誰かが君に恋している

“いい? 人の価値観は皆、それぞれなのよ“

 ユリナの役を演じる神崎は、相手役の卓也の前で、自分の台詞をスラスラ淀みなく発した。

“あなたのような人が好みで、あなたのことが好きだっていう人も、この世界のどこかには必ずいるのよ“

 この芝居のヤマ場。僕がこの作品で一番伝えたかった台詞だ。ユリナがタクヤと向き合い、その優しい言葉で相手を励まそうとする……

 なのに…… この場面でチャチャが入った。

「お似合いだよ、お二人さん!」

 校庭の芝生の上で向き合っている神崎と卓也に、傍を通りがかった他所のクラスの四、五人の男子達が、そう声をかけた。その中の一人が大きな眼鏡をかけた香坂だ。香坂は声をかけてこなかったけど、一緒にいた他の四人がニヤニヤ笑いながら、野卑な声を響かせている。

「なんだ、おまえら!」

 立稽古につきあっていた委員長が立ち上がり、男子達を威嚇した。助監督の洋子も、一緒に稽古を観ていた他の女子達も、一斉に首を傾け部外者を睨みつけた。男子達は笑いながら通り過ぎていった。

 昼休み。立稽古には広い場所が必要だが、その場所は限られている。生徒達が集ってバレーボールの円陣パスで遊んでいる体育館はまず使えない。校庭の芝生の上は格好だが、あまりにも開放されすぎ。近くを通りかかる生徒達にジロジロ見られてしまう。度胸がついていいとは思ったものの、あんなチャチャを入れて来る連中もいるのでは……

「ごめん…… 俺のせいで……」

 と、卓也が呟いた。

「ごめんって、何が……?」

「あいつら、俺のよく知っている奴らだし…… 俺がいるから囃したんだ」

 たしかに隣のクラスの香坂と卓也は最近とくに仲がいい。香坂とは卓也繋がりで僕とも多少親交が芽生えたほどだ。

「……」

 神崎は無表情で唇を固く結んでいた。

 代わりに洋子が口を開いた。

「なにも松崎君のせいじゃないでしょう? あの人達、誰でも馬鹿にするのよ」

「そうだよ、あんなのほっておけよ」

 と、委員長も言った。

「そうそう……」と、僕も言い、「じゃあ、今の所からもう一度やって」と、稽古の続きを促した。

 だが、このことがあってから、なにか神崎の演技がぎこちなくなってきたようだ。たしかにこちらをジロジロ見ながら生徒達が通り過ぎるから、演技者は集中力を削ぐのだけど。

“どこにいるんだよ? そんな奇特な奴……”

 卓也は健闘している。神崎ほどではないにしても、しっかり台詞を覚えている。

 芝居のクライマックスのシーンだ。どうにかサマになってきている。

“どこにもいないよ、そんな奴……”

 卓也の言い回し、いい感じだ。

“ここにいるわ!”

 神崎も、まあ、いい感じかな。

“ユ、ユリナ……”

 神崎のユリナと卓也のタクヤがじっと顔を見合わせている。これもいい感じだ。

“ありがとう……”

 タクヤのその台詞で二人が互いの手を握り合い…… って、演出ではそうなっているのだが…… え……? これは……

「どう? 今のでいい?」

 二人が演技を止め、傍で見ていた僕に向かって卓也が尋ねた。

 僕は首を捻らざるをえない。

「駄目なのか?」

「うん…… ねえ、今の最後のところ…… もっとお互い接近しあえない?」

「せ、接近……?」

「もっと顔を近づけ合って、手もぎゅっと握り合って……」

 僕の小説……この芝居の元となった原作では、互いの想いを確かめ合った主役の二人が、抱き合って、キスし合って、ジ・エンドなのだ。でも、高校生が学校で演じる芝居ではそんなシーンは無理。だから、せめてラストシーンは、二人が手を取り合って、顔を近づけて、そこで照明を暗くして終わりにしたい。実際にはしていないけど、観客にはキスし合っているように想像させるのだ。

 神崎が嫌そうな顔を向けてくる。

「近づけ合うって…… どのくらいよ?」

「うん…… だから、もっと首を前に傾け合って…… キスするみたいに……」

「キ、キスですって……」耳を劈くような金切声。“キス”という単語に神崎は思いきり力を込めた。「私が松崎とキスするっていうの?」

 稽古を観ていた女子達もざわついた。

「ちょっと、高校生の芝居だよ」と、一人が言った。

「勿論、実際にはしないよ」と、僕は言った。「見せかけるだけだよ。そんなフリをするだけで、顔が触れる寸前で止めて……」

「か、顔が触れるって……」

 嫌悪感を剥き出しにして神崎は声をひきつらせる。

 周りで観ていた女子達も口々に言った。

「そんな場面、いるかしら?」「もしも弾みで唇が触れたりしたらどうなるの?」「やだあ、おかしなこと言わないでよ!」

 女子達がくすくす笑った。

「おいおい、監督さん、高校生の健全な舞台なんだから、きわどいのはなしだぜ」

 委員長が水を注した。

「別に、きわどくなんか……」

 と、僕は口答えした。たかが高校生の芝居なんだから、そんなこだわることでもなかったが、やるからには少しでも自分の芸術的感性を表現したものにしておきたかった。

「文化祭は父兄だって観に来る。PTAの偉い人達だって来るのよ。そういう人達が観たら、なに言われるかわからないわ」

 と、この中では一番芸術を解していそうな洋子も言った。僕は孤立無援だ。

「そんな…… 大袈裟な……」

 僕はまだ不服だ。僕の作品はPTAの頭の固いお偉いさん向けじゃない。

「私、後で冷やかされるの嫌よ。さっきいみたいに……」と、神崎が言い、「ね。松崎君も抵抗あるでしょう?」と、卓也に同意を求めた。

「別に、俺はいいけど…… 芝居なんだから……」

「いいって……」

 神崎は驚き呆れたような声を放った。

 孤立無援だと思っていたが、一人だけ味方がいたのがわかった。

 神崎は今度は僕に不満の矛先を向けた。

「もう、実際どうするのかわからないから、壮太、あなた、やってみせてよ」

「僕が……?」

「そうよ、あなたと松崎とで手本を見せてよ」

 僕が卓也と…… 胸が震えた。

「別に、いいけど……」

 僕は腰を上げ、舞台とみなしている芝生の上に進んだ。

 卓也と向き合う。心臓がドキドキしている。

“どこにもいないよ、そんな奴……”

 相手役の台詞を頭の中で想像してから、

“ここにいるわ!”と、ユリナの台詞を放った。

“今になって気づいたの、私……本当はあなたが好きだった……”

“ユリナ……”

 卓也も自分の台詞を返してきた。

“ありがとう……”卓也の最後の台詞。

 ここだ。

 僕は卓也に歩み寄り、両手で卓也の手を握りしめた。そして、真っ直ぐ卓也の顔を見つめた。ドキドキする。卓也の顔が愛おしくてならない。

 一歩前へ踏み出した、彼に身体を近づけた。彼の匂いを感じる。息の温もりを感じる。彼の手を取り、顔を相手に触れる寸善まで近づけた。

「ここまでだよ。ここで終わり、幕引き。手は触れるけど、それだけだから……」

 周りの生徒達は真面目に僕達の演技を見ていた。

「そうねえ。今ぐらいだったら別にいいんじゃ……」

 洋子が言いかけたのを、神崎がひときわ甲高い高い声で遮った。

「嫌よ!」

 あたりはしんとなった。

「私は嫌、今の……」

 もう一度叫んだ。

 静まり返った中で、氷室が言った。

「唇と唇を近づけ合うっていうのはどうもなあ……」

 おどけるような口調だ。雰囲気を和らげようとしているのかもしれない。

 彼はもともと発表のメンバーではなかった。“別に裏方でもいいから。必要だったら言ってくれよ”その言葉の通り、裏方の一人として稽古を観にくるようになっていた。

「それなら唇と頬の方がいいんじゃないか? 最後の台詞を言った後、ユリナは横向いて、タクヤが頬に顔を近づけさせて、それで終わりっていうのはどうだい? ユリナは頬を向けて相手が唇に触れるのを待っているのさ。頬っぺにチュッ……ぐらいなら、いいんじゃない。うん、全然嫌らしくないよ、外国じゃそれが挨拶なんだし……」

 氷室は一人合点して、うんうん頷いている。いや、一人ではないかも。先程あんなに喧しかった女子達もおとなしくしている。やっぱりイケメンが言うと違うのか……

 別にそれでもいい……と、僕は思った。正直、どうだっていい。高校生の芝居なんだから、どういうかたちであれ、無事終わってくれれば…… 自分の芸術的感性なんて別に表現するのはここでなくていい……という考えに変っていた。

「頬っぺにチュッですって……!」

 それでもことはそう簡単にはいかないようだ。また神崎の金切声。硝子のコップがあったら罅が入りそう。なんだかさっきよりも機嫌を損ねているようだ。

「ただ向き合って、最後の台詞を言い合って、それで終わりでいいじゃない。キスなんて…… そんなフリをするのも嫌! 不健全だわ!」

「はあ…… そうですか……」

 気まずくなった雰囲気を和らげようとするかのように、氷室はますますおどけるように肩を竦めた。

「じゃあ、今、俺が言ったのもなしで……」

「当然よ、主役の二人は向き合って終わりよ、身体的接触を連想させる場面は一切ヌキよ!」と、神崎が強く言い放った。

 神崎だって氷室には気があったんじゃないか…… 自分の役の相手役にしたかったんじゃなかったっけ…… と、僕は意外に感じた。嫌がっている自分の気持ちを氷室が解していないようだから、余計に腹を立てているのか……

「仕方ないわね」

 洋子が溜息混じりに呟き、困った顔を僕に向けた。

 僕は頷くしかなかったし、実際にそうした。こんなこと、もう自分にはどうでもよくなっていた。