泣き面に飛んできたのは蜂なのか

 帰りのホームルーム終わり、スマホを確認すると、演劇部のグループチャットに『今日は講堂に集合してください』と副部長の 澤村由佳(さわむらゆか)先輩からメッセージがきていた。
 急ぎ足で教室を去っていくクラスメイトたちの流れにすっかり乗れなかった俺は、ひとり、とぼとぼと廊下を歩いた。
 右肩にかけたリュックが、いつもよりずっしりと重い。課題が出た英語と数学の教科書とノート、筆記用具、それと空になった弁当箱と水筒。それしかリュックには入っていないはずなのに、まるで黒い岩を背負っているようだ。
 正直、部活に行きたくなかった。
 あらた先輩と会うのは、気が重い。
 まだ好きだから、会えれば嬉しいとも思う。でも、それと同時に別れた事実に心をズタズタに引き裂かれるのも目に見えている。部活中、あらた先輩が近くにいて平常心でいられる自信がなかった。
 病み上がりだから……と、サボることも考えた。だけど、今日は練習ではなく話し合いがメインだ。体調を理由にするには、少し無理がある。
 それに今日の話し合いの議題は、夏休み明けにある文化祭についてのはずだ。今後のことを考えれば、参加した方がいいということもわかっている。わかっているんだけど、できれば行きたくない。
 ぼんやりと、亀速度で歩いていても、歩いてさえいれば目的の場所には着いてしまうものだ。
 校舎とも体育館とも別に、敷地内に独立して建っている講堂の大きなガラス扉の前で俺はため息をついた。
 ロビーに部員は誰もいないようだが、ホールからいつ出てくるかわからない。
 早く行くか行かないかを決めないと。そうは思うのだけど、どちらにも踏ん切りがつかないでいた。
 行きたくない。
 でも行かないと。
 いや、やっぱり行きたくない。
 でも……。
 足は立ち止まっているのに、頭の中では選択肢がぐるぐる行ったり来たり。
 ぐう……とひとつ唸ったところで、スラックスのポケットに入れていたスマホが短く振動した。
 確認すると『今日、来るよね?』と一言。個別でメッセージがきていた。送り主は副部長の澤村先輩だ。
 おそらく、すでにみんな講堂に揃っているのだろう。
 もう腹を括るしかない。
 泣きたくなったら……トイレにでも避難しよう。
 俺は『もう着きます、すみません』と手早く返信を打ち込み、重いガラス戸を押した。そのまま真っ直ぐ突き進み、ホールの扉もその勢いのまま開けて、いつもは利用しない客席側の出入り口から中へと入った。
「お、来た来た」
 入ってすぐ、目の前の通路に面した客席に座っていた人物から声が上がった。
「なんで……」
 俺は驚きで固まった。
 客席にいたのは、望月だった。
 もう今日は会わないと思っていたのに。
 いったい、部員でもない望月が、なぜここに?
「今日バイトなくて暇だし、俺部活入ってないし、部活ってのに興味が湧いたから来てみた」
 訊かずとも、望月は自ら理由を話した。だけど、俺はその話を半ば疑って受け止めた。
 その興味は本当に部活に対する純粋な興味か?どう考えても、他に興味の対象があるとしか思えない。
「入るつもりもないのに見学なんて来るなよ」
 咎めるように言えば、望月はニッと笑った。
「えー、でも、みんなは見学していいってさ」
 舞台を振り見た望月の視線を辿ると、舞台上にいる部員たちがこちらの様子を窺っていた。
 表情は遠すぎてわからないが、なんとなく望月に期待するオーラのようなものを感じた。
 望月を一瞥する。ステージ上の明かりしかついていない講堂内の客席は薄暗い。それでも、望月の整った顔立ちは明らかに目立っていた。
 そうだった……性格はこれだけど、顔とスタイルは無駄にいいんだもんな、こいつ。
 舞台に立ち、スポットライトの光を一身に浴びる望月を想像する。さぞ映えて観客の目を惹くことだろう。それが容易に想像できる役者候補が「見学したい」と自ら門を叩いてきたのだ。演劇部員がそれを断るはずがない。仮に、望月が訪ねてきたのが先週だったとしたら、俺だって両手をあげて歓迎していたに違いない。
「ミチくん、望月くんと友達だったの?」
 よく通る柔らかな声が、緩衝材のように俺と望月の間に挿入された。
 いつの間にか、あらた先輩がすぐ近くまで来ていた。
 3日ぶりに見るあらた先輩の姿に、胸がずきずきと痛み出す。
 大好きな優しい眼差しも、今は正面から見つめ返せない。
 俺は視線を彷徨わせた。それに合わせて、答えるべき言葉も頭の中で彷徨って、どこかに行ってしまったらしい。
「えっと……、まあ……」
「友達っていうか、それ以上?」
 俺が口籠もると、望月が横から割って入って、勝手に答えてしまった。
「それ以上?」
 先輩がきょとんとしているのは声だけでもわかった。
 俺は望月に咎めるような視線を送るが、望月の視線はあらた先輩に固定されていて、俺の無言のメッセージは届きそうもなかった。
 仕方なく、俺は咳払いをひとつすると、緊張で声が裏返らないように気をつけながら言葉を発した。
「あ……あらた先輩、こいつの言うことは気にしないでください。適当なことしか言わないので」
 望月がまた余計なことを言い出してしまう前に、先輩に注意を促す必要があると思ったのだ。望月はどうしたって勝手に動くし、勝手に喋る。なら、言葉を受け取る側に気をつけてもらうほかなかった。
「一番俺の言葉を気にして騒いでる人に言われてもねー?」
 望月は肩を竦め、態とらしく大きなため息を吐いた。その態度にカチンときた。
「うるさいな」
「ほら、そうやってすぐ俺の一言に反応する」
「あーもう、うるさい」
「図星だからって怒るなよ」
「別に怒ってないし。図星じゃないし」
 ふんとそっぽを向くと、にこにことこちらを見て笑っているあらた先輩と目が合ってしまった。
 俺は慌てて少しだけ視線を下げた。
 気まずいのもあるが、同級生と言い合うなんて子供っぽいところを見られてしまったのがひどく恥ずかしかった。
「仲良いんだね。なら、部の説明はミチくんにお願いしようかな?」
「……それはいいですけど、こいつに説明しても無駄だと思います。入る気ないので」
「それはわかんねーだろ」
「そうだよ。ミチくんの説明次第かも、なんて」
 あらた先輩が冗談めかして言うと、望月はあからさまに嫌そうな顔をした。
 なんて顔を先輩に向けるんだとギョッとしたけれど、あらた先輩を見れば、気づいていないのか、気にしていないのか、にこやかな笑顔は崩れていなかった。
「さ、みんなのところに行こうか。全員揃ったし、そろそろ始めないとね」
 そう言って、踵を返した先輩を俺は慌てて呼び止めた。
「あの、先輩。これ……返します」
 立ち止まって振り向いたあらた先輩に、胸ポケットから取り出した鍵を差し出した。
「ああ、そうだった。貸したままだったね」
 鍵を取ろうとした先輩の指先が、俺の指に触れた。刹那の体温に、嬉しさと悲しさが同時に突沸し、胸が痺れを伴った痛みを発した。
 感情が混線し、涙になって外に出ようとする。でも、ここで泣くわけにはいかなかった。俺は唇を引き結んで、涙を必死に堪えた。
 遂に、先輩との最後の繋がりだった鍵は、俺の元から消えてしまった。
 残ったのは、未練たらしい恋心だけ。
 躊躇なく鍵を回収した先輩の姿に、改めて先輩はもう俺のことをどうとも思っていないんだと知った。
 早く慣れて、諦めないと。
 でも、こんな簡単に感情を乱されてしまう俺に果たしてできるだろうか……。
「ミチくん、もしかしてまだ具合悪い?」
 知らず俯いた俺の顔を、先輩は心配そうに覗き込んできた。どうやら、ただ悲しくて歪んでしまっただけの表情は、あらた先輩には体調不良を我慢しているように見えたようだ。
 俺は小さく首を横に振った。
「あ……、いえ、大丈夫です」
「そっか。それならいいけど……無理しちゃダメだよ」
 あらた先輩の手が、俺の頭に向かって伸びてくる。
 その動きはあまりにも自然で、俺はそのまま受け入れようとした——が、先輩の手は俺の頭に触れることはなかった。
 なぜなら俺の身体は、手から逃れるように後ろに傾いていたから。
「へー、そういうことすんだ、センパイ?」
 少しだけ上から降ってきた艶のある声に、俺は望月に引っ張られたのだと理解した。背中に感じる望月の体温はあらた先輩の体温より、ずっと高い。馴染みのない体温のはずなのに、不思議と心が安らぐのは何故だろう。
「道弥にあんなことしといてよくもまあ、簡単に触れようとするよな」
 首に左腕をまわされ、右肩を掴まれた感覚で、ようやく俺は我に返った。
 今俺は何を考えてた……?安らぐ?俺が?望月に?ないないない。そんなの、あり得ないって……!
 俺は自分が不意に抱いてしまった感情にも、捕らえられてしまった腕からも逃れようと必死にもがいた。
「あんなこと……?」
「とぼけんだ?道弥にすげー手酷いことしたのに」
 まわされた腕に力が入ったのを感じた。どんな表情をしているかは見えないが、望月の声には明らかに苛立ちが滲んでいる。
 ……なんで望月が怒るんだ?
 事の顛末を全て見ていたからだろうか……?
 同情してくれてるのかもしれないが、それでわざわざ先輩に噛みつくなんて損なことを望月がやる必要はないはずだ。
「ちょっと、望月——んんっ」
 望月を止めようと口を開いたら、即座に望月の右手で口を塞がれてしまった。
 なんでだよ……⁉︎
 望月の右腕に手をかけるが、びくともしない。
「ま、もう関係ないか。センパイが手放したもんは、ぜーんぶ俺がもらったんで。あ、またほしいとか言わないでくださいね」
「……なんの話かな?」
 先輩は笑顔のまま首を傾げた。
 その笑顔からは本当にわかっていないのか、それとも望月の言うようにとぼけているだけなのかは読み取れない。
 ただ、これだけ望月に一方的に言われても、顔色ひとつ変えないなんて……。すごいけど、少しだけ怖い気もする……。
「あらた、工藤くん、望月くーん。そろそろ始めるよー」
 舞台上から副部長の声が飛んでくる。
 もう一度望月の右手に手をかけると、今度は簡単に外れた。
「……っあ、はーい!今行きまーす!あらた先輩、すみませんでした……!ほら、一緒に行くぞ」
 舞台上に返事をし、あらた先輩には頭を下げ、掴んでいた望月の右手をそのまま引っ張って、強制的に望月をあらた先輩から引き離した。
 後ろを振り返り、こちらの声が聞こえない距離に先輩がいることを確認してから、それでも念のため声を顰めて訊いた。
「なんなんだよ、さっきの」
「なにって、マウント、煽り、挑発」
「初対面の先輩相手にそういうことするなよ……!」
「普通にムカつくから喧嘩売っただけ。喧嘩売られてるのわかってて買わないとこもムカつく」
「あのなあ……」
 俺は頭を抱えた。
 何をそんなに怒っているかは知らないが、マウントも煽りも挑発も、相手がどんな人であれ、していいことじゃないだろ……。本能で縄張り争いをしてしまう野生動物じゃあるまいし、少しは人間らしく理性を働かせてほしい。
 はあっとため息をこぼすと、何故が望月の怒りの矛先は俺に向いた。
「流されそうになった道弥もムカつくけど?」
「はい?」
「俺以外に流されんの禁止」
「意味わかんないし、お前にこそ流されたくないっての」
「そう言いながら流されるのが道弥だけどなー?」
 機嫌が直ってきたのか、望月の言葉尻が少し柔らかくなった気がする。
 それはいいことだが、どうしても見過ごせない点が俺にはもうひとつある。
「……あのさ、さっきから勝手に『道弥』呼びしてるけど、急になに?」
「呼び方考えるって言ったろ?」
 そういえば昼休みにそんなことを言っていた気がするが……まさかすぐに実行してくるとは。
 この男は、つくづく有言実行が早すぎる。
「道弥も『壮太』って呼べば?というか、道弥には『望月』とも呼ばれてないけどな」
 望月は不満げに口を尖らせた。
「意地張ってんのか、俺に嫌われようとしてんのか知らんけど、諦めて名前呼べよ。そんなことで俺は道弥から手を引いたりしねーぞ」
 すっかり見抜かれてしまっていた。
 名前を呼ばないことは、俺の細やかな抵抗のつもりだった。
「……気が向いたらな」
 俺は素っ気なく答えると、歩く速度を上げた。