誰かが君に恋している

“コレなんだよ……”

 笑いを浮かべた香坂が言う。片頬に全部の指をぴんと張った片手を垂直に添えて…… 頭の中からその声が離れない。

 昼休みはもう卓也を誘ったりせず、一人でパン買って校舎の裏で食べている。体育倉庫のある校舎の裏側。以前はクラブをサボッてここで学校のタブレットで小説を書いたりもしていた。ここだったら誰も来ない。このところは卓也が一緒だったから、休み時間に一人でぽつんといるところをあまり人に見られなくて済んだ。別に孤独は嫌じゃない、卓也と気安くなる前まではずっと一人だったし、今更誰に見られても平気なのだけど……

 今日はあいつは誰と昼を食べているだろうか? 別にあいつなら一緒に食べる相手はあまたいるだろうけど。同じクラスだけじゃない、別のクラスにだって親しい相手はいる。もしかしたら今日は隣のクラスの香坂と…… 

“コレなんだよ……”

 またあの声が頭に浮かぶ。

 香坂が卓也と一緒に昼を食べながら、その場にいない僕のことを思いきり噂している。

“それにさあ、あいつのメールアドレスって変わっていてさあ、なんだかワイ・ユー・アール・アイって……”

「一人なのか? おまえ……」

 突然頭上から降りかかってきた声にビクッとした。物凄く背の高い相手が窮屈そうに身を屈めていた。

 氷室だった。

 慌てて咀嚼していたパンを飲み込み、身構えた。

「今日は松崎と一緒じゃないんだ」

 氷室は不思議そうに呟いた。ベンチも芝生もない場所だ。僕は地べたに直に尻を着けていたのだが、奴も学生ズボンが汚れるのも気にせず、同じように倉庫の壁に背中をもたせかけ隣に腰を下ろしてきた。

「松崎ってさ、最近はA組の香坂とずいぶん仲がいいよなあ」

「……」

 無言でいると、またこちらの気になるようなことを口に出してきた。

「一番の親友だと思っていた相手がさ、他の奴にとられちまうって悔しいよな。俺にも経験あるよ」

「……」 

「じゃあさ、別に友達を作るのってどうだい? 別の奴と友達になって、松崎に見せつけてやるんだ……」

 一人勝手にしゃあしゃあと喋っている。相手の話をずっと黙っているのも悪いと思ったから、この時僕はようやく口を開いた。

「別の友達なんて……いないから……」

「いるだろう? ここに……」

「え?」

「俺じゃ、役不足か?」

 すぐ真横で僕に笑いかける。

「そ、そんなことないけど……」

 氷室は女の子が見たらさぞかしウットリするような笑みを浮かべている。自分には勿体ない、女の子のいないこんな所で無駄遣いじゃないかと思った。

「ようし、決まりだ。明日から、昼飯、一緒に食おうぜ」

 なに? なんで氷室が僕と…… まったく正体不明の奴だ。だいたい氷室ってなんでこんなトコにいるの? それも一人で。普段は委員長とか運動部の花形みたいな、クラスの中でもひときわめだった連中と一緒にいるのに……

 すらりとした長身の大人っぽい顔立ち。同い年なのに、二つ三つ年上に見える。こちらが人からよく馬鹿にされるほどの童顔だってこともあるのだろうけど……

「おまえが書いた芝居の台本さあ…… あれ、俺、気に入っているんだ。あの“誰かが君に恋している”ってやつ……」

「そう?」

「長いこと片想いばかりしていた奴が、自分は好かれていないと思い込んでいた相手から、最後には好きだって打ち明けられるんだよな。いいよな、あの結末。俺も一度でいいからあんな思いをしてみたいよ」

 何言ってるんだ、こいつ……って思った。白々しくって、半分腹が立って、半分呆れた。こいつだったら自分に恋している奴なんて珍しくないだろうに。そんじょそこらにいるんじゃないか。あの物語は自分を好いてくれている者なんてこの世界にはたったの一人もいないと信じきっている劣等感の塊みたいな人間を、いや、本当はそうじゃないんだ、広い世界にはおまえの価値に気づいている者もいるんだって、励ますためのものだ。その真義は氷室のような恵まれた者にはわからないだろう。

「氷室にはいっぱいいるじゃん」

「いるって誰が……」

「慕ってくれる人……」

 こんな校舎の裏なんかではなく、もっと人目につく中庭なんかにいたら、氷室は通りかかった女子生徒達からジロジロ見られてキャアキャア言われるだろう。“あの先輩、カッコいいよね”なんて、校舎の窓から覗き見ている下級生達は、鳥の囀りのような囁き声を交わし合うだろう。

 真横にいる上背のある男は、首を傾げて不思議そうにこちらを眺め下ろし、

「誰に慕われようと、自分の想っている相手からじゃなきゃ、意味ないだろ?」

 そうかもしれない。でも、それって凄い贅沢なことを言っている気がする。

「俺だって、ずっと片思いだよ。自分が好かれたい相手からは全然好かれていないから……」

「そ、そうなの? 氷室みたいなイケメンでも……?」

「そうだよ、あったりまえだろう?」

 って、怒ったように声をデカくして返してきた。

「おまえの芝居の台詞にもあったろう? “人は皆、多様なんだよ”って、主役の女が男に言う台詞がさあ。そうなんだよなあ。人は皆それぞれなんだ。皆、求めているものが違うんだよ。他の奴から好かれても、肝心の片想いの相手が自分を好いてくれるとは限らないんだから」

「……」

「なあ、おまえはどうしてあの話を作ろうと思ったんだ?」

「それは……」

 と、僕は正直に答えた。自分よりもずっと高見にいると思っていた相手が、意外にも性に関して自分と同じような悩みを抱えていて、自分に近い存在であるように思えたから。

「自分のことを決して受け入れてもらえないとわかっている相手であっても、切々と想いを傾けていれば、そのうちわかってもらえる時が来るんじゃないか、積み重ねた想いの総体のほんの数パーセントであっても、向こうに届くことがあるんじゃないか…… そんな願望を物語にしたかったから……」

 コッパズカシクなるような答えだけど、“おまえみたいなのに好かれたい”だなんて言われて、心を許していたのかもしれない。真に受けたわけではないけど。

 氷室は真面目にこちらの話を聞いてくれていた。

「なるほどねえ……」と相槌を打ち、「そういう訳か……」と呟いた。

 なにが“そういう訳か”なのか? どこまで理解してくれているのか? 甚だ気になるところだけど……

「おまえさあ……」

 傍らで耳元をくすぐるような神妙な声を出してきた。目が合った瞬間、こちらにぐいと顔を近づけてきた。

「きれいな髪、してんな」

 僕の前髪に指を突き入れ、そこを指先で掻き分けた。

「な、なにを……?」

 僕は反射的に身を引いた。

「そんな怖い顔で見るなよ」

「だって、学校でこんなこと…… 誰かに見られたら誤解されるよ」

「誤解されるって、なんて……」

「そ、それは……」

「あの二人、ゲイじゃないかってか……?」

 氷室の顔にうっすらと笑みが浮かんだ。ゲイなんて、それを解しそうにない他人の前では常にタブーとみなし、自分の口からはとても表にできない言葉を軽々しく使った。

「俺は誤解されたいんだけどな……」

 はあ? なんだ、この人……? 

 僕は自分がゲイだって噂されることを極端に怖れている。絶対に堪えられない。なのに、こんなに堂々としていられるのは、この人が決してそうじゃないからだ。自分は絶対にそうじゃないとわかっているから、平気でいられるんだ。僕とは違う。だいたいフェロモン出しまくりで女の子からキャアキャア言われているようなのが、自分と同類だなんて信じられない。きっとそんなフリをしているだけだ。僕をからかって、遊んでいるんだ……

「おまえってさ、松崎が好きなんだろ?」

 顔から湯気が噴き出しそうなくらいかっとなった。火の点いた石炭を口の中に放り込まれ、身体の中が機関車のボイラーみたいに燃え狂った。

「な、なんで……」

「見ていたらわかるよ。おまえは松崎の前ではよく笑っているもんなあ。あんな開放的な顔、あいつにしか見せないもんなあ」

「べ、別に……」

「今の話だってそうだもんなあ。“自分を受け入れてもらえないとわかっている相手でも、そのうちわかってもらえる時が来るんじゃないか……”だよなあ、異性愛者の松崎相手に、同性のおまえがどんなに思いを募らせたって、その行為は絶対に報われることなんかないものなあ。あの話はそんなおまえの願望からできたんだよなあ」

「た、卓也は友達ってだけだよ」

「そうなのか?」

「そう……」

 友達かどうかも今は怪しいけど。今日は一日卓也とは口を利いていない。昨日の昼休み以来、没交渉だ。

「正直に言えよ、俺も正直に言うからさ」

「だから、僕は卓也なんか、別に……」

 好きじゃない……

 これって、正直な答えだろうか? いや、たぶん、これからそうなるだろう……

「じゃあ、おまえは女が好きなのか?」

「うん」

 防禦本能から反射的に頷いた。

「誰が好きだ?」

 そう尋ねられて、中学の修学旅行を思い出した。あの時と一緒だ。答えられない。

 黙っていると、相手は“ほらみろ”というような顔をしてくる。“好きな女の子なんていないんだろう?”って……

「いないんじゃない。言いたくないだけだよ。相手に迷惑がかかるといけないから……」

「ふううん」

 僕の懸命な言い訳に、氷室は鼻を鳴らした。

「じゃあさ、俺は好きな相手の名前を教えてやるよ」

 聞きもしないのにそんなことを言ってきた。興味がまるでないわけでもないけど、もうどうでもいいと思った。あまり関わりたくない。この時には氷室に対して関心を失っていた。

「俺の好きな奴の名前はなあ……」

 そこまで言いかけて、思わせぶりにジロジロこちらを見る。

 なに? なんでこっちをじっと見る? まさか……

 氷室が更になにかを言おうとしたその時、キンキン響くような女子の声が横から飛んできた。

「ちょっと、氷室君!」

 振り向くと、文化祭の発表チームの衣装係の子が立っていた。

「何やっているの?」

「やあ」

 氷室はけろっとして、彼女に向かって片手を上げた。

「壮太君を探しに行ったんじゃなかったの? 見つけたんだったら、何故早く教室に連れてきてくれないの?」

「ワリィ、忘れてた」

「もう昼休みのミーティングは終わっちゃったよ」

「本当に?」氷室は腕時計に目をやり、「ああ、あと7分しかないや」と、昼休みの残り時間を確認した。

 昼休みのミーティングなんて僕には初耳だった。それで氷室は僕を探しに来ていたのか? 眼で問うと、彼は頷いて説明してくれた。

「今日の昼休みに芝居の担当者でチームミーティングをすることにしていたんだ。それでおまえにも出てもらうつもりだったんだけど、昼休みになった途端、おまえ、即行でどっかに行っちまって戻ってこないから……」

「壮太君、今日のミーティングで決まったんだけど、今日の放課後、稽古、やるから」

 稽古は週に三日。この日は月曜日で、稽古は休みにしていた。

 僕は黙っていたけど、「え? 今日もやんの?」と、氷室が不服そうに口を出した。

「だって、文化祭まであと5日しかないのよ。今週は毎日稽古だって」

「俺も出ないと駄目? 俺って照明係なんだけど……」

“別に裏方でもいいから。必要だったら言ってくれよ”と言って発表のメンバーに加わった氷室は、照明係をすることになっていた。

「私や氷室君みたいな裏方は自由参加でいいって」

 衣装係の子が言うと、「やった」って、氷室は歓声をあげた。

「でも、壮太君、あなたは出てって……」

「……」

 僕は引き続き黙っていた。稽古には出たくなかった。

「まあ、壮太は舞台監督だからな」

「うん、でも……」と、僕はおそるおそる声を出した。「僕が出ても、もう……」

 僕なんかただの素人、演技指導なんてできる立場じゃない…… そう思って口答えしたけど、衣装係の子は首を横に振り、

「役者だけじゃ、自分の演技の出来具合とかよくわからないんだって。第三者に見てもらって、芝居の完成度とか、全体を評価してほしいんだって」

 稽古に出たら、卓也と顔を合わさなければならない。言葉だって交わさなければならない……

「いい? 壮太君、今日の放課後、校庭で芝居の稽古、伝えたわよ」

 衣装係の子は僕に伝えると、急いで教室に戻ろうと踵を返した。昼休みが終わる5分前だ。氷室も立ち上がって後を追った。

 僕もしがなく二人の後に従った。卓也のいる教室に戻りたくなかった。授業をエスケープして、この後もまだ雲隠れの続きをしていたかったのだけど。