泣き面に飛んできたのは蜂なのか

 望月から送られてきた地図をもとに向かったバイト先のカフェは、学校の最寄り駅から三駅離れた住宅街の奥の方にあった。
「ここ、だよな……?」
 スマホの地図をもう一度見る。目的地のピンと俺の位置を示す矢印が同じ場所に表示されている。
 どうやら、ここで間違いないようだ。
 ぱっと見は、ログハウス調の戸建住宅。ここでカフェをやっているなんて、知らなければ確実に素通りしてしまうだろう。だけど、よく見れば玄関扉がふたつあり、ひとつは居住用の部屋に続くと思われる扉が建物左側に、もうひとつは正面に店舗用の扉が設けられていた。
 庭には紫陽花が咲き誇り、俺を出迎えてくれた。紫、水色、ピンク、白。色とりどりの紫陽花は見ているだけで目が楽しいし、これから入るカフェへの期待を高めてくれる。庭をまっすぐ進み正面扉に行くと、足元の壁際に「Open」と書かれた小さな木札が立てかけられていた。やはり、ここがお店への入り口か。
 俺はそっと、木製のドアを押した。カランカラン、と軽快なベルが俺の入店を告げた。
「いらっしゃいませー……、あ、道弥」
 テーブルをダスターで拭いていた望月が、俺に気づいて手を止め、こちらにやって来る。
 望月は制服から私服に着替え、黒い腰下のエプロンを着けていた。白地に青のストライプシャツと細身のジーンズを纏った姿は、動物園の時と印象がまた違い、大人っぽく見えた。
 なにより、どんな系統の服を着ても似合ってしまうのだから、つくづくすごい男だ。
「ほら、これだろ?ポーチって」
 俺は背負っていたリュックから、持ってきた黒いポーチを取り出し、望月に手渡した。
 これで、おつかいは達成だ。
「そう、それ。うわー、まじ助かった。さんきゅー。あ、席カウンターでもいいか?」
「うん」
「じゃあこっち。約束通り俺の奢りだから、好きなもん頼んで」
「……ありがと」
 望月に案内されるまま、カウンターの木製スツールに腰掛け、リュックは足元にあった荷物入れに置いた。
 すぐに望月がお冷とメニューを持ってきてくれる。
「どうぞごゆっくり」
「……うん」
 望月はポーチを置きに行ったのか、バックヤードに引っ込んでしまった。
 初めて来たお店というだけで緊張するのに、望月に接客されるなんて状況がすごく新鮮で、余計に落ち着かなくなってしまった。
 俺はそわそわしながら、店内を見渡した。
 外観通りのログハウスの店内は、テーブルや椅子、カウンターも全てが木製で統一されている。
 4人掛けのテーブルが店の奥にふたつ、入り口から奥までの通りの右壁側に2人掛けのテーブルが3つ、その反対にカウンター席が4席といった具合だ。
 カウンターの内側に今は誰もいないが、俺が座っている席では、店員さんがコーヒーを淹れる姿が見られるようになっている。
 お客さんは今のところ、俺を除いて1組のようだ。奥の4人掛けの席で、俺の母親くらいの年代の人達が話に花を咲かせていた。
 俺は正面に向き直り、メニューに目を通した。
 コーヒーは本日のブレンドから始まり、デカフェやミルクティー、ココアなどのドリンクもある。デザートは望月の言っていた通り、チーズケーキが推されていた。他にもガトーショコラやプリンなど、こちらも種類豊富だ。
 デザートはチーズケーキで決まっているとして……、飲み物はどうしようか。ブレンドか……でも暑いからカフェラテのアイスもいいな。
 俺がひとり悩んでいると、不意に人の気配を感じた。
「こんにちは。いらっしゃい」
 メニューから顔を上げると、カウンターの内側に突如現れた生成りのシャツを着た20代後半くらいの店員のお兄さんと目が合った。
 黒髪マッシュが印象的な店員のお兄さんの両耳には、ピアスが沢山ついている。俺に向けられているであろう笑顔は、にこにことしていて人懐こい。耳の厳つさからはまったく想像がつかないほどだ。
 えっと……俺が話しかけられたので間違いないよな……?後ろのテーブル席は誰もいなかったし……。
「……あ、はい。こんにちは」
 俺は迷いながらも軽く会釈をした。
 望月と同じバイトの人だろうか……。
 それにしても、妙に親しみを持たれているような……?
「君が道弥くん?」
「そうですけど……」
 俺は驚きつつ、頷いた。
 何故、まだ名乗ってもいない俺の名前を知っているんだろう……。
 警戒した方がいいだろうか……、そう思った矢先、店員のお兄さんは俺に向かってぺこりと頭を下げてきた。
「いつも壮太がお世話になってます」
「あ、いえ……」
 俺もつられて、ぺこりと頭を下げ返す。
 この店員のお兄さんは、望月を「壮太」と呼ぶくらい親しいようだ。それなら合点がいく。俺の名前も、事前に望月から聞いていたのかもしれない。
 ちょっと安心して、肩の力が抜けた。
「いやー話には聞いてたけど、想像以上だ。お兄さんちょっとびっくり」
「えっと……?」
 フランクなノリに戸惑う俺を他所に、店員のお兄さんは目を輝かせ、身を乗り出して楽しそうに話を続けた。
「演劇部なんでしょ?どういう役をやることが多いの?やっぱり主演のヒーロー枠?あ、でも二番手の当て馬系イケメン役も合いそうだね」
「あ……、えっと、俺は裏方なので、特に演じることはないです……」
「えー⁉︎そうなの⁉︎もったいなーい!壮太と道弥くんのアイドルものとか観たかったのにー!」
「えっと、すみません……?」
 矢継ぎ早の質問と店員のお兄さんの勢いに押され、困惑する。
 俺、どうしたらいいんだろう……。
 というか、この人やっぱ誰……。
 俺が曖昧な笑みを浮かべていると、そこに救世主が現れた。
「店長、道弥に絡んでないでさっさと追加注文の品作ってもらっていい?お客さん待ってるから」
 望月だ。
 バックヤードから戻ってきた望月が、店員のお兄さんもとい店長さんの肩を掴んで、カウンターテーブルから引き剥がしてくれた。
 俺は店員のお兄さんに気づかれないように、細心の注意を払いながら、小さく安堵の息を吐いた。
 助かった……。
「なに怒ってんのさ。壮太のお兄さんとして、壮太のお友達と話して何が悪い?」
 店長さんが子供みたいに頬を膨らませて、望月に抗議する。望月は呆れたように頭を振った。
「道弥が困ってるから悪い」
「え、道弥くん困ってないよね?」
 店長さんは、心底驚いたという顔を向けて尋ねてきた。俺は苦笑いのまま、店長さんの問いには触れず、逆に質問を返した。
「えっと……お兄さん、なんですか?」
「実じゃなくて、義理な。姉貴の旦那」
 俺の質問にすかさず望月が答える。
 望月、兄弟いたんだ。意外……いや、望月の歳の離れた先生とまでも仲良くなってしまう人との距離の詰め方は、兄弟がいるからこそ取得した技なのかもしれない。
 俺はひとり納得して内心頷いていたが、どうやら店長さんは望月の回答に不満そうだ。一度萎んだはずの頬を再びぷっくりと膨らませている。
「義理とか言わないでよ。もう本当のお兄さんみたいなもんでしょ。名前だって似てるし」
「それ何回言うの」
 望月がため息をつく。
 何回、いや何十回と言われているんだろうなというのが望月の様子から察せられる。
 俺はつい、店長さんが言う「本当の兄弟みたいなもん」の根拠の詳細を聞いてみたくなった。
「そんなに似てるんですか?」
 俺が質問すると、店長さんは待ってましたとばかりに黒い瞳を輝かせた。
「俺の名前はねー、壮太の壮に、司どるで 壮司(そうじ)。まるで兄弟みたいでしょ?」
 ふふふ、と嬉しそうに笑う店長さんに、望月は間髪入れず水を差した。
「名前だけで言えば、俺の方が長男みたいだけどな」
「あ、またそれ言うー。壮太いっつも一言多い!そういう照れ隠しは伝わんないからやめなって言ってるのにー」
「照れ隠しとかじゃないし。ほら、もういいから早く仕事しろって」
「えー壮太冷たいー」
 望月はぐいぐいと店長さんを奥へ押しやった。
 渋々といった様子で、コーヒー豆を測り始めた店長さんを見届けると、望月は俺の方に向き直り、声を潜ませて言った。
「悪い、道弥。壮司さんうるさくて」
 俺も音量を合わせて返す。
「いや、全然。最初はびっくりしたけど、明るくて面白くて、いいお兄さんじゃん。俺兄弟いないから羨ましい」
「絡みがしつこいけどな。ま、ゆっくりしてけよ。壮司さんが淹れるコーヒーはまじで美味いから。で、何にするか決まった?」
「えっと、チーズケーキと……ブレンドにしようかな」
「了解。あ、今日のブレンド、深煎りで苦味強めだけど大丈夫か?」
「苦い方が好きだから大丈夫」
「ならぴったりだな」
 望月は伝票に注文内容を書き留めると、それを持って店長さんと二言三言話し、再びバックヤードへと消えていった。
 望月はなんだかんだ言って、店長さんのことが好きで信頼しているんだろうなと思う。じゃなきゃ、店長さんの淹れるコーヒーをあんな風に褒めて勧めたりなんかしない。
 俺は待っている間、あえてスマホは弄らず、店長さんがハンドドリップでコーヒーを淹れる様子をぼんやりと眺めた。
 お湯を注ぐ音が静かに響き、コーヒーの芳しい香りが店内を漂い始める。香りだけですごく幸せな気持ちになれるから、コーヒーって不思議だ。
 最近、いろいろなことがありすぎて、こういう落ち着いた時間ってなかったな……。
 今日はここに来られてよかった。
 望月に振り回され続けた先に、こういう穏やかな瞬間があるとは思わなかったな。
「はい、お待たせー。本日のブレンドとチーズケーキね」
 店長さんがカウンターから出てきて、コーヒーとケーキを目の前に置いてくれた。
「あ、ありがとうございます。美味しそう」
 砂地のカップに注がれたコーヒーの香が鼻腔をくすぐる。
 チーズケーキはシンプルなベイクドチーズケーキで、脇になめらかな生クリームとオレンジ色のソースが添えられていた。
 俺は「いただきます」と小さく言ってから、まずはチーズケーキをひと口。そして次にコーヒを。
 チーズケーキの爽やかな甘さとコーヒーの苦味が相性抜群だ。これならいくらでも食べられそうなくらいに美味しい。近所にあったら通いたいくらいだ。
 美味しいコーヒーとケーキに舌鼓を打っていると、正面から熱い視線が突き刺さってくるのを感じた。
 ふた口目を口に運んだが、未だ刺さる視線が気になって味がしない……。
 俺は食べる手を止め、こちらを観察するようにじっと見つめる店長さんにおずおずと尋ねた。
「あの……、何か、俺変ですかね……?」
「あ、違う違う。ごめんねー、食べづらかったよね」
 店長さんは否定するように右手を振り、眉を下げて笑った。
「ただ、壮太がここを友達に教えるなんて初めてで嬉しくてね……ついつい道弥くんのこと見ちゃってた」
「俺が初めて、なんですか……?」
 俺は意外な事実に目を瞬かせた。
 望月のことだから、片っ端から声をかけてお店に連れてきていると思っていた。
 友達集めてわいわいたむろして……みたいなの好きそうだし。なんなら、常にしてそうだし。
「前に、『学校でお店の宣伝してきてよ』って冗談で言ったら、『面倒なことになるから絶対に言いたくない』って真顔で言われてさー」
 店長さんは困ったように肩を竦めてみせた。
「え?」
 俺は驚いて、手にしていたフォークを落としそうになった。
「警戒心強い壮太が自分から呼ぶなんて、よっぽど道弥くんのこと信頼してるんだなーってね」
 店長さんは嬉しそうに、ふふふと笑みをこぼした。
 だけど、俺は店長さんにぎこちない笑顔しか返せない。店長さんの言う望月が、あまりにも俺の知っている望月と違いすぎるからだ。驚きを越えて混乱してしまっている。
 あの望月が警戒心が強いなんて、何かの間違いではないのだろうか……。誰の懐にでも入り込み、すぐに打ち解けるのが望月で、そこに警戒心なんて微塵もなさそうだ。というか、警戒心が強ければ、そもそも安易に人に近づいたりしないはずだろう。
「あ、今意外だって思ったでしょ?」
「そうですね、正直……。どっちかっていうとその真逆のタイプだと思っていたので」
「誰とでもすぐ距離詰めがちでね」
「そうです。この間も俺の友人とちょっと話しただけでカラオケの約束してました」
「いやー、ほんとあの姉弟はそっくりだなー」
 店長さんは、からからと可笑しそうに笑った。
「自分から踏み込んで、相手には踏み込ませない。それがあの姉弟の予防線の張り方なんだ」
 店長さんの眼差しに、何かを懐かしむような優しさが宿った。望月のお姉さん……奥さんとのことを思い出しているのだろうか。
「道弥くんも、試しに壮太のこと観察してみるといいよ。案外わかりやすくて面白いよ。それと、ここだけの話、『あ、自分は許されてるんだ』って優越感が得られて、いい気分になれる」
 腰に手を当て、ドヤ顔を浮かべる店長さんに俺は小さく吹き出した。
「優越感ですか?」
「そう。だってね、聞いてよ、うちの奥さんが学生の頃——」
「ごちそうさまでしたー」
「お会計お願いします」
 俺の背後の通路を、店奥にいた女性客たちがぞろぞろと連れ立って歩いて行く。
「あ、はーい。ありがとうございまーす。道弥くん、ちょっとごめんね」
「あ、はい。大丈夫です」
 店長さんはレジに移動し、女性客たちと話しながら会計作業を始めた。
 女性客たちが去ると、今度は店長さんのスマホが鳴った。
「かれんちゃん、どうしたの?……え、わかった、すぐ行くね。…………うん、大丈夫、今日壮太来てくれてる日だから。はいはい」
 通話を切ると、店長さんがエプロンを外しながらカウンターに戻って来た。表情に少し焦りが見える。
「ごめん、道弥くん。俺ちょっと、後ろ行かなくちゃ。話の続きはまた今度させて……!あ、壮太すぐフロアに戻すから。よかったらゆっくりしてってね……!」
「あ、はい。ありがとうございます……っ」
 店長さんは慌ただしくバックヤードに引き上げていった。「かれんちゃん」とは、望月のお姉さんだろうか?店長さんの様子からして、何か非常事態が起きたんだろうけど、大丈夫かな……。あとで望月が来たら、大丈夫かだけ訊いてみるか。
 俺は少しぬるくなったコーヒーを啜り、束の間の静かな時間を味わった。

 コーヒーもチーズケーキも食べ終え、すっかり手持ち無沙汰になった頃、入り口のベルが来客を告げた。
 ぬるい風と共にはしゃぐような高い声が入ってくる。俺は反射的に、入り口へと顔を向けてしまった。
「わぁ、かわいいー。ここ来てみたかったんだよね。ありがと——って、工藤くん?」
 来客は、
「澤村先輩、と……」
 あらた先輩、だった。
 どうして、ふたりがここに……。
「え、偶然だねー!工藤くんひとり?」
 澤村先輩は予想外の出会いに対する驚きを隠さず、テンション高めに俺の元まできた。
 一歩後ろにいるあらた先輩と目が合い、胸がざわついた。動揺を悟られないように、俺はすぐに視線を澤村先輩に戻した。
「あ、えっと、まあ、はい」
 俺は澤村先輩の質問に曖昧に答えた。
 望月は学校でこのカフェのことを伏せている。望月がふたりを呼んだ可能性も捨て切れないが、それがわからない今、俺は望月のことを話すべきではないと思ったのだ。
「なら一緒に食べる?4人掛け空いてるみたいだし」
「あ、いえ、俺は……。それより、先輩方は、その……」
 どうしてこちらに……と訊こうとして、不意に視線を落とした先、澤村先輩の手とあらた先輩の手が繋がっているのを見つけてしまった。
 心臓が嫌なくらいに存在を主張してくる。
 言葉が変なところで途切れてしまったせいで、俺の視線の行先が言葉の続きだと澤村先輩は理解してしまった。
「あ、そっか、内緒にしてたから。実はね、私たち付き合ってて」
 澤村先輩は繋いでいる手を引き、一歩後ろにいたあらた先輩を自分の隣に並ばせた。
「そう、なんですか……知らなかった。い、いつからなんですか……?」
 つい、聞きたくもないことも訊いてしまう。自分で傷つきに行くなんてどうかしている。
「先週かな。返事待ちだった答えを、あらたからもらって正式に。ね、あらた」
 先週……、それは俺があらた先輩から別れを切り出された週だ。
「うん。そうだね。ずっと待たせてごめんね」
「それ何回目?もうこうして付き合えてるんだからいいってば」
「うん、そうだったね」
 目の前で繰り広げられる惚気話。誇らしげで、嬉しそうな澤村先輩の表情。その澤村先輩を優しい眼差し——かつては俺に向けられていた眼差しで見つめるあらた先輩。
 天国のようだった場所が、あっという間に地獄と化してしまった。
 先刻まで、ここに来れてよかったと、そう思えていたのに。今は望月のおつかいなんてやっぱり引き受けるんじゃなかったと後悔している。
 悔しさや悲しさで、間違っても顔が歪んでしまわないように、俺は自分の左腕に爪を立てて堪えた。
「お……おめでとうございます」
 正直、笑えているのかわからない。それでも、精一杯笑顔を作る努力をする。
「ありがとう。あ、このことは部のみんなには内緒にしててね」
 澤村先輩は人差し指を口元に当て、いたずらっ子っぽく笑ってみせた。
 俺は不出来な笑顔を顔に貼り付けたまま、油を注していないロボットのようにぎこちなく頷いた。
 これ以上、頑張って応対するのは無理そうだと思った時だった。バックヤードからフロアに向かって足音が近づいてくる。
「いらっしゃいませー、ただいまお席ご案内しまーす……、って先輩ら……まじかよ」
 戻って来たのは、店長さんではなく、望月だった。
 望月は驚きと不快感を隠すことをしなかった。
「偶然だね」
「えっ、なに、望月くん⁉︎ここでバイト?」
 あらた先輩はいつものように微笑み、澤村先輩は大きな目をさらに大きく見開き、驚きを露わにしている。
「そうっす。悪いんすけど、学校で言わないでもらっていいすか」
 望月は面倒そうに後頭部を掻きながら、カウンター内を通ってフロアに出てきた。
「うん、言わない。代わりに望月くんも、私とあらたのこと言わないでね」
 澤村先輩が、繋いでいる手を証拠のように持ち上げて望月に見せる。
 俺は澤村先輩に気づかれないように、そっと視線を斜め前方の床に落とした。
「……へー、付き合ってんすか」
 望月の声の温度が下がった。
 だけど、ご機嫌な澤村先輩はそれに気が付かない。語尾に音符マークがつきそうなほど、跳ねた声を出した。
「そうなの。あ、望月くん、注文の前にお手洗い借りていい?」
「もちろん。突き当たりを右っす」
 澤村先輩が「一緒にメニュー見たいから待っててよね」とあらた先輩に可愛らしく言い置いて、店の奥へと姿を消した。
 お手洗いの扉が閉まる音がすると、望月はあからさまに態度を変えた。
「センパイ。俺、先輩ってもっと綺麗系で我儘言わない年下の子がタイプかと思ってましたけど、違うんだ」
 あらた先輩に鋭い眼差しを向け、暗に非難するような言葉を投げる。
 望月の言葉にどきりとした。
 綺麗系かはさて置き、我儘言わない年下の子って、俺のことだよな……。
「……どういう意味かな?」
「出たよ、すっとぼけ。じゃ、席こっちなんで、どうぞ」
 相変わらず笑顔のまま首を傾げるあらた先輩に、望月は舌打ちをした。
 望月に案内され、俺の横を通り過ぎるあらた先輩と目が合う。だが、先輩の視線はすぐに逸らされてしまった。それだけのことで、またほんの少し傷ついた。
「……本当に、ミチくんと仲良いんだね」
 奥の4人掛けの席に座ったあらた先輩が望月に話しかけた。静かで、他のお客さんがいない店内では、会話は筒抜けだ。
「だからなに?この間も一緒に動物園行ったし、今度プラネタリウムも行くけど?羨ましいすか?道弥と仲良くて」
「おい、何言って……」
 突如謎自慢というか、謎マウントを取り出した望月を制止しようと口を挟んだ。
 だけど……
「うん、羨ましいよ。僕も行きたかったな、ミチくんと」
 あらた先輩はそう言って、俺の方をじっと見つめた。その反応に、俺は二の句を告げなくなる。
 俺の思い違いかもしれないが、あらた先輩の眼差しには、付き合っていた頃と同じ……いや、それ以上の俺に対する愛しさのようなものが滲んでいるように見えたのだ。嬉しさ以上に俺は困惑した。
 どうして……?
 俺を振ったのは、あらた先輩で、今は澤村先輩と付き合っているのに……。
 先輩がその眼差しを向けるのは、俺であってはいけないはずだ。
 あらた先輩の考えていることが、よくわからない……。
「道弥、俺もうあがりだから一緒帰ろうぜ。俺裏から出るから、先外出てて」
「あ……うん」
 ぼうっとしていた俺は、望月に声をかけられ我に返った。未だ反らせないでいたあらた先輩の瞳から、漸く視線を逸らすことができた。
 俺は正面に向き直り、食べ終えた食器を軽くまとめると、スツールを降り、リュックを背負った。
「あれ、工藤くん帰っちゃうの?」
 お手洗いから戻ってきた澤村先輩が残念そうな声を上げる。
 普段はナチュラルメイクの澤村先輩の瞼には眩いキラキラが宿り、唇も薄い桃色に染まってつるんとした潤いを纏っていた。
 放課後デートだから、というのが嫌というほど伝わってくる。
 俺は会釈するふりをして、澤村先輩からも、あらた先輩からも視線を外した。
「あ、はい。お先します……」
「じゃあ、また部活でね」
 手を振ってくれる澤村先輩に、再度軽く会釈をすると、俺はすぐさま出入り口へと向かった。
「あらた、私今度の土曜日映画行きたくなった。どう?」
「いいよ。何観ようか」
「えっとねー、たしかCMでやってた——」
 週末の計画を立てる浮かれた声が背後で聞こえる。
 本来だったら、俺があらた先輩と——……。
 
 俺がいるはずだった光景は、俺の手の届かない場所に行ってしまった。
 俺の望むものは、あの振られた日も、今日も、全部重く閉ざされた扉の向こうにしかないのだ。