「さっきのなんなんだよ」
一段先を登る背中に問えば、「なにが?」とこちらを振り返ることなく望月が質問で返してきた。
踊り場で望月の横に並び、俺は呆れまじりの息をこぼした。
「宇部と田野木のことだよ。仲良いなんて知らなかった。中学同じだったとか?」
「いや、工藤が休んでる間一緒に昼食ってたら仲良くなったってだけ。で、今度カラオケ行く予定」
なんでもないことのように語られたせいで流してしまいそうになるが、3回一緒にご飯を食べただけでカラオケに行く流れまでもっていくって、どうやったらそうなるのだろうか。
俺なんて、付き合っていたあらた先輩とでさえ行ったこともないのに。というか、あらた先輩とは学校外では一度も会ったことがなかった。受験生である先輩の邪魔をしちゃいけないと思ってずっと我慢していたから。先輩の合格祝いが初デートだ!と意気込んでいたけれど、こんなことになるなら我慢なんてせずにデートしたいって先輩に言えばよかった。
じわじわと湧いてくる後悔に足を取られ、俺の足取りは勝手に重くなる。
落ち込みと共に彩度が低くなりつつある視界に、明るい金色が飛び込んできた。
「工藤も行く?」
覗き込むようにして訊いてきた望月に、俺は眉を顰め即答した。
「行かない」
行くわけがない。なぜ天敵望月がいるとわかっている集まりに参加すると思うのか。
お前はもっと自分が俺に嫌がられているということを自覚してくれ!
ふいっと顔を背けると、少しだけ上から明らかにニヤついた声が降ってきた。
「ふーん」
「…なに」
どうせろくなことじゃないとわかっていながらも、つい訊いてしまう自分が嫌になる。
返答せず、んー?ととぼけたような声を出すだけの望月に、訝しむような視線をぶつけた。
目が合うと、この時を待ってたと言わんばかりに望月の笑みが深まった。
「いや、やきもち妬くタイプかーって思って」
瞬間、前を歩く望月の背中を思いっ切り平手打ちしてやった。
「いてっ」
言うほど痛くなさそうな声をあげ、こちらを見てきた望月の顔は未だニヤついていた。
「工藤は口より先に手が出るタイプかー、気をつけよ」
人の言葉を待たないでキスしてきたお前に言われたくないわ!
もう一度叩いてやろうと手を構えたが、階段を飛ばして登り始めた望月には届きそうもなかった。
早速対策してきてムカつく。
このまま教室に引き返そうか。
そう思ったが、数段先で俺が登って来るのを見張っている望月がいては出来そうもなかった。
諦めて、長い脚で軽やかに登る望月についていくと、着いたのは屋上扉の前だった。
「鍵ないのにどーすんの……」
胸ポケットに入っている鍵の存在は無視して訊いた。
あの日、会話を聞いていた望月は俺が鍵を持っていることを知っているはずだ。
だから俺が解錠することを期待しているのかもしれないが、生憎こちらにそのつもりはない。
この鍵は先輩との時間のために使うものであって、望月の望みをかなえるためのものではないのだから。
果たして望月はどう出るか。
黙って様子を伺っていると、望月はスラックスのポケットを探った。
「屋上の出入りは俺も自由ってことだよ」
ポケットから出てきた望月の手には、輝く銀色の鍵が握られていた。
「……なんで持ってんだよ」
まさか、俺が持っている鍵だろうか。いつの間にか胸ポケットから落としてしまっていたかもしれない。
望月が扉の方を向いたタイミングで、胸ポケットの中を確認する。
そこにはちゃんと銀色の鍵が収まっていた。
「俺が頑張ったご褒美にねー……あ、これ以上言うとあれか、もっちゃん先生が怒られるな、黙ろー」
いや、ほとんど全部言ってるけどな。
いったい、なんの頑張りに対するものかはわからないが、もっちゃん先生こと学年主任の杉本先生が望月のバックについているらしい。
同級生だけでなく、先生までも取り込んでしまうとは恐るべし望月のコミュ力。
解錠の音がしてすぐ、望月が開けた扉から風が勢いよく流れ込んできた。
「……ぁ、」
屋上に躍り出た望月と違って、俺の足はすくんで動けなかった。
バタンッ。
風圧で力強く閉まった扉の音が頭の中でこだまする。
あの日とは違う、湿度の低い風。扉の向こうに見えた空は灰色ではなく、蒼く澄んでいた。共通するのは望月の存在だけ。でも、その望月もあの日の望月ではない。だから、なにも臆することもないのに、どうしても踏み出すことができない。
またあの日と同じように俺の瞳には涙の膜が張った。今更だろうけど、望月の前で泣いてこれ以上俺の弱いところを晒したくない。
でも、どうしても心臓が苦しい。左胸のポケットに入った鍵が銀色の凶器と化したように、冷たく俺の心を刺してくる。
頬を伝う生温かい感覚に、泣いているのだと自覚する。拭わなきゃ。そう思うのに、指一本動かない。
「——大丈夫だから」
再び扉が開き、乾いた風に頬を撫でられた瞬間、伸びてきていた手に右腕を掴まれ力強く引っ張られた。
そのまま強制的に屋上へと連れ出される。
「いやー、見事に快晴だな」
「……そうだな」
降り立った屋上は、当たり前だけどただの屋上で。当たり前にあの日と同じことは起きない。
安堵と、でもやっぱり晴れきらない悲しさと。心模様はまだまだ複雑でグチャグチャだけれど、少しだけ「大丈夫」と思えた。そんな気がした。
「はやく夏来ねーかなー」
空を仰ぎ気持ちよさそうに背伸びをする望月の金髪は風でそよぎ、太陽光に照らされ、ちらちらと細かい光の粒を放っている。
——綺麗だ。
あの日以来、初めて湧いた明るい感情だった。
それが望月っていうのが気に食わないけれど。
俺はすでに乾いていた頬の筋を雑に掌で拭った。
「飯、食おうぜ」
こちらを振り向いた望月は、塔屋とは反対の方向を指して言った。
先に歩き出した望月に、俺は黙ってついて行き、ふたり分ほどの間隔をあけて横並びに腰をおろした。
「…なんだよ、その距離」
すぐに望月の抗議の声があがった。眉を寄せ、口を尖らせている。
「近づくとろくな目に合わなそうだから」
弁当を広げながらため息まじりに言えば、なぜか望月は笑顔になった。
「あ、またキスされると思ってんだ。案外意識してくれてんのね」
「意識じゃなくて、警戒だから。都合よく解釈するのやめれる?」
今度は俺が抗議する番になった。
いったいどう解釈したら、「意識」なんてポジティブ発想ができるのだろうか。
やっぱり望月は、もう少し俺に嫌がられているという自覚を持つべきだ。
「ま、安心しなよ。奪うのは……——」
そう言いながら上体をこちらに傾け、伸びてきた望月の手に、俺は触れられないように身体を逸らした。が。
「——卵焼きだから」
「あ、こら……っ」
止める間もなく、俺の大好物の卵焼きは望月の口内に放り込まれてしまった。
「なるほど、工藤家は甘い派か。美味いけど、俺はやっぱ出汁派だなー。シラスが入ってるとなお良し」
「勝手に食って文句言うな」
「文句じゃなくて、リクエストな。都合よく解釈するのやめれる?」
「人の言葉をとるなよ」
望月は人をイラつかせる天才か。こいつと話していると3分に2回はイラついている気がする。なぜ宇部も田野木も、杉本先生も望月に心を許すのか、甚だ疑問だ。こいつの言動に腹が立たないのだろうか。
好物がなくなり、すっかり寂しくなった弁当箱を俺は見つめた。
「ほら、代わりにこれやるよ」
渡されたのは個包装された、薄茶に染まったうずらの卵だった。
「……なにこれ」
「うずらの醤油漬け。食ったことある?」
「ないし、いらない、返す。卵は甘い派だから」
突き返すと、その手をさらに押し返された。
「なら余計に食ってみろって。まじでうまいから」
じっと見つめられ、俺は仕方なく個包装の封を開けて、つやっとした小さな卵を口に含んだ。
醤油のしょっぱさに、うずらの卵本来の甘さが引き立たされ、悔しいけれどたしかにこれはうまい。
「ど?」
期待の籠った眼差しを向けられ、俺はふいと顔を背けた。
素直にうまいと言うのは悔しいから、
「普通」
とだけ答えた。
視界の端で、望月が嬉しそうな顔をした気もするが、きっと俺の見間違いだ。
そよぐ風と降り注ぐ太陽の光が心地よくて、俺は小さく笑うように息を吐いた。
一段先を登る背中に問えば、「なにが?」とこちらを振り返ることなく望月が質問で返してきた。
踊り場で望月の横に並び、俺は呆れまじりの息をこぼした。
「宇部と田野木のことだよ。仲良いなんて知らなかった。中学同じだったとか?」
「いや、工藤が休んでる間一緒に昼食ってたら仲良くなったってだけ。で、今度カラオケ行く予定」
なんでもないことのように語られたせいで流してしまいそうになるが、3回一緒にご飯を食べただけでカラオケに行く流れまでもっていくって、どうやったらそうなるのだろうか。
俺なんて、付き合っていたあらた先輩とでさえ行ったこともないのに。というか、あらた先輩とは学校外では一度も会ったことがなかった。受験生である先輩の邪魔をしちゃいけないと思ってずっと我慢していたから。先輩の合格祝いが初デートだ!と意気込んでいたけれど、こんなことになるなら我慢なんてせずにデートしたいって先輩に言えばよかった。
じわじわと湧いてくる後悔に足を取られ、俺の足取りは勝手に重くなる。
落ち込みと共に彩度が低くなりつつある視界に、明るい金色が飛び込んできた。
「工藤も行く?」
覗き込むようにして訊いてきた望月に、俺は眉を顰め即答した。
「行かない」
行くわけがない。なぜ天敵望月がいるとわかっている集まりに参加すると思うのか。
お前はもっと自分が俺に嫌がられているということを自覚してくれ!
ふいっと顔を背けると、少しだけ上から明らかにニヤついた声が降ってきた。
「ふーん」
「…なに」
どうせろくなことじゃないとわかっていながらも、つい訊いてしまう自分が嫌になる。
返答せず、んー?ととぼけたような声を出すだけの望月に、訝しむような視線をぶつけた。
目が合うと、この時を待ってたと言わんばかりに望月の笑みが深まった。
「いや、やきもち妬くタイプかーって思って」
瞬間、前を歩く望月の背中を思いっ切り平手打ちしてやった。
「いてっ」
言うほど痛くなさそうな声をあげ、こちらを見てきた望月の顔は未だニヤついていた。
「工藤は口より先に手が出るタイプかー、気をつけよ」
人の言葉を待たないでキスしてきたお前に言われたくないわ!
もう一度叩いてやろうと手を構えたが、階段を飛ばして登り始めた望月には届きそうもなかった。
早速対策してきてムカつく。
このまま教室に引き返そうか。
そう思ったが、数段先で俺が登って来るのを見張っている望月がいては出来そうもなかった。
諦めて、長い脚で軽やかに登る望月についていくと、着いたのは屋上扉の前だった。
「鍵ないのにどーすんの……」
胸ポケットに入っている鍵の存在は無視して訊いた。
あの日、会話を聞いていた望月は俺が鍵を持っていることを知っているはずだ。
だから俺が解錠することを期待しているのかもしれないが、生憎こちらにそのつもりはない。
この鍵は先輩との時間のために使うものであって、望月の望みをかなえるためのものではないのだから。
果たして望月はどう出るか。
黙って様子を伺っていると、望月はスラックスのポケットを探った。
「屋上の出入りは俺も自由ってことだよ」
ポケットから出てきた望月の手には、輝く銀色の鍵が握られていた。
「……なんで持ってんだよ」
まさか、俺が持っている鍵だろうか。いつの間にか胸ポケットから落としてしまっていたかもしれない。
望月が扉の方を向いたタイミングで、胸ポケットの中を確認する。
そこにはちゃんと銀色の鍵が収まっていた。
「俺が頑張ったご褒美にねー……あ、これ以上言うとあれか、もっちゃん先生が怒られるな、黙ろー」
いや、ほとんど全部言ってるけどな。
いったい、なんの頑張りに対するものかはわからないが、もっちゃん先生こと学年主任の杉本先生が望月のバックについているらしい。
同級生だけでなく、先生までも取り込んでしまうとは恐るべし望月のコミュ力。
解錠の音がしてすぐ、望月が開けた扉から風が勢いよく流れ込んできた。
「……ぁ、」
屋上に躍り出た望月と違って、俺の足はすくんで動けなかった。
バタンッ。
風圧で力強く閉まった扉の音が頭の中でこだまする。
あの日とは違う、湿度の低い風。扉の向こうに見えた空は灰色ではなく、蒼く澄んでいた。共通するのは望月の存在だけ。でも、その望月もあの日の望月ではない。だから、なにも臆することもないのに、どうしても踏み出すことができない。
またあの日と同じように俺の瞳には涙の膜が張った。今更だろうけど、望月の前で泣いてこれ以上俺の弱いところを晒したくない。
でも、どうしても心臓が苦しい。左胸のポケットに入った鍵が銀色の凶器と化したように、冷たく俺の心を刺してくる。
頬を伝う生温かい感覚に、泣いているのだと自覚する。拭わなきゃ。そう思うのに、指一本動かない。
「——大丈夫だから」
再び扉が開き、乾いた風に頬を撫でられた瞬間、伸びてきていた手に右腕を掴まれ力強く引っ張られた。
そのまま強制的に屋上へと連れ出される。
「いやー、見事に快晴だな」
「……そうだな」
降り立った屋上は、当たり前だけどただの屋上で。当たり前にあの日と同じことは起きない。
安堵と、でもやっぱり晴れきらない悲しさと。心模様はまだまだ複雑でグチャグチャだけれど、少しだけ「大丈夫」と思えた。そんな気がした。
「はやく夏来ねーかなー」
空を仰ぎ気持ちよさそうに背伸びをする望月の金髪は風でそよぎ、太陽光に照らされ、ちらちらと細かい光の粒を放っている。
——綺麗だ。
あの日以来、初めて湧いた明るい感情だった。
それが望月っていうのが気に食わないけれど。
俺はすでに乾いていた頬の筋を雑に掌で拭った。
「飯、食おうぜ」
こちらを振り向いた望月は、塔屋とは反対の方向を指して言った。
先に歩き出した望月に、俺は黙ってついて行き、ふたり分ほどの間隔をあけて横並びに腰をおろした。
「…なんだよ、その距離」
すぐに望月の抗議の声があがった。眉を寄せ、口を尖らせている。
「近づくとろくな目に合わなそうだから」
弁当を広げながらため息まじりに言えば、なぜか望月は笑顔になった。
「あ、またキスされると思ってんだ。案外意識してくれてんのね」
「意識じゃなくて、警戒だから。都合よく解釈するのやめれる?」
今度は俺が抗議する番になった。
いったいどう解釈したら、「意識」なんてポジティブ発想ができるのだろうか。
やっぱり望月は、もう少し俺に嫌がられているという自覚を持つべきだ。
「ま、安心しなよ。奪うのは……——」
そう言いながら上体をこちらに傾け、伸びてきた望月の手に、俺は触れられないように身体を逸らした。が。
「——卵焼きだから」
「あ、こら……っ」
止める間もなく、俺の大好物の卵焼きは望月の口内に放り込まれてしまった。
「なるほど、工藤家は甘い派か。美味いけど、俺はやっぱ出汁派だなー。シラスが入ってるとなお良し」
「勝手に食って文句言うな」
「文句じゃなくて、リクエストな。都合よく解釈するのやめれる?」
「人の言葉をとるなよ」
望月は人をイラつかせる天才か。こいつと話していると3分に2回はイラついている気がする。なぜ宇部も田野木も、杉本先生も望月に心を許すのか、甚だ疑問だ。こいつの言動に腹が立たないのだろうか。
好物がなくなり、すっかり寂しくなった弁当箱を俺は見つめた。
「ほら、代わりにこれやるよ」
渡されたのは個包装された、薄茶に染まったうずらの卵だった。
「……なにこれ」
「うずらの醤油漬け。食ったことある?」
「ないし、いらない、返す。卵は甘い派だから」
突き返すと、その手をさらに押し返された。
「なら余計に食ってみろって。まじでうまいから」
じっと見つめられ、俺は仕方なく個包装の封を開けて、つやっとした小さな卵を口に含んだ。
醤油のしょっぱさに、うずらの卵本来の甘さが引き立たされ、悔しいけれどたしかにこれはうまい。
「ど?」
期待の籠った眼差しを向けられ、俺はふいと顔を背けた。
素直にうまいと言うのは悔しいから、
「普通」
とだけ答えた。
視界の端で、望月が嬉しそうな顔をした気もするが、きっと俺の見間違いだ。
そよぐ風と降り注ぐ太陽の光が心地よくて、俺は小さく笑うように息を吐いた。
