泣き面に飛んできたのは蜂なのか

 あの後は結局、突如飛んできた蜂に泣き面を刺されてボロボロになった俺は、しばらくその場から動くことができなかった。
 そして雨に打たれてしまった結果、俺は見事に風邪をひいた。
 火・水・木の3日間、熱に浮かされながら見る夢は、きまってあらた先輩に振られる瞬間だった。
 目が覚めて、「夢か……」と安堵したのも束の間、枕元に置いていた返しそびれた屋上の鍵が現実を容赦なく突きつけてきた。
 その現実の証は、今も胸ポケットの中で存在を主張してきている。
 今日がどんなに晴れていても、もうあらた先輩と昼ごはんを食べることはないのだと——。
「昼、一緒いい?」
 俺は弁当片手に、教室の出入り口から一番遠い角にいた宇部(うべ)田野木(たのき)に声をかけた。
 すると、向かい合わせにしようと持ち上げていた机をその場に降ろし、ふたりはお互いに顔を見合わせた。
「俺らはいいけど……だって、なあ?」
 宇部は坊主頭の頭頂部をさすりながら、田野木に同意を求るように言った。
 問われた田野木は左人差し指の背で、かけている銀縁眼鏡の位置を修正した後、もごもごと口を動かした。
「僕たちに訊かれても困ると言うか……決定権ないし……」
 どちらの答えも曖昧で、普段と明らかに違う様子に俺は首を傾げた。
 宇部と田野木は、あらた先輩と食べていた昼以外はいつも一緒にいるメンバーだ。今日だって、登校してからつい今し方まで、くだらない話をしたりして普通に楽しくしていたはずなのに。この変わりようはいったいどうしたのだろう。
 それに普段なら「雨で彼女に会えなくて残念だな〜」とか言ってくれるふたりなのに、今はただ困り笑いを顔に貼り付けている。
 この3日間で何かしてしまっただろうか……いや休んでいた俺が何かやらかすことはないはず……と考えたところで、まだふたりにあらた先輩——恋人と別れたことを伝えていなかったと思い出した。
 もちろん、恋人が男性で、あらた先輩だということは伏せている。
 ただ、恋人がいる。天気がいい日はその人と昼ご飯を一緒に食べることになっているとだけ伝えていた。
 だから、ふたりは俺に“彼女”がいると思っているわけだが……。
 横目に見た窓の外には、ブルーシートを張ったような青空が広がっている。
 ……あ、もしかして。
 ふたりは、晴れているのに恋人のところに行かなくていいのかと心配してくれているのかもしれない。なら、その誤解を正さなくては。
「あ、あのさ——」
 説明すべく、俺が口を開いた瞬間、にわかに廊下が騒々しくなった。漣のように近づいてくるざわめきには、女子たちの黄色い声が混じっている。
 ……なんとなく嫌な予感がするのは気のせいだろうか。
 背中がざわりと粟立つと同時に
「あ」
 宇部と田野木が揃って呟いた。
 ふたりの視線は俺の肩を通り越した先に向けられている。宇部も田野木も探し物を見つけた時のような、少しの驚きと安堵が混じった表情をしている。いったい俺の肩越しに何が見えているのだろう。
 俺はその視線を追うようにして、恐る恐る背後を振り返った。
 ふたりの視線の先、教室の前方の出入り口には、見覚えがある派手な金髪——望月壮太がいた。
 何かを、誰かを探すような望月の様子に、俺は慌てて顔を元の位置に戻して俯いた。
 ……嫌な予感が、的中してしまった。
 『明日の昼から一緒に飯食うからな』
 塔屋裏から去っていった時の強引で一方的な約束が瞬時に蘇る。
 まさか、本当に実行するつもりなのか?
 いや、でも、もう望月の言う「明日」はとうに過ぎてしまったわけだし……。
 それに、俺じゃない「誰か」を探している可能性だってなくはない。
 だけど、ざわめきが収まらない周囲の気配に「俺かも……」という絶望に似た諦めが湧いてくる。
 もう一度振り向いてしまえば、望月の捜し人が俺かどうか簡単にわかることだ。でも、その勇気はない。
 捕まったら面倒なことになることは間違いないのだ。わざわざ自分から火の中に飛び込むような愚行はしたくない。
 俺に与えられた選択肢はふたつ。逃げるか、やり過ごすか。
 できれば逃げたいが、下手に動けば見つかるリスクも捕まるリスクも高くなる。
 よって、今の俺にできるのは気配を消し、じっとしていること。
 幸い、望月の眼からは俺の背中しか見えていないはずだ。
 教室内にどれだけ留まっているかわからないが、元々俺と同じような黒髪男子は沢山いる。
 目の前にいる田野木をはじめ、佐藤も鈴木も山下も……。というか、宇部のような野球部に所属している男子以外はみんな黒髪ショートだ。
 顔さえ見せなければ、きっと俺がいることに気がつかないだろう。
 うん、そうだ。だからこのまま大人しくしていれば——……
「おーい、望月、こっちー」
「やっと工藤復活したー」
 なぜか、宇部と田野木が手を挙げて望月を手招いた。
「なっ……」
 突然の友の裏切り。
 俺は愕然として、目の前の友人だったはずのふたりを交互に見た。
 ああ、神様仏様宇部様田野木様。
 やはり、休んでいる間に俺は何かをやらかしてしまったのでしょうか……。でなければ、友であるふたりが俺を売るはずない。
 どうか、どうかその手をお納めください……!
「おーい、望月ってばー」
 俺の願いは天にもふたりにも届かず、再び宇部が、今度は先ほどよりさらに大きな声で呼びかけてしまった。
 田野木も両手を振ってサインを送っている。
 もう!お願いだからその手を下げて、黙ってて……!!
 必死に視線だけでふたりにメッセージを伝えようとするが、テレパシーが使えない俺たちは意思疎通を図れない。
 声を使えば早いが、その瞬間に全部望月にバレてしまう。
 どうしよう、どうしようと思いあぐねている間にも、絶望を告げる足音は徐々にこちらに近づいている。
 ああ……、もう、おしまいだ……。
「お、まじだ。完全復活?」
 肩を掴まれ、強制的に望月の方へ振り向かされた。
 俺は不愉快を隠すことなく眉間に皺を寄せたまま、望月の顔を……睨もうとして、失敗した。
 なんと、俺の目線の高さは望月の唇だった。
 案外身長差があったのだと驚くと同時に、3日前の屈辱的且つ理不尽な望月の行動が思い出されて腹が立つ。
 視線を上げ、嫌味なほどに華やかで整った顔を改めて睨んだ。
 俺が177㎝だから、恐らく望月は180㎝を超えているのだろう。塔屋裏で絡まれた時は、俺は地べたに座ったままだったから、望月との身長差を把握できていなかったらしい。
 顔がよくて、背が高くて、おまけに特進クラスで頭脳明晰ときた。もう存在が嫌味だ。なんだこいつ。
 俺は意図せず複雑化した怒りをぶつけるように、言葉を投げつけた。
「なにしにきた」
「なにって、一緒に飯食おっつったじゃん。熱で忘れた?」
 小馬鹿にするような息多めの笑いに、俺の怒りゲージはぐんと上がった。
 いちいち嫌味な言葉を付け足さないと気が済まないのか!
 俺は無言で、望月をより一層きつく睨みつけた。
「ふーん、ま、いいや。とりあえず行こうぜ」
 俺の睨みも全く意に介さない望月はだんまりを面倒に思ったのか、一方的に決定事項を告げると俺の手首を勝手に掴んできた。
「は?おい……っ、離せって!俺は行かないってば」
 振り解こうとするも、びくともしない。
 別に特段のマッチョでもない、モデル体型の望月からは想像できない力強さに、妙な焦燥感に駆られた。
 「宇部……!田野木……!」
 助けて……!
 ふたりに縋るような視線を送るが、ふたりはにこにこと笑っている。
「よかったなー、望月。粘った甲斐あったな」
「今日は天気もいいし、中庭とか外で食べるのもいいよね」
「ああ、そのつもり。宇部、田野木ありがとな」
「たいしたことしてないって」
「あ、この間の件、いつがいいか後で教えて」
「了解。バイトのシフト出たら連絡する」
 俺を置いて、3人の楽しげな会話が繰り広げられている。
 この場に俺の味方は誰ひとり居ないのだ。
「じゃ、俺ら行くわ。またな」
 不意に望月に腕を引かれ、俺は少しよろけながら後ろをついていく。もう、諦めるしかなかった。
 それでも一縷の望みをかけ、教室を出る際にちらりと宇部と田野木を見たが、ふたりはまるで菩薩様のような優しい笑顔でこちらに手を振っているだけだった。