反面、なんだか残念なような気もした。
「おまえは松崎のことが好きなんだろう?」
「……」
「最初の唇はさ、あいつとの時のためにとっておけよ」
あいつとの時……
卓也は異性愛者だ。そんな時なんか、来るわけないのに……
「譲ってやるのはファーストキスだけだけどな。二度目のキスは俺がもらうからな」と、こちらの同意もなく勝手なことを言い、「ああ、松崎が羨ましいよ。俺もあんな風に生まれたかったよ」
「本気で言ってんの?」
氷室の方が背が高くてすらっとしている。他の人から見たらだけど、どう見たって氷室の方がイケメンなのに……
「ああ」と、マジに頷くので、僕はぷっと噴き出した。
「じゃあ、帰るか」
まだ笑いが治まらないなかで、僕達はベンチから立ち上がった。
「氷室……」
先に歩き始めた彼の背後から僕は声をかけた。
「ありがとう」
氷室は振り返って、キョトンとした顔を向けて、
「ああ、さっき言ったとおりだよ。俺は松崎にはなにも言わないよ」
と、爽やかな笑みを浮かべた。
僕を好きになってくれてありがとう。
そのつもりでお礼を言ったのだけど、彼は別のことだと勘違いしたようだ。
その日の夜、自宅のPCでメールを確認すると、YURIのアドレスに一通来ていた。
“YURIちゃん、今日はちょっとムシャクシャしています。友達と喧嘩しました。そいつは同じ学校の奴で、男です。俺と同じ成子坂46の二軍のメンバーのフアンだということで、意気投合して仲良くなったんですが、実はそうじゃなかったっていうことが今になってわかったんです。ただ俺と仲良くしたくて、俺に合せていただけなんだって。ねえ、嘘はよくないよね。仲良くしたいという気持ちは嬉しいけど、ひとを騙すのは…… TAKUYA“
メールを読んだ限りでは、YURIの正体が僕だとはまだ知られていないようだった。でも、それも時間の問題なのだろうけど。僕は「返信」ボタンを押して、返信用のテキストの入力画面を開いた
“TAKUYAさん、私も嘘を吐いていました。私もあなたを騙していました。私は実は……”
そこまで書いて、「削除」ボタンを押した。「送信」ボタンは押せなかった。
もう一度、キーボードに指を載せた。もう一度、メール本文の入力欄に文字を打ち始めた。さっきとは違う代わりの文章を入力した。
“TAKUYAさん、そんな友達の話なんて私には関係ありません。私は受験です。もうメールしないで下さい。今は迷惑です。メールくれても返信しません。YURI“
そう書いて、今度はしっかり「送信」ボタンを押した。
自分にはもう氷室がいる。僕は強気になっていた。
数分間そのままじっとしていた。卓也はもうあのYURIの最後のメールを見ただろうか? なにか返信してくるだろうか?
気になったが、メールソフトを閉じた。そして、もう二度とYURIのアカウントではログインしないことに決めた。
仕方ない、委員長の言う通りにしよう、稽古では、卓也の顔を見ずに、他の役者の顔だけ見ていよう。卓也の声を聞かずに、他の役者の声だけ聞いていよう。そんなことも思った。でも、駄目だ。いざ放課後になったら、どっと心の中が暗くなって、一刻も早く学校から逃げ出したくて仕方なかった。
今日も一日、卓也とは顔を合せないようにしたし、口だって利いていない。移動教室の時間も離れて席を取ったし。あの時間は授業が始まるまで、卓也は香坂と二人で仲睦まじく話をしていたっけ。差し迫った成子坂46のフアン投票のことかもしれないけど、ひょっとしたら僕のことかもしれない。
“そういえば、あいつのメールアドレスってさあ……”
香坂が思い出してそう切り出すかもしれない。いや、とっくにもう知らされているのかも。なんであいつのアドレスがYURIと同じなのか? あいつ、ネカマだ、俺を騙していたんだ…… 卓也は既に気づいている……
駄目だ、駄目だ、駄目だ…… ここにいたくない……
クラブ活動をサボる時の要領だ。なるべく人に見られぬように小さくなって、急ぎ足で廊下を渡り、階段を降りる。始終顔を俯け、擦れ違う生徒とは絶対に視線を合わせない。
鞄を手に一階の玄関まで来た。ここまでは誰にも見咎められずに済んだのだけど、
「あれ? 壮太、今日、稽古は?」
声をかけられてびくっとした。氷室が先に玄関にいた。
「まあ、俺は照明係だから出ないけど」
無視して靴箱から下履きを取り出す。氷室といえ、発表のチームの一員だ。何を言われるかわからない。
「サボんのか?」
これも無視だ。校舎を出ると、僕の横に並び歩いてきた。反射的に僕の足は急ぎ足になる。今のところ文句は言われていないけど、これから聞かされることになるんじゃないか。それにまだ学校の構内だ。校庭で誰かに出くわすかもしれない。校舎の窓からだって誰かにジロジロ見られているかもしれないし。早く校門を抜け、ここから解放されたい。
「真っ直ぐ帰るのか?」
氷室が横でなんだか言ってくる。
そうだよ、そう。他に用なんかないよ。稽古はただのサボりだよ。用もないのにただサボッて帰るんだよ……!
ああ、堂々と声に出して言えたら、せいせいするのに。
校門を出たが、まだ解放された気分じゃない。氷室がついてきているからだ。商店街の通りに出たら、ダッシュだ。全速力でダッシュだ。氷室の帰る方角なんか知らないが、そうしたらもうついてこなくなるだろう。
そう構えていたのに、商店街が近づくと、
「なあ、ちょっと、寄り道しないか?」
なんて氷室は言ってきた。
行くって、どこへ……?
「どこでもいいけどさ、カフェでもどこでも……」
カフェに連れ込んでたっぷり説教しようというわけか。“おまえ、稽古サボッてどういうつもりだよ? 他のみんなが頑張っているのによ、おまえ、それでもクラスの一員かよ?”って…… でも、氷室ってそういうキャラだっけ……?
「ゲーセンでもいいよ。俺、最近行ってねえから」
え? ゲーセン……
「このまま家に帰っても、一人じゃなにかと心苦しいだろ? なんか気晴らししないとさ。つきあってやるよ」
たしかに…… 一人稽古をサボッたことで後ろ暗さを抱えている。早く帰って受験勉強もしなければならないけど、そんな気分じゃない。とくに今のこの時間は文化祭の発表チームは学校に残って芝居の稽古をしているのだ。勉強したって捗らないだろう。気晴らしが必要だ。氷室はそんな僕の内情を見透かしていた。
「よし、決まり。遊んで行こうぜ」
ゲーセンなんて滅多に行かないけど、行ったら行ったで楽しかった。学校の友達と一緒にこういう所で遊ぶなんて、僕には初めてのことだったかもしれない。
すっかりお金を使ってしまった。喉も乾いたし、どこかで休みたかったけど、手持ちの小遣いを使い果たした僕には、マックに立ち寄る分も残っていなかった。
「しゃあないなあ。缶コーヒーぐらいなら、奢ってやるよ」
氷室は僕よりまだ少し余裕があるのか、僕を駅の反対側にある西口公園に誘った。
駅の西口は大きな商店街はなく、住宅地に密接している。二、三の文化施設と大きな公園があり、僕自身はあまり来ることはないけど、東口とは違って静謐で落ち着いた雰囲気を醸し出している。
公園のベンチに並んで腰かける。途中氷室が「飲めよ」と自販機で買ってくれた缶コーヒーを、膝に載せた両手でしっかり包み込みながら。
園内の樹々が徐々に葉を落とし始めている。日が暮れるのが日増しに早くなっている。手の中のコーヒーの温みが心地よかった。
発表のチームはもう芝居の稽古を終えただろうか? ゲーセンでの気晴らしが終わってしまうと、小心者の自分はついそんなことを考えてしまう。
「見てみ、きれいだろう」
住宅地の中に陽が沈み込んでゆく。
「俺さ、ここで夕日見るのが好き好きなんだ」
真上の空はもう黒に近い群青色なのだが、家々の連なりの隙間から見える空のごく低い位置だけが赤かった。
駅から吐き出された勤め人達は、まっすぐ家路を急ぐ。向こうの大通りを蟻のように列をなして、住宅地に向かって進んでいる。もう日も遅いし、公園に立ち入ってくる者なんてほとんどいない。
「ここでならさ、ゆっくり話ができそうだよな」
話って…… なんの……?
「昼休みの続きなんだけどさあ。俺が好きな奴の名前を教えるっていう……」
あ……
5時間前に時間が遡ったようだ。氷室がまた首を傾け、ジロジロ僕のことを見つめてきていた。
なんだ? なんでそんなに僕を……?
また急ピッチで心臓の鼓動が早くなる。5時間前は衣装係の子が間に入ってくれたけど、今度は誰が止めてくれるのか? こんなだだっ広い公園、周りは誰もいない……
「おまえだよ」
「……」
たしかに彼はそう言った。顔を上げ、相手と眼を合わせた。その表情には別にふざけている様子はなかった。
「どうだ、好きでもない奴に言い寄られて、やっぱり迷惑だろう?」
「そんな……」
「結局、おまえだって同じなんだよ。あんな物語を作っておきながらさ。好きでもない相手から好意を持たれたって、誰だって拒否感しか感じないんだよ。それは生理的にそうなるんだから、仕方ないんだよ」
「違うよ、拒否感だなんて、そんなんじゃ……」突き放すように顔を背けた氷室に、僕は躍起になって言った。「ただ……驚いただけで……」
氷室が再び顔をこちらに向けた。
「じゃあ、キスできるか?」
え……?
「ここで……?」
僕はあたりを見回した。
「誰も見てないだろう?」
「だって……」
「いいよ、無理すんなよ」
氷室は笑いかけ、僕の頬に手をあて、長い指の先で僕の髪を掻き上げた。これも昼休みにされたのと同じだ。無理じゃない…… 自分の意志を示すために、この時は僕は身を引いたりしなかったが。
「気持ちだけでいいよ。本音はどうだか知らないけど、まあ、こちらの想いを受け止めようとしてくれているのはわかったから」
できるよ、キスぐらい……
「俺は女の子も好きだけど、絶対に女じゃなきゃ駄目っていうわけでもないんだ。たぶん、女の子のような心を持った人間に魅かれるんだと思う」
バイなのか……
それでもまだ驚きだった。僕にとっての氷室は誰からもなんの指摘も受けないようなごく普通の人間に見えていたから。
僕から顔を逸らし、彼はまっすぐ前を向いた。消え入る寸前の夕日に視線を戻した。
「繊細で、可愛くて、どこか弱々しい感じのする奴に…… そんな奴を見ると、なんか守ってやりたくなる…… そいつが男でも女でもさ……」
「……」
「松崎が持っていた、あいつのSNSのフォロワーだっていうあの画像の子…… あれ、おまえだろう? 俺、すぐにわかったよ」
かあっと顔に火が点いた。素性を隠した僕の苦心作の画像も氷室にはお見通しだったのだ。動揺をきたしたこちらの反応を横目で見て、彼は口元にかすかな笑みを浮かべた。
「まあ、俺からは松崎には言わないでいてやるよ」
肯定したわけではないけど、否定もできない。内面を赤裸々に晒してくる相手に対して、こちらばかりが自分を隠し続けることなどできない。
「俺って、あんな画像の子が好きなんだ。女みたいな中性的な奴……つまり、おまえが……」
再びじっと僕の顔を覗き見る。僕はさっきから黙り込んだままだ。見られている方の横顔が厚ぼったく震えてくる。
「俺、おまえのこと、可愛いと思っている……」
「……」
「おまえは俺のこと、嫌か……?」
「い、嫌じゃないけど……」
声を詰まらせながらやっと一言返した。言えたのはそれだけ。胸がドキドキして後が続かない。残照の中で氷室の顔は青黒く翳っている。でも、そんな微弱な光の中でも、彼の横顔は整って見える。こんなきれいな顔、嫌だなんて言ったら、バチが当たりそう。氷室はイケメンで…… 氷室はカッコよくて…… 氷室は…… でも、気持ちは嬉しいけど、自分は卓也が好きだ。何故、卓也じゃなきゃ駄目なんだろう。見栄えがよいだけじゃない、氷室はスポーツ万能で、成績も上位の方で、女子からも絶大な人気があって…… 目立った欠点なんてない。それにひきかえ、卓也は何処にでもいそうなパッとしない人だ。自分に自信がなくて、気弱で、頼りなげで…… 僕はそんなあいつが好きだ。そんな欠点のある人間が好きだ。人を愛するということは、その人の欠点をも愛することだ。欠点のないことがその人の欠点だと言う人もいる。故に、僕は氷室には……
「けど、なんだよ?」
「それは……」
「俺の気持ちは受け止めてくれないのかよ? あんな話作っておいて、やっぱおまえだって迷惑なんだろう?」
俄かに彼は興奮しだして、声を荒げた。ポーカーフェイスの顔を悔しそうに歪めて…… こんな氷室、初めて見る。自分よりも二、三年上に見えるくらい大人びていたのに、今は拗ねた子供のようだ。
「迷惑千万極まりないってか。しゃあないよな、こっちがどんなに想っていようが、相手からしてみれば、ただ迷惑だとしか……」
「いいよ……」
相手の声を遮って言った。
氷室が開いていた口を閉じ、おそるおそるこちらを見た。
「いいって、なにがだ……?」
「いいよ、キス……」
氷室が驚いた顔をした。
「本気か?」
「本気。迷惑だなんて感じていない。むしろ嬉しい」
「本当か?」
「本当……」
僕は素直に笑みを浮べた。卓也以外の者に対して自分がこんなに開放的になれるなんて思っていなかった。だって、今、眼の前にいるのは僕の知っていた氷室じゃない、別人だ。人間的な弱さを抱え込んだ、僕の全然知る由もなかった氷室だ。全くのゲイっていうわけじゃないかもしれないけど、性的マイノリティだとは自覚している。それは決して彼の内面を明るい方向にばかり導きはしなかっただろう。自分と同じだ。それを決して表に出さず、他人に微塵も感じさせないできただけなのだ。僕はそんな彼にいたく心を動かされてしまっていた。
「じゃあ、するぞ……」
「うん……」
顔をしっかり上げ、目蓋を閉ざした。氷室の顔を寄せてくる気配がした。くぐもった息遣いが間近でする。相手の熱い息がこちらの頬を滑り下りてゆくようだ。
相手の柔らかくて温かい唇が、自分の唇に重ねられるのだと思っていた。その感触を想像していた。だけど、氷室の唇は僕の前髪の隙間の額に押しつけられ、すぐに離れた。
「俺はこれでいいよ」
え? 拍子抜けだ。
眼を開けると、彼は笑っていた。
「無理すんなよ」
べ、別に……無理なんか……
「ファーストキス、まだなんだろ?」
そ、そうだけど……
「俺を受け入れてくれて、その気持ちだけで嬉しいよ」
ほっとする反面、なんだか残念なような気もした。
「おまえは松崎のことが好きなんだろう?」
「……」
「最初の唇はさ、あいつとの時のためにとっておけよ」
あいつとの時……
卓也は異性愛者だ。そんな時なんか、来るわけないのに……
「譲ってやるのはファーストキスだけだけどな。二度目のキスは俺がもらうからな」と、こちらの同意もなく勝手なことを言い、「ああ、松崎が羨ましいよ。俺もあんな風に生まれたかったよ」
「本気で言ってんの?」
氷室の方が背が高くてすらっとしている。他の人から見たらだけど、どう見たって氷室の方がイケメンなのに……
「ああ」と、マジに頷くので、僕はぷっと噴き出した。
「じゃあ、帰るか」
まだ笑いが治まらないなかで、僕達はベンチから立ち上がった。
「氷室……」
先に歩き始めた彼の背後から僕は声をかけた。
「ありがとう」
氷室は振り返って、キョトンとした顔を向けて、
「ああ、さっき言ったとおりだよ。俺は松崎にはなにも言わないよ」
と、爽やかな笑みを浮かべた。
僕を好きになってくれてありがとう。
そのつもりでお礼を言ったのだけど、彼は別のことだと勘違いしたようだ。
その日の夜、自宅のPCでメールを確認すると、YURIのアドレスに一通来ていた。
“YURIちゃん、今日はちょっとムシャクシャしています。友達と喧嘩しました。そいつは同じ学校の奴で、男です。俺と同じ成子坂46の二軍のメンバーのフアンだということで、意気投合して仲良くなったんですが、実はそうじゃなかったっていうことが今になってわかったんです。ただ俺と仲良くしたくて、俺に合せていただけなんだって。ねえ、嘘はよくないよね。仲良くしたいという気持ちは嬉しいけど、ひとを騙すのは…… TAKUYA“
メールを読んだ限りでは、YURIの正体が僕だとはまだ知られていないようだった。でも、それも時間の問題なのだろうけど。僕は「返信」ボタンを押して、返信用のテキストの入力画面を開いた
“TAKUYAさん、私も嘘を吐いていました。私もあなたを騙していました。私は実は……”
そこまで書いて、「削除」ボタンを押した。「送信」ボタンは押せなかった。
もう一度、キーボードに指を載せた。もう一度、メール本文の入力欄に文字を打ち始めた。さっきとは違う代わりの文章を入力した。
“TAKUYAさん、そんな友達の話なんて私には関係ありません。私は受験です。もうメールしないで下さい。今は迷惑です。メールくれても返信しません。YURI“
そう書いて、今度はしっかり「送信」ボタンを押した。
自分にはもう氷室がいる。僕は強気になっていた。
数分間そのままじっとしていた。卓也はもうあのYURIの最後のメールを見ただろうか? なにか返信してくるだろうか?
気になったが、メールソフトを閉じた。そして、もう二度とYURIのアカウントではログインしないことに決めた。
