泣き面に飛んできたのは蜂なのか

 昼休み終了まであと15分ほど。俺たちは少し早めに屋上を出て、教室への帰路に着くことにした。
 1組は屋上がある校舎、ここ西棟にあるため、3階まで降りてしまえばすぐに戻ることができるが、望月の特進クラスは、2階の渡り廊下で繋がった向かいの東棟にある。
 どちらの棟にも等しく実験室や音楽室等があり、ひとつの棟内で全てが完結するような造りになっている。違うのは、屋上と職員室は西棟にしかないということくらいだろうか。
 そのため、全てが揃っている西棟が本拠地の俺は基本的に東棟に出向く機会がない。移動時間にどれくらいかかるか見当もついていなかったが、望月曰く案外時間がかかるらしい。
「別に始業に遅れたっていい」と言って、屋上に転がった望月を俺が無理矢理引っ張り出して今に至る。
 屋上に来た時とは逆で、今度は俺が先頭で、一歩後ろを望月がついてくる。
「だーかーら、目玉焼きにはケチャマヨだっての」
 何度言われても頷かない俺に、望月が不満げに言った。顔は見えないが、たぶん口はとんがっているはずだ。
 どうにもくだらないが、目下の議題は「目玉焼きには何をかけるか」だった。
 俺も俺で、自分の主張は譲らない。
「俺はつけない。それに、さっきから言ってるそれ、正しくはオーロラソースだから」
「どっちでも美味しさは変わらんて。とりあえず一回つけて食べてみ?世界変わるから」
「だから俺は何もつけない派なんだって」
「いや、そんな派ないから」
「ある。ここにいるから、その派の人間が。お前の目の前に」
 なんだかんだで望月のペースに巻き込まれている自覚はある。
 最初はその強引さを面倒にも思ったが、望月と言い合いをしていると、あらた先輩と別れた辛さに呑み込まれなくて済んだ。辛い波が足元を掠める手前で、波が絶対に届かない乾いた浜辺まで望月が引っ張っていってくれる、そんな感じ。
 その点は感謝しているが、だからといって望月に対する警戒が解けるわけでも、望月を煩わしく思う気持ちが変わるわけでもない。
 未だ背後でオーロラソース……望月風に言えばケチャマヨの魅力を力説している声を聞き流しながら、階段を降りる。
 丁度2年のクラスがある3階まで降りたところで、俺はある光景が目に止まり歩く速度を上げた。
「工藤?」
 戸惑うような望月の声が聞こえたが、それは無視して、廊下をよろよろと歩く見覚えのある女子生徒に駆け寄った。
 すぐ近くまで来た時、女子生徒が持っていたノートのタワーが右側に傾いた。と同時に「あ」っと、小さな焦り声が聞こえた。
 俺は手を伸ばし、崩れるすんでのところでノートの雪崩を堰き止めた。
「っと、吉澤(よしざわ)さん大丈夫?」
「……工藤くん⁉︎」
 こちらを向いた吉澤さんの目は、かけている丸メガネのようにまん丸になった。
 俺は固まっている吉澤さんの手から、ノートのタワーを引き取った。
「これどこまで?準備室?職員室?」
「えっと……職員室だけど……って、大丈夫だよ……!私持っていけるから……!」
 手からノートがなくなったことに気づいた吉澤さんは、途端に慌て始めた。おろおろする姿はまるでハムスターみたいだ。
「無理しないで。吉澤さん」
 笑むと、吉澤さんは顔を俯けて綺麗に切り揃えられたボブヘアーの毛先を指先で弄った。
「あの……なんで私の名前……」
「だって去年同じクラスだったでしょ?」
「それは、そう、だけど……」
 俺の答えに、何故か吉澤さんは納得がいっていなさそうだ。
 ……俺ってそんなに人の顔と名前を覚えなさそうって思われているのか?
 まあ、たしかに、望月の顔は覚えていなかったし、名前も聞いたことあるなーくらいだったけれど。
 流石に同じクラスで一年を共にしたクラスメイトの顔と名前は覚えている。それにまだ学年が上がって3ヶ月弱しか経っていないし、忘れるわけがない。
 ただ、思い返せば、吉澤さんとはほとんど話したことがなかった。だから彼女にとっては不思議なのかもしれない。
 でも、俺の中では吉澤さんはあることで強く印象に残っていたのだ。 
「俺、写真部の『今週の一枚』楽しみなんだよね」
 言うと、吉澤さんは俯けていた顔を上げ、首を傾げた。急になにを……?と言いたげな表情だ。
 俺は構わず言葉を続けた。
「去年の夏に貼られてた、夕陽に照らされた誰もいない教室の写真、あれお気に入りでさ」
 懐かしむように言えば、吉澤さんの表情がみるみる驚きに染まっていく。
「それ……」
「そう。吉澤さんが撮った写真」
 職員室の横、校内の行事やお知らせ等が掲示される特大の掲示板にその『今週の一枚』のコーナーはある。
 毎週写真部が直近で撮った写真を掲載しているのだ。入学してからしばらくは、そういったコーナーが設けられていることも知らなかった。
 だけど去年の夏、担任に呼ばれた宇部について行って職員室前で待っていた時、暇つぶしに掲示板を眺めていて見つけたのだ。その時に飾られていたのが吉澤さんの写真だった。
 赤に近い橙色に染まった無人の教室は、自分がいつも見ている教室とは違う表情で小さな枠に収まっていた。フィルムカメラで撮影したのか、少しレトロな質感が、より一層非日常感を演出し、幻想的な世界を創りあげていた。俺の心は一瞬でその画に惹きつけられた。
 その写真が掲載されている期間は、何度もそのコーナーに足を運んだ。週が変わると、写真は3年生の作品に変わってしまっていたが、それはそれで、この人には世界がこう見えているのかと興味深く眺めた。
 それからは、毎週月曜日のホームルーム前に必ず『今週の一枚』をチェックするのが習慣になった。今週は一年生が撮った、雨粒がついた水色紫陽花の写真が飾られている。
 どの写真も素敵だなと思うが、あの日見た吉澤さんの写真と同じ衝撃を受ける作品にはまだ出会えていない。
「……気に入ってくれてたなんて、知らなかった……」
 吉澤さんが照れと驚きが混ざった呟きを溢した。
 そして、一度目を伏せた後、再びこちら向けられた吉澤さんの黒い瞳は、何かの決意を宿しているように見えた。
「も、もしよければだけど……現像した写真、いる……?」
「えっ、くれるの?」
 俺は目を瞬かせた。予想外だった。
「う、うん……」
「やった、嬉しい。ありがと」
 思わず声が弾んだ。
 まさかまたあの写真を見れる日が、というか、自分の手元にあの写真がやってくるなんて。もらったら額に入れて、部屋のどこに飾ろうか。考えるだけでわくわくする。
 嬉しさをそのままに笑うと、瞬時に吉澤さんの頬があの写真のように赤く染まった。
 どうかした……?と問う間もなく、
「はーい、もう半分は俺が持ちまーす」
 突如、横から割り込んできた声と共に伸びてきた手に、ノートの半分が持っていかれた。
「も、望月くん……⁉︎」
 吉澤さんが上擦った声で驚きを露わにする。
「どーも、望月でーす」なんて、望月が自己紹介しているあたり、ふたりは初対面なのだろうけど。吉澤さんは顔を見ただけで望月だと認識していた。本当にこいつは有名人なんだなと変に感心してしまう。それと同時に、そんなやつがなんで俺に絡んできて、そのうえ「俺と付き合おっか」なんて言ってきたのか。ますます望月に対する謎は深まるばかりだ。
 そして今、もうすぐ昼休みが終わってしまうタイミングで、一番教室が遠い望月がノート運びを買って出たことも、だ。
「はあ……お前は職員室寄ってたら次の授業間に合わないぞ」
「かもね。でも、次もっちゃん先生の授業だからよゆー」
 へらへらと余裕を浮かべ笑ってみせる望月に、俺はさらにため息をついた。今の言葉を聞いたら、杉本先生泣くぞ。
「も、望月くん、私がその半分持つから戻ってもらって大丈夫だよ……っ」
「もう持っちゃってるし、このまま行った方が早いって。さ、行こう行こう」
 慌てて望月の持つノートに手を伸ばす吉澤さんだったが、その手を躱わすように歩き出してしまった望月には届かなかった。
 申し訳なさそうに眉を下げた吉澤さんに「大丈夫だよ。一緒に行こう」と声をかけ、望月の後を追った。
「工藤くん、望月くん、本当にどうもありがとう……!私、次音楽だから先戻るね」
 職員室に無事にノートを提出した後、吉澤さんは廊下を小走りで戻りながら、時々立ち止まっては何度も俺たちに向かってお辞儀をしていた。その度に、大丈夫だよの意味を込めて手を振った。
 吉澤さんの姿が見えなくなると、望月は「なるほどねー」と独り言ちた。
「あの子、工藤のこと好きになっちゃったなー。てかあれだ、前から好きだったけど、認知されてて加速した感じか」
「なに言ってんの?そんなわけないだろ」
 俺は望月の憶測を否定するように首を振った。
 なにをどう見たらそういう結論に至るのかわからない。本当に望月の思考回路はどうなってんだ。
「それに俺……恋人いるって一応周りに言ってるから」
 これ以上、望月の戯言に付き合っていたら俺まで授業に遅れてしまう。
 もうこいつは置いて、さっさと教室に戻ろう。
 一歩踏み出した、その時だった。
「ああ、それなら『別れたらしい』って言っといたから大丈夫」
「…………、はい?」
 今、なんて?
 俺は踏み出した足を戻し、摩訶不思議な思考回路を持つ隣のイケメンを見上げた。
「1組の女子が月曜の工藤の様子心配してたから言っといた。だから、少なくとも学年の女子は、工藤がフリーだって全員知ってんじゃん?」
 平然と言われ、唖然とした。
 驚きは、みるみる怒りへと変貌する。
 なに勝手にひとのプライベート情報漏らしてるんだよ……!
 ああ、もう、ほんとこいつといると頭痛くなる……!
 俺は額を押さえ、息を深く吐いたところで、ある疑念が湧き、はっと息を呑んだ。
 望月に探るような視線を向ける。
「……まさかだけど、相手が誰だとか、言ってないよな……?」
「言うわけないじゃん。付き合ってくれたら黙るって約束してるし」
 変なところで律儀な望月に全身の力が抜けた。怒る気力まで見事にごっそり。
「てなわけで、1週間以内にあの子に告白されるに購買の焼きそばパン賭けるわ」
「……お前ほんとろくなことしないな。というか、人の気持ちで賭けなんてするなよ」
 呆れながら言うと、望月は蜜色の瞳で俺をじっと見つめた後、納得したようにひとつ頷いた。
「そういうとこだよな、工藤が好かれるのは」
「お前が言うと嫌味にしか聞こえないけど?」
「……俺に向けられるのは表面的な好意だから」
 そう言って、望月は苦笑する。その表情は、寂しそうにも、辛そうにも見えた。
 まさかの反応に俺の胸はどきりとした。
 謝る……のも違う。だけど、「そんなことはない」なんて、軽々しく無責任なことも言えない。
 俺は望月のことをよく知らないし、望月に好意を抱いている立場でもない。
 そんな俺が、こいつにかけられる言葉はないだろう。
 どうしたものか。
 そう思ったのも束の間、望月の表情はまたすぐにいつものだらしない笑顔に戻っていた。
「あーあ、俺の彼氏くんはモテちゃって困るなー」
 茶化すような口調で言いながら、俺の肩に腕を回して体重をかけてくる。俺の胸は、また別の意味でどきりと跳ねた。
「なっ……お前!そういう発言は控えろよ!」
 望月の腕から抜け出し、人がいないか周囲を見渡して確認する。
 幸い、廊下には誰もいなかった。
 だけど、すぐ近くには職員室がある。先生たちに聞こえてしまってないといいけど……。
「だーい丈夫だって。俺の発言は冗談にしか聞こえないから」
「自分で言うか」
「だから今キスしたって問題な……い゛だーい゛」
 近づけてきた望月の顔の左頬に、俺は右拳をめり込ませ、ぐいぐいと押してやった。
 これは断じて殴っているのではない。勢いのついてない拳で顔の方向をずらしているだけだ。
 本当はグーパンをしたいところを、譲歩してやっているのだ。感謝しろよ、望月。
 望月の顔が横を向き切ったところで、俺はぱっと拳を放し、素早く望月と距離を取った。そのまま、階段目指して早歩きをする。
 暴力はんたーい、などと間延びした抗議が聞こえるが、無視だ無視。
 普通、ここまでの態度を取れば、大抵の人は身を引く。
 だけど、逆にそれを面白がり、めげずに絡んでくるのが望月という男である。
「つーか、俺に対してと元カレに対して態度違くない?同じ彼氏なんだけど?」
 やっぱり追いかけてきた。
 そして、また彼氏発言。もう本当にいい加減にしてほしい。
 俺は足を止め、一段下にいる望月を見下ろした。
「違うのなんて当たり前だろ」
 お前に脅されなきゃ付き合ってなんていないんだから。
 そんなこと、わかりきっているはずなのに、望月は驚いたように目をころころとさせた。
「元カレにしてたみたいに甘えたり、強請ってくれたっていいんだぜ?俺は大歓迎なんだけど?」
「するわけないだろ」
 吐き捨てるように言えば、望月は口を尖らせて不平を口にした。
「えー、つまんねー」
 つまんないもなにも、百歩譲って——あの日付き合うと頷いたのは間違いないから、彼氏であることは認めよう。
 だけど俺はお前の好奇心を満たしたり、退屈を凌ぐための玩具じゃない。そんなものになるつもりなんて毛頭ない。
 そういう相手がほしいなら、喜んで引き受けてくれるような相手と付き合えばいいものを……。望月ならそういう相手はすぐに見つかるはずだ。それなのに、本当になぜ俺なんだ。
「あ、そうだ、俺も『ミチくん』って呼べば——」
「やめろ!」
 望月の言葉を、拒絶の言葉で床に叩きつけた。
 驚いて瞬く蜜色の瞳を、きつく睨みつける。
「……冗談でも絶対に呼ぶな」
 望月だからダメなのではない。
 他の誰にも、その愛称で呼ぶことを許すつもりはなかった。
 その愛称は、あらた先輩だけのものだ。
——ミチくん、好きだよ。
 あらた先輩の、柔らかい声色が脳内で容易く再生できてしまう。
——苦しい。
 もう俺は、あらた先輩の「ミチくん」ではなくなったのだ。
 痛む左胸を、ワイシャツを掴むようにして押さえ込んだ。
 望月は短く息をつくと、両手を自身の後頭部にまわした。
「わかったよ。じゃあ俺は俺なりの呼び方でも考えるかー」
「……考えなくていいから」
「えー、つまんねー」
 また望月は唇をつんと尖らせた。
 俺を追い越し、先を歩き始めた望月の後に続く。
 丁度2階に到着した時、ふたりだけの廊下に予鈴が響き渡った。
 もうこれで、今日は望月の相手をしなくて済む。そう思うとほっとした。
 さっさと3階に行こうとしたところで、腕を掴まれてしまった。
「なあ、今日一緒帰ろうぜ」
 めげないというか、しつこいというか。
 何故冷たくあしらっても俺に絡もうとするのか。
 俺はため息と共に、望月の腕を静かに払った。
「部活あるから無理」
 そう答えると、望月の瞳の蜜色は、きらりと好奇の光を放った。
「部活?何部?」
「……演劇」
「演劇?今まで工藤が出てんのみたことねーけど」
 望月は訝しむような眼差しを向けてくる。
「俺は裏方だから」
「ふーん。……あ、なるほど、それきっかけか」
 また勝手にひとりで納得している。
 こいつの思考回路と言動を理解しようとするのは無理だ。
 諦めよう。
 この一時間にも満たない時間で、充分に思い知らされた。
 こうなったら、もう放置だ、放置。
「じゃ、俺こっちだから」
 投げやりに別れの言葉をかけると、望月は嬉しそうに笑った。
「おう、またな」
 こちらに手を振り、渡り廊下を目指して遠ざかっていく望月の足取りは軽い。
 俺は重い息を深く吐き出すと、3階に向けて歩みを再開させた。