土曜日、両親は揃って出かけた。この日は親戚の家に出かけるのを僕は知っていた。
だけど、姉は午前中、家でダラダラしていた。
「毎日学校だとね、ほんと、土日の休みの日だけが生きがいだわ。5日分のストレス、発散させなきゃね」なんて言って、土日は必ずおめかししてどこかに遊びに行って(それこそこの前みたいに赤いワンピースを着てロングのウィッグを着けて歩いたりして)、家にいることなど滅多にないはずなのに。
「お姉ちゃん、今日は出かけないの?」
「出かけるわよ」
「そんなにゆっくりしていていいの?」
「ううん……そうねえ……」
「何時に行くの?」
「そろそろ行くけど……」
そう返事が返ってきたのでホッとした。
「なによ、私に出かけて欲しいの? 私が家にいると邪魔なの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
まあ、別にいいか。芝居の練習を聞かれても……
そのうちいなくなるだろうし。
そうして玄関のチャイムが鳴った。卓也だ。
僕は早速出迎えた。
そうしたら……
玄関にいた卓也が目を丸くして、僕の背後を睨みつけた。
その視線を追って、振り向くと、姉が外出の支度をして家の奥から出てきていた。
「あら、壮太、お友達?」
姉は笑って声をかけた。なんと、あの赤のワンピースを着ている。ウィッグまでは着けていなかったけど。
「珍しいわね、壮太にお友達なんて……」
余計なこと言うな、と思った。
「でも。あんた受験生でしょ? 遊んでていいの?」
「いいんだよ、少しくらいなら。お姉ちゃんだって受験前じゃないか」
「私は大丈夫よ、受かる自信あるんだから」
僕と姉のやり取りを傍で聞いていた卓也が、突然上擦った声を出した。
「お、お姉さん……」
「はい?」と、姉は怪訝な表情。
卓也はぼうっとして姉を見つめている。なにやらただならぬ雰囲気。え? もしかして……
「お、お姉さんの服、きれいですね」
姉はぱっと顔を輝かせた。
「あなた、見る目あるわねえ、これ、ブランドものよ。日本の有名なデザイナーがデザインしたの。東京の原宿の専門店にしか売ってないの」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。じゃあ、君、ゆっくりしていってね」
姉は卓也に笑いかけた。眩しいような満面の笑みだ。さっきは“遊んでていいの?”なんて聞いたくせに。
「は、はいっ……!」
って、卓也は学校の体育で出席を取られる時にも出さないような威勢のよい返事をした。
出て行った姉の後ろ姿をぼんやりと見送った後も、なんだかぼんやりしている。
「どうかした?」
「お姉さんの服…… ブランドものなんだって…」
「うん」
「有名なデザイナーがデザインしたんだって……」
「だってね」
「東京に行かなきゃ、手に入んないんだって……」
「そうみたいだけど…… それがどうしたの?」
「あの服、なんでYURIが着ているんだろう?」
「はあ?」
「YURIもあれと同じの着ている……」
僕は動揺したが、ここでも落ち着きを装って、
「彼女も持っているんじゃないの? 別にいいじゃない?」
「でも、ブランドものの高級品だよ。なんでまだ高校生のYURIが……?」
YURIのプロフには年齢は書かれていないけど、卓也の頭の中には彼女は同年齢ということになっている。単に受験生だという理由で。まあ、僕が送った画像も20歳過ぎには見えなかったけど。
「似ているだけじゃない?」
「同じだよ、あれは同じ服だ」
あの画像一枚きりで彼女の服までしっかり覚えているのか? いったいどのくらいあの画像を見たのか?
「なら、コピー商品かも……」
「コピー商品?」
「ブランド品の偽物。外国かどっかで作られたのが国内に持ち込まれて……」
「そうかなあ」
「そうだよ、似ているだけで別物だよ。それにたとえ本物だとしても、別にいいじゃない。親が金持ちなだけなんじゃないの? さあ、そんなの気にしない。さっさと練習を始めよう」
僕の部屋に案内するまで卓也は一言も口を利かなかった。
部屋で芝居の練習を始める段になっても、ぼんやりしていて、なんだか集中していない様子。”なんだよ? 神崎に文句言われるの、嫌なんじゃないの?“ って、ハッパをかけてやりたかった。
「ねえ、おまえの姉さんってさあ……」って、漸く口を利いたと思ったら、また姉の話だ。「受験生なの?」
「うん。今は美容師の学校に通っていて、来年国家試験を受けるんだって」
「そうなんだ……」
「それがどうかした?」
「いや……」
「じゃあ、始めるよ。この二幕目の公園の場面から……」
僕はユリナの台詞を言った。
“どうしたの? こんな所へ呼び出したりして……”
タクヤの台詞の返しを待った。
でも、演じる方の卓也はじっとして黙っている。
なんだ? 台詞を忘れた? いきなり……?
30秒待ってやっと口が開いたと思ったら、彼が口にした台詞は……
「YURIだよ、おまえの姉さん、YURIなんだ!」
「はあ?」
なんだ? そんな台詞、台本にはないけど……
「おまえにも画像見せただろう? YURIと同じ服を着ていたし、顔だって……」
僕と姉は姉弟だけあって顔も似ている。たしかに、YURIの画像は姉と似ていなくもない。姉とは年が離れすぎているから、意識していなかったけど。
「まさか……」頬が引き攣ってくるのを誤魔化し、僕は大袈裟に作り笑いを浮べた。「そんなはずないじゃん。髪型が違うし…… だいたいあの画像の人って高校三年なんでしょ? 姉貴はとっくに20歳を過ぎているんだよ」
「いや。前にYURIがくれたメッセージには、自分は学生で受験生だって書いてあっただけで、高三とは書いてなかった」
って、自分で勝手に同い年で高三だって決めつけていたくせに、ここでは冷静に判断していた。
「おまえのお姉さんって、学校に通っているんだろう? それに来年試験を受けるんなら、受験生じゃないか」
「いい? 姉貴はもういい年だよ。もうすぐ24になるんじゃないかな。結婚適齢期だよ。あの画像の人って、もっと若いんじゃない?」
「だから、それでさあ、俺、考えたんだ」
せっかく家にまで来たのに、芝居の練習そっちのけで、そんなこと考えていたのか?
「彼女はきっと俺に四、五年前の、若い頃の画像を送ってきたんだよ」
「はあ?」
「彼女って全然自分のこと教えてくれないんだ。住んでいる場所も、学生なのかも、年齢も…… それで俺、思いついたんだ。そうか、年を教えてくれなかったのは、俺よりもずっと上だからだって。年をばらしたくなくて、自分が高校生の頃の画像を送ってきたんだよ」
「そ……そうなんだ……」
事情をよく知っていながら、僕はすっとぼけて頷いた。
「でも、姉貴はずっとあの髪型だよ。高校生の頃もそんなに長くなかったんじゃないかなあ」
「そうなのか?」
姉は庭球部だった。長い髪に憧れて、“お蝶婦人”みたいに伸ばしかけことがあったけど、動くと邪魔になるからと言って途中で切ったのだ。高校卒業後のOL時代もそんなに長くしていなかったし、美容学校に通い始めてからも食品関係の店でバイトするからと言って、今の長さ以上には伸ばしていなかった。
「姉貴のわけないじゃん。さあ、変な妄想に耽るのはやめて……」
芝居の練習の続きだ。僕はユリナの役に戻った。
“中学になってから、気づいたの、私……本当はあなたが好きだった……”
とっておきの台詞を卓也の前で吐いた。この台本の中ではとくに何度も胸の中で繰り返した最高の台詞。今だって心臓がドキドキ震えている。
だけど、言われた相手はその声が聞こえていないのか、無反応でぼんやりしている。
「どうしたの? 次の台詞は?」
「悪い……」と、卓也は台本を置いて立ち上がった。「ちょっとトイレ借りるわ」
駄目だ。今日の卓也は全然身が入っていなさそう。神崎はさんざん扱き下ろしたけど、学校でやっていた方が遥かにマシだ。
トイレに行ったきりなかなか戻ってこない。
あれ? さっき階段の軋む音が聞こえたように感じたけど…… もしや……
僕は部屋を出た。うちの二階には部屋が二つある。一つは僕の部屋で、一つが姉の部屋だ。
姉の部屋のドアが開いている。中を覗くと卓也が立っていた。
「ここで何やっているんだよ? 人の部屋に勝手に入って……」
仰天して卓也の服を背後から引っ張った。
でも、卓也は落ち着いていて、
「やっぱりYURIはおまえの姉さんだよ!」
と、掴んでいた自分のスマホの画面から顔を上げた。
「この部屋だよ、あの画像、この部屋で写したんだよ…… 背景が一緒だよ……」
差し出されたスマホの画面には、僕が送った一枚きりのYURIの画像が映っている。卓也はその画像の背景と姉の部屋を見比べていたのだ。
背景って…… 画像には被写体がアップで撮られているので、背景なんかほとんど写っていない。壁がほんのわずかに見えているだけだ。ただ壁の色だけで判断しているのだろう。その判断は正しいけど、根拠があまりにも乏しすぎる。
「何言ってんの、背景なんてなにも写ってないじゃんか」
「たぶんこの角度だよ、この壁の前でこの角度でこう写して……」
卓也は自分を被写体にして、スマホを自分の顔の横に翳し、僕があの画像を撮影した時と同じようにポーズを決め、自撮りする真似をしてみせる。僕が自分で撮影した時はデジカメだったけど、違いはそれだけだ。
「そんなの調べたって意味ないよ。ありえないけど、あの画像が僕の姉貴の若い頃の画像だとしたら、この部屋だって当時とずいぶん変わっているんだから。何度も模様替えしてるし、壁紙の色だって変わっているんだから……」
「そうなのか?」
「そうだよ」
模様替えしたかなんて覚えていないし、壁紙の色だって変わっていない。僕は口から出まかせを言い、卓也を姉の部屋から追い出した。
ウィッグが部屋の見える所に置いてなかったのが幸いだった。もしもあれを見つけられていたら、万事休すだったかもしれない。
姉は卓也よりずっと年上だ。まさか、姉をYURIだと想い込むとは思っていかった。卓也は本気みたいだ。僕の姉のこと、本気で想っている。
卓也って守備範囲広すぎ。きれいな女の人は手あたり次第に眼が行くみたいな…… そんなに守備範囲が広いんなら、同性にだって目をかけてもらいたいのに…… 男じゃ駄目なんだろうか? 蜘蛛の巣みたいに広がっている興味の範囲の中に、一人ぐらい同性の子が引っ掛かったりはしないんだろうか…… それで、男でもいいや、自分のことを想ってくれているんだったら、同じ人間なんだから……ってことにならないんだろうか?
まあ……ならないよな、普通……
「じゃあ、俺、帰るよ」
せっかく家にまで来たというのに、その日は芝居の練習はろくにせず、卓也は帰っていった。
「おまえの姉さんによろしく」って、余計な一言を言い添えて。
彼の想い、叶えさせてあげたいけど……
その日の夜、帰宅した姉に僕は聞いた。
勝手に友達を部屋に入れた後ろ暗さを抱えてはいたが、その前には無断で服を着たり、ウィッグを借りたり、化粧品を使ったりしたのだ。その時の後ろ暗さと比べたら、友達に部屋を見せたぐらい比ではなかった。
「僕の友達のことだけど……」
「ああ、昼間来てた子?」
「あいつ、どう思う?」
「どうって……?」
「可愛いとか、楽しそうな子だとか……」
「まあ、私の年齢からしたら可愛いけど……」
「お姉ちゃんの好みじゃない?」
「はあ?」と、僕の顔を不思議そうにジロジロ見て、可笑しがるような変な声を出した。
「なに言ってんの? あの子、高校生でしょう?」
「そうだけど……」
「あたし、もう彼氏がいるのよ」
「え?」
「教えてあげたでしょう? 出張で地方にいる彼……」
「あ……」
この前、学校サボッて会っていたという人? ひょっとして、遠距離恋愛だったの?
「あんたのお兄さんになるかもしれない人よ」
えーっ? それ、本気だったの? 冗談じゃなかったんだ……
「お父さんとお母さんにはもう言っているけど、今度、連れてくるから」
「ほ、本当に……」
「今度の土曜日よ。わざわざ家に来てくれるの」
「……」
「ねえ、今度の土曜日は壮太は家にいる? いるんだったら、紹介してあげるわよ」
姉は燥いじゃっている。きれいな顔の眼元口元がだらしなく弛んで……まあ、眼を吊り上げて怒っている時よりはマシだけど。
駄目だ、卓也…… おまえの願いは叶えてやれそうにない……
僕は胸の中で卓也に詫びた。
だけど、姉は午前中、家でダラダラしていた。
「毎日学校だとね、ほんと、土日の休みの日だけが生きがいだわ。5日分のストレス、発散させなきゃね」なんて言って、土日は必ずおめかししてどこかに遊びに行って(それこそこの前みたいに赤いワンピースを着てロングのウィッグを着けて歩いたりして)、家にいることなど滅多にないはずなのに。
「お姉ちゃん、今日は出かけないの?」
「出かけるわよ」
「そんなにゆっくりしていていいの?」
「ううん……そうねえ……」
「何時に行くの?」
「そろそろ行くけど……」
そう返事が返ってきたのでホッとした。
「なによ、私に出かけて欲しいの? 私が家にいると邪魔なの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
まあ、別にいいか。芝居の練習を聞かれても……
そのうちいなくなるだろうし。
そうして玄関のチャイムが鳴った。卓也だ。
僕は早速出迎えた。
そうしたら……
玄関にいた卓也が目を丸くして、僕の背後を睨みつけた。
その視線を追って、振り向くと、姉が外出の支度をして家の奥から出てきていた。
「あら、壮太、お友達?」
姉は笑って声をかけた。なんと、あの赤のワンピースを着ている。ウィッグまでは着けていなかったけど。
「珍しいわね、壮太にお友達なんて……」
余計なこと言うな、と思った。
「でも。あんた受験生でしょ? 遊んでていいの?」
「いいんだよ、少しくらいなら。お姉ちゃんだって受験前じゃないか」
「私は大丈夫よ、受かる自信あるんだから」
僕と姉のやり取りを傍で聞いていた卓也が、突然上擦った声を出した。
「お、お姉さん……」
「はい?」と、姉は怪訝な表情。
卓也はぼうっとして姉を見つめている。なにやらただならぬ雰囲気。え? もしかして……
「お、お姉さんの服、きれいですね」
姉はぱっと顔を輝かせた。
「あなた、見る目あるわねえ、これ、ブランドものよ。日本の有名なデザイナーがデザインしたの。東京の原宿の専門店にしか売ってないの」
「そ、そうなんですか?」
「そうよ。じゃあ、君、ゆっくりしていってね」
姉は卓也に笑いかけた。眩しいような満面の笑みだ。さっきは“遊んでていいの?”なんて聞いたくせに。
「は、はいっ……!」
って、卓也は学校の体育で出席を取られる時にも出さないような威勢のよい返事をした。
出て行った姉の後ろ姿をぼんやりと見送った後も、なんだかぼんやりしている。
「どうかした?」
「お姉さんの服…… ブランドものなんだって…」
「うん」
「有名なデザイナーがデザインしたんだって……」
「だってね」
「東京に行かなきゃ、手に入んないんだって……」
「そうみたいだけど…… それがどうしたの?」
「あの服、なんでYURIが着ているんだろう?」
「はあ?」
「YURIもあれと同じの着ている……」
僕は動揺したが、ここでも落ち着きを装って、
「彼女も持っているんじゃないの? 別にいいじゃない?」
「でも、ブランドものの高級品だよ。なんでまだ高校生のYURIが……?」
YURIのプロフには年齢は書かれていないけど、卓也の頭の中には彼女は同年齢ということになっている。単に受験生だという理由で。まあ、僕が送った画像も20歳過ぎには見えなかったけど。
「似ているだけじゃない?」
「同じだよ、あれは同じ服だ」
あの画像一枚きりで彼女の服までしっかり覚えているのか? いったいどのくらいあの画像を見たのか?
「なら、コピー商品かも……」
「コピー商品?」
「ブランド品の偽物。外国かどっかで作られたのが国内に持ち込まれて……」
「そうかなあ」
「そうだよ、似ているだけで別物だよ。それにたとえ本物だとしても、別にいいじゃない。親が金持ちなだけなんじゃないの? さあ、そんなの気にしない。さっさと練習を始めよう」
僕の部屋に案内するまで卓也は一言も口を利かなかった。
部屋で芝居の練習を始める段になっても、ぼんやりしていて、なんだか集中していない様子。”なんだよ? 神崎に文句言われるの、嫌なんじゃないの?“ って、ハッパをかけてやりたかった。
「ねえ、おまえの姉さんってさあ……」って、漸く口を利いたと思ったら、また姉の話だ。「受験生なの?」
「うん。今は美容師の学校に通っていて、来年国家試験を受けるんだって」
「そうなんだ……」
「それがどうかした?」
「いや……」
「じゃあ、始めるよ。この二幕目の公園の場面から……」
僕はユリナの台詞を言った。
“どうしたの? こんな所へ呼び出したりして……”
タクヤの台詞の返しを待った。
でも、演じる方の卓也はじっとして黙っている。
なんだ? 台詞を忘れた? いきなり……?
30秒待ってやっと口が開いたと思ったら、彼が口にした台詞は……
「YURIだよ、おまえの姉さん、YURIなんだ!」
「はあ?」
なんだ? そんな台詞、台本にはないけど……
「おまえにも画像見せただろう? YURIと同じ服を着ていたし、顔だって……」
僕と姉は姉弟だけあって顔も似ている。たしかに、YURIの画像は姉と似ていなくもない。姉とは年が離れすぎているから、意識していなかったけど。
「まさか……」頬が引き攣ってくるのを誤魔化し、僕は大袈裟に作り笑いを浮べた。「そんなはずないじゃん。髪型が違うし…… だいたいあの画像の人って高校三年なんでしょ? 姉貴はとっくに20歳を過ぎているんだよ」
「いや。前にYURIがくれたメッセージには、自分は学生で受験生だって書いてあっただけで、高三とは書いてなかった」
って、自分で勝手に同い年で高三だって決めつけていたくせに、ここでは冷静に判断していた。
「おまえのお姉さんって、学校に通っているんだろう? それに来年試験を受けるんなら、受験生じゃないか」
「いい? 姉貴はもういい年だよ。もうすぐ24になるんじゃないかな。結婚適齢期だよ。あの画像の人って、もっと若いんじゃない?」
「だから、それでさあ、俺、考えたんだ」
せっかく家にまで来たのに、芝居の練習そっちのけで、そんなこと考えていたのか?
「彼女はきっと俺に四、五年前の、若い頃の画像を送ってきたんだよ」
「はあ?」
「彼女って全然自分のこと教えてくれないんだ。住んでいる場所も、学生なのかも、年齢も…… それで俺、思いついたんだ。そうか、年を教えてくれなかったのは、俺よりもずっと上だからだって。年をばらしたくなくて、自分が高校生の頃の画像を送ってきたんだよ」
「そ……そうなんだ……」
事情をよく知っていながら、僕はすっとぼけて頷いた。
「でも、姉貴はずっとあの髪型だよ。高校生の頃もそんなに長くなかったんじゃないかなあ」
「そうなのか?」
姉は庭球部だった。長い髪に憧れて、“お蝶婦人”みたいに伸ばしかけことがあったけど、動くと邪魔になるからと言って途中で切ったのだ。高校卒業後のOL時代もそんなに長くしていなかったし、美容学校に通い始めてからも食品関係の店でバイトするからと言って、今の長さ以上には伸ばしていなかった。
「姉貴のわけないじゃん。さあ、変な妄想に耽るのはやめて……」
芝居の練習の続きだ。僕はユリナの役に戻った。
“中学になってから、気づいたの、私……本当はあなたが好きだった……”
とっておきの台詞を卓也の前で吐いた。この台本の中ではとくに何度も胸の中で繰り返した最高の台詞。今だって心臓がドキドキ震えている。
だけど、言われた相手はその声が聞こえていないのか、無反応でぼんやりしている。
「どうしたの? 次の台詞は?」
「悪い……」と、卓也は台本を置いて立ち上がった。「ちょっとトイレ借りるわ」
駄目だ。今日の卓也は全然身が入っていなさそう。神崎はさんざん扱き下ろしたけど、学校でやっていた方が遥かにマシだ。
トイレに行ったきりなかなか戻ってこない。
あれ? さっき階段の軋む音が聞こえたように感じたけど…… もしや……
僕は部屋を出た。うちの二階には部屋が二つある。一つは僕の部屋で、一つが姉の部屋だ。
姉の部屋のドアが開いている。中を覗くと卓也が立っていた。
「ここで何やっているんだよ? 人の部屋に勝手に入って……」
仰天して卓也の服を背後から引っ張った。
でも、卓也は落ち着いていて、
「やっぱりYURIはおまえの姉さんだよ!」
と、掴んでいた自分のスマホの画面から顔を上げた。
「この部屋だよ、あの画像、この部屋で写したんだよ…… 背景が一緒だよ……」
差し出されたスマホの画面には、僕が送った一枚きりのYURIの画像が映っている。卓也はその画像の背景と姉の部屋を見比べていたのだ。
背景って…… 画像には被写体がアップで撮られているので、背景なんかほとんど写っていない。壁がほんのわずかに見えているだけだ。ただ壁の色だけで判断しているのだろう。その判断は正しいけど、根拠があまりにも乏しすぎる。
「何言ってんの、背景なんてなにも写ってないじゃんか」
「たぶんこの角度だよ、この壁の前でこの角度でこう写して……」
卓也は自分を被写体にして、スマホを自分の顔の横に翳し、僕があの画像を撮影した時と同じようにポーズを決め、自撮りする真似をしてみせる。僕が自分で撮影した時はデジカメだったけど、違いはそれだけだ。
「そんなの調べたって意味ないよ。ありえないけど、あの画像が僕の姉貴の若い頃の画像だとしたら、この部屋だって当時とずいぶん変わっているんだから。何度も模様替えしてるし、壁紙の色だって変わっているんだから……」
「そうなのか?」
「そうだよ」
模様替えしたかなんて覚えていないし、壁紙の色だって変わっていない。僕は口から出まかせを言い、卓也を姉の部屋から追い出した。
ウィッグが部屋の見える所に置いてなかったのが幸いだった。もしもあれを見つけられていたら、万事休すだったかもしれない。
姉は卓也よりずっと年上だ。まさか、姉をYURIだと想い込むとは思っていかった。卓也は本気みたいだ。僕の姉のこと、本気で想っている。
卓也って守備範囲広すぎ。きれいな女の人は手あたり次第に眼が行くみたいな…… そんなに守備範囲が広いんなら、同性にだって目をかけてもらいたいのに…… 男じゃ駄目なんだろうか? 蜘蛛の巣みたいに広がっている興味の範囲の中に、一人ぐらい同性の子が引っ掛かったりはしないんだろうか…… それで、男でもいいや、自分のことを想ってくれているんだったら、同じ人間なんだから……ってことにならないんだろうか?
まあ……ならないよな、普通……
「じゃあ、俺、帰るよ」
せっかく家にまで来たというのに、その日は芝居の練習はろくにせず、卓也は帰っていった。
「おまえの姉さんによろしく」って、余計な一言を言い添えて。
彼の想い、叶えさせてあげたいけど……
その日の夜、帰宅した姉に僕は聞いた。
勝手に友達を部屋に入れた後ろ暗さを抱えてはいたが、その前には無断で服を着たり、ウィッグを借りたり、化粧品を使ったりしたのだ。その時の後ろ暗さと比べたら、友達に部屋を見せたぐらい比ではなかった。
「僕の友達のことだけど……」
「ああ、昼間来てた子?」
「あいつ、どう思う?」
「どうって……?」
「可愛いとか、楽しそうな子だとか……」
「まあ、私の年齢からしたら可愛いけど……」
「お姉ちゃんの好みじゃない?」
「はあ?」と、僕の顔を不思議そうにジロジロ見て、可笑しがるような変な声を出した。
「なに言ってんの? あの子、高校生でしょう?」
「そうだけど……」
「あたし、もう彼氏がいるのよ」
「え?」
「教えてあげたでしょう? 出張で地方にいる彼……」
「あ……」
この前、学校サボッて会っていたという人? ひょっとして、遠距離恋愛だったの?
「あんたのお兄さんになるかもしれない人よ」
えーっ? それ、本気だったの? 冗談じゃなかったんだ……
「お父さんとお母さんにはもう言っているけど、今度、連れてくるから」
「ほ、本当に……」
「今度の土曜日よ。わざわざ家に来てくれるの」
「……」
「ねえ、今度の土曜日は壮太は家にいる? いるんだったら、紹介してあげるわよ」
姉は燥いじゃっている。きれいな顔の眼元口元がだらしなく弛んで……まあ、眼を吊り上げて怒っている時よりはマシだけど。
駄目だ、卓也…… おまえの願いは叶えてやれそうにない……
僕は胸の中で卓也に詫びた。
