「みんな、ちょっといい?」
部活終わり、いつものようにそそくさと職員室へ戻っていく横渕先生の姿が見えなくなると、織音がやや神妙な面持ちで切り出した。
不思議そうに織音を見遣る三人とは対照的に、胡桃の表情はきっと少し硬いことだろう。スマホの件だと瞬時に理解したからだ。
今日の部活中はずっと上の空だった。時折、織音の視線を感じていたが、反応する気にもなれなかった。正確には、余裕がなかった。
――次は、柳胡桃を殺そう。
強烈なフレーズが、燿の声で何度も脳裏で再生される。でも、その声はどうしても爽やかで、明るさを帯びていた。
だって、燿がどんな声色で、表情で、そんなことを言うのか想像できないから。胡桃の知る燿は、一度だってそんなことを言ったことはなかったし、人を蔑むような発言もしなかった。
柳胡桃を殺そう。この話には続きがあった。
昨夜、胡桃は燿のアカウントの投稿を遡り続けて分かったことがある。殺すという言葉は大袈裟な表現で、彼が実際に胡桃に殺意を持っているわけではなかった。なぜなら、燿は過去にも相手を変えて同じような文面を投稿していたからだ。
【染井織音を殺そう】
【天音凪を殺そう】
【頼むから、渡会龍之介は死んでくれ】
悪口で塗れた投稿の中に、そんな文面の投稿が散見された。
でも、もちろん、三人とも死んじゃいない。胡桃だって、燿に何の危害も加えられていない。燿の抱く殺意は、言い換えれば破壊願望のようなものだと思う。
織音を殺そう。その投稿がされた数日後の投稿には、一枚の写真が添えられていた。それは燿が入選したコンクールに、織音が送った作品を写した写真。ただ、胡桃が憧れる〝絵画〟のような織音の作品は、びりびりに破かれて紙くずになっていた。
思い返せば、燿は入部当初から、率先してみんなの作品をまとめてコンクールへと送ってくれていた。そしてその頃から、毎回と言っていい程何かしらの賞を取っていた織音と凪の落選が続いた。
きっと、毎回燿の手で壊され続けていたのだろう。
ある写真では作品は燃やされて消し炭になっていた。また、ある写真ではカッターのようなものでズタズタに切り裂かれていた。
どうして、こんなことが出来るのだろう。いくつも見つけた燿の裏の顔の中で、一番強い憤りと悲しみに苛まれた。みんながどれだけの時間をかけて、熱意を込めて描き上げたのかを燿は分かっているはずだ。
――努力に価値はない。結果だけが、あなたの評価になるのよ。
ふと、再三刷り込まれた母親の言葉を思い出す。きっと、正しいことを言っているんだと思う。
でも、だからって、努力を踏みにじられていいわけがない。受け取るべき正当な結果を捻じ曲げる燿の行為は、胡桃が最も忌み嫌うことだ。
燿と目が合う。男女問わず人望を集める彼は、今日も悩ましいまでに快活な笑顔を胡桃に向ける。
燿のしたことは許しがたいことなのに、どうしても彼を信じたい自分もいた。だって、胡桃の見てきた燿の全てが偽りというわけじゃないはずだ。
織音が胡桃を一瞥し、小さく頷く。でも、胡桃は微動だに出来なかった。そんな胡桃の様子に、織音はちょっと困ったように口元を緩める。
「あたしも、スマホ直ったよ」
「あっ、その話したかったんです」
織音の発言に口を挟んだのは燿だった。
「僕のスマホ、今壊れちゃって困ってるんですよ。ほら、全然つかない。染井先輩も壊れてたんですか?」
燿が自らのスマホを取り出して全員に見せる。
燿は昨日部活を休んでいたから、胡桃を除いた全員のスマホが使えなくなっていたことを知らないのだ。そんな燿に、織音がこれまでの出来事を説明する。全員のスマホが使えなくなったこと、胡桃のスマホだけが再起動したこと。
「それで昨日の夜、あたしのスマホも急に再起動してさ。……直ったんだけど、ね」
織音はスマホを五人が囲んだ机の上に置く。画面をタップすると明かりがつき、ホーム画面が浮かび上がる。やっぱり、胡桃のスマホ同様、ロックはかかっていないようだった。
画面を覗き込んだ凪の頬がぴくりと強張る。
「染井先輩って、こんなにホーム画面が綺麗に整頓されてましたっけ?」
「燿、あたしを何だと思ってるのよ。まあ、でも、確かにあたしのホームはこんな綺麗にタスクごとにまとめられてなんかいないね」
「えっ、じゃあ、これって?」
不思議そうにする燿の隣で、凪がぽつりと呟く。
「ぼ、僕の……。これ、僕のスマホのホーム画面……」
凪はとにかく混乱しているようだった。もちろん、燿と龍之介も彼が何を言っているのか理解できるわけもなく、揃って疑問符を浮かべる。
全員の視線が説明を求めるように織音へと向き、彼女は小さくため息を吐いた。
「あたしだってよく分かってないよ? 急に再起動したと思ったら、こうなってたんだからさ」
トンッと織音が指でスマホを小突く。
「お前ら仲いいんだし、スマホの中まで全部一緒にしてるだけじゃねーのか?」
龍之介は興味なさそうに自分のスマホを再度確認していた。しかし、その画面はやっぱり何をしても暗転したままのようだ。
「そんなわけないじゃん。どれだけ仲が良くったって、スマホは見せ合わないよ」
「そうですよね。僕の両親なんか、結婚しているのにスマホは二人とも絶対に見せないですもん。というか、普通誰だってスマホの中身は見られたくないんじゃないですかね。どんなに仲良くても、大切な人でも、そこんとこは変わらないと思います」
燿の言葉に、胡桃の胸がチクッと痛む。
「先に謝っとくけど、あたし色々とアプリとか写真とか漁っちゃった。悪気があったわけじゃないよ? だって、本当に意味分かんなくてめっちゃ焦ったし。自分のデータがどっかに保存されていないかなって思って……」
織音が凪に「ごめんね」と謝る。しかし、その言葉は凪には届いていなそうだった。彼の色白の肌が血の気を引いて、さらに青白くなっている。戸惑いと焦燥を浮かべた瞳が忙しなく揺らめいていた。
「言っとくけど、ガワだけじゃないよ。LINEもSNSも全部凪のアカウントになってる。それから、写真とか連絡先、何でか知らないけれど電話番号まで。ありとあらゆるものが、丸っと多分、凪のものになっちゃってる。こんなのあり得る? いや、現実に起きてんだけどさ」
織音の言い分はよく分かる。だって、正真正銘、自分の端末だし、何より直ってくれなくちゃ困るんだから。解決策を探るためには、目の前の見ず知らずのデータを漁るしかない。
ただ、見られた側は少し気の毒ではある。覗いた胡桃がそう思うのも変な話だけど。
「それで、何か分かったんですか? 直す方法とか」
燿の呈した疑問に、織音はやおら首を振る。
「……あ、あのっ!」
突然、凪が大きな声を上げた。普段、彼がこんなに大きな声を出すことはないから、全員が目を丸くする。
凪は唇を小刻みに震わせながら、一つ生唾を呑み込んで続けた。
「ど、どこまで見た……? ロ、ロック、僕はかけてるのに、これ、かかってない。じゃ、じゃあ、もしかしてあれも……」
いつも以上に訥々(とつ)とした喋りは、織音に向けてというより、必死に何かを否定しようとしているみたいに思えた。
凪の様子は見るからにおかしい。青ざめた表情に、額に滲む大粒の汗。虚ろで焦点の定まっていない視線。息を切らして忙しない口元。
まるで、断頭台に登った罪人みたいだ、と胡桃は胸の中で独り言ちる。
そんな様子の凪に、みんなが戸惑う。
「凪、落ち着きなって。そんなにたくさん見たわけじゃないから。すぐに凪のスマホだって予想できたし。本当、LINEとインスタ、後は写真くらいだよ」
〝写真〟という言葉に、凪の身体が波を打つ。
「しゃ、写真……?」
「そう、写真。でも、ほらこの画面で気が付いたから、すぐに閉じたよ」
そう言い、織音は指を広げて並んだ写真を囲った。胡桃も目を流したけれど、別に変な写真は見られなかった。作品を描くための資料画像。織音とお揃いのブレスレットの写真。多分、ミスって撮った謎のスクショ。
何気なく保存したものを見られるのが恥ずかしいのは理解できるが、そこまで慌てるようなものでもないような。
「それに、ロックかかってたフォルダは見てないし。自分で確認する?」
織音がスマホを差し出すと、凪は慌ててそれを受け取り、震える手で画面をスクロールする。そして、ロックのかかったフォルダを見つけたのだろう、安堵の息を吐いてスマホを織音に返す。端末は織音のものだから、返すのは当然のことなのに、その行為がどこか奇妙に感じてしまう。
あと、凪はもう少しポーカーフェイスを覚えるべきだと思う。そんな露骨に顔色を良くしては、そのロックのかかったフォルダに見られたくないものが眠っていることは明白だ。
「きょ、今日、暑いね。僕、飲み物買ってくる。あっ、でもスマホ……」
凪の視線が織音のスマホに寄せられる。きっと、自分が離れている間に他のものを見られることを危惧しているのだろう。それは胡桃だけではなく、織音にも伝わったのか、彼女はスマホの画面を消して机の上に再び置いた。
「大丈夫。絶対に見ないから」
「う、うん……」
慌ただしく美術室を出ていく凪に、胡桃たちは呆れ笑みを浮かべる。
「クーラー効いているし、そこまで暑くないのにね」
「でも、こんな不可思議な現象なんだから、どっかに直るヒントでもあるんじゃないですかね?」
燿が机上のスマホを操作してフォルダをタップすると、パスワードを入力する画面が浮かび上がる。しかし、他人のかけたパスワードの予想など付くはずもなく、キーボードの上で燿の指が宙をさまよう。
「あっ、おい、約束したんだから、勝手に触んなし」
織音が急いで燿からスマホを奪い取った。その拍子に指が触れたのだろう。写真がスクロールされて流れていく。
「凪くんが戻ってきたら、自分で確かめてもらうのがいいんじゃないかな?」
ありきたりな提案をしただけなのに、胡桃の心臓はやけに暴れていた。
「そうそう。凪、繊細なんだから触れてや――」
スマホに目を向けた織音が言葉を詰まらせた。じっと、食い入るように画面を見つめる。
「染井さん? どうかした?」
胡桃の問いかけに、織音からの返事はない。彼女は唇を軽く噛みしめて眉根を寄せていた。
「あっ、これ染井先輩のインスタじゃないですか。……ん? でも、妙ですね」
織音の肩越しにスマホを覗き込んだ燿も、同じように疑問めいた表情を浮かべる。
「おい、俺たちにも見せろって」
龍之介が織音からスマホを奪い取り、胡桃にも見えるように机の上に置く。
それは何てことのない画像に紛れて保存された、織音のInstagramのスクショの一覧だった。ただし、保存されているのはどれも投稿から二十四時間で自動的に削除されるストーリーズ機能で投稿されたものだ。
胡桃も気に入った投稿があればスクショで保存することがあるので、一瞬疑問を持たなかったが、よくよく考えれば、これだけの数のストーリーズを保存しているのは異様だ。ぱっと見で数十件。もはや、最近の織音のストーリーズを全て保存して残しているんじゃないかと思える。
いくら凪と織音が仲がいいからって、ここまでするだろうか。
「す、すごいですね、凪先輩。こんなの好きじゃなきゃやらないですよ」
「えっ?」
燿の発言に、織音の射抜くような視線が彼へと向けられる。
「あっ、いや、友達としてってことですよ。もちろん」
「……だよね」
織音は釈然としない様子だった。
当たり前だ。織音だって何となく分かっているはずだ。これが親友としての許容範囲のものじゃないことくらい。
不穏な空気が美術室を漂う。
「き、きっと、あたしが保存してなくて後悔した時のために残しておいてくれてるんだよ。ほら、凪って優しいし、底抜けに心配性じゃん?」
そう言いつつ、織音の指がスマホの画面を滑り、保存された写真を一通り遡る。良くないと思いながらも、胡桃も織音と共に画面に食い入ってしまう。
結局、インスタの写真以外、特に気になる写真は見当たらなかった。しかし、織音はもう止まれないのか、そのままスマホのアプリを片っ端から覗いていく。
彼女を止める人は誰もいなかった。まるで蚊帳の外から眺めるように、胡桃と燿、龍之介の三人は黙り込んで織音を見守る。
気になるということも否定できないけれど、織音を止めるだけの理由がなかった。倫理観などという大層なものを、胡桃はさほど持ち合わせていない。どうしてか、織音は全部見て知るべきだと思ってしまった。
きっと、胡桃がそう思うのは燿の本性を知ってしまったから。凪のことを疑うわけじゃないが、誰かを傷付ける何かが彼のスマホの中に潜んでいる可能性があるのなら、知らなくちゃいけないと思う。
燿を盗み見る。
どうして、あなたはそんなに純粋な眼でいられるの?
見て見ぬふりをするのが正解じゃないことくらい、分かっている。だから、胡桃は織音を止めないし、この後、燿とも話し合わなければいけない。
「何これ……」
織音が愕然と呟く。
スマホのメモ帳が開かれていた。
部活終わり、いつものようにそそくさと職員室へ戻っていく横渕先生の姿が見えなくなると、織音がやや神妙な面持ちで切り出した。
不思議そうに織音を見遣る三人とは対照的に、胡桃の表情はきっと少し硬いことだろう。スマホの件だと瞬時に理解したからだ。
今日の部活中はずっと上の空だった。時折、織音の視線を感じていたが、反応する気にもなれなかった。正確には、余裕がなかった。
――次は、柳胡桃を殺そう。
強烈なフレーズが、燿の声で何度も脳裏で再生される。でも、その声はどうしても爽やかで、明るさを帯びていた。
だって、燿がどんな声色で、表情で、そんなことを言うのか想像できないから。胡桃の知る燿は、一度だってそんなことを言ったことはなかったし、人を蔑むような発言もしなかった。
柳胡桃を殺そう。この話には続きがあった。
昨夜、胡桃は燿のアカウントの投稿を遡り続けて分かったことがある。殺すという言葉は大袈裟な表現で、彼が実際に胡桃に殺意を持っているわけではなかった。なぜなら、燿は過去にも相手を変えて同じような文面を投稿していたからだ。
【染井織音を殺そう】
【天音凪を殺そう】
【頼むから、渡会龍之介は死んでくれ】
悪口で塗れた投稿の中に、そんな文面の投稿が散見された。
でも、もちろん、三人とも死んじゃいない。胡桃だって、燿に何の危害も加えられていない。燿の抱く殺意は、言い換えれば破壊願望のようなものだと思う。
織音を殺そう。その投稿がされた数日後の投稿には、一枚の写真が添えられていた。それは燿が入選したコンクールに、織音が送った作品を写した写真。ただ、胡桃が憧れる〝絵画〟のような織音の作品は、びりびりに破かれて紙くずになっていた。
思い返せば、燿は入部当初から、率先してみんなの作品をまとめてコンクールへと送ってくれていた。そしてその頃から、毎回と言っていい程何かしらの賞を取っていた織音と凪の落選が続いた。
きっと、毎回燿の手で壊され続けていたのだろう。
ある写真では作品は燃やされて消し炭になっていた。また、ある写真ではカッターのようなものでズタズタに切り裂かれていた。
どうして、こんなことが出来るのだろう。いくつも見つけた燿の裏の顔の中で、一番強い憤りと悲しみに苛まれた。みんながどれだけの時間をかけて、熱意を込めて描き上げたのかを燿は分かっているはずだ。
――努力に価値はない。結果だけが、あなたの評価になるのよ。
ふと、再三刷り込まれた母親の言葉を思い出す。きっと、正しいことを言っているんだと思う。
でも、だからって、努力を踏みにじられていいわけがない。受け取るべき正当な結果を捻じ曲げる燿の行為は、胡桃が最も忌み嫌うことだ。
燿と目が合う。男女問わず人望を集める彼は、今日も悩ましいまでに快活な笑顔を胡桃に向ける。
燿のしたことは許しがたいことなのに、どうしても彼を信じたい自分もいた。だって、胡桃の見てきた燿の全てが偽りというわけじゃないはずだ。
織音が胡桃を一瞥し、小さく頷く。でも、胡桃は微動だに出来なかった。そんな胡桃の様子に、織音はちょっと困ったように口元を緩める。
「あたしも、スマホ直ったよ」
「あっ、その話したかったんです」
織音の発言に口を挟んだのは燿だった。
「僕のスマホ、今壊れちゃって困ってるんですよ。ほら、全然つかない。染井先輩も壊れてたんですか?」
燿が自らのスマホを取り出して全員に見せる。
燿は昨日部活を休んでいたから、胡桃を除いた全員のスマホが使えなくなっていたことを知らないのだ。そんな燿に、織音がこれまでの出来事を説明する。全員のスマホが使えなくなったこと、胡桃のスマホだけが再起動したこと。
「それで昨日の夜、あたしのスマホも急に再起動してさ。……直ったんだけど、ね」
織音はスマホを五人が囲んだ机の上に置く。画面をタップすると明かりがつき、ホーム画面が浮かび上がる。やっぱり、胡桃のスマホ同様、ロックはかかっていないようだった。
画面を覗き込んだ凪の頬がぴくりと強張る。
「染井先輩って、こんなにホーム画面が綺麗に整頓されてましたっけ?」
「燿、あたしを何だと思ってるのよ。まあ、でも、確かにあたしのホームはこんな綺麗にタスクごとにまとめられてなんかいないね」
「えっ、じゃあ、これって?」
不思議そうにする燿の隣で、凪がぽつりと呟く。
「ぼ、僕の……。これ、僕のスマホのホーム画面……」
凪はとにかく混乱しているようだった。もちろん、燿と龍之介も彼が何を言っているのか理解できるわけもなく、揃って疑問符を浮かべる。
全員の視線が説明を求めるように織音へと向き、彼女は小さくため息を吐いた。
「あたしだってよく分かってないよ? 急に再起動したと思ったら、こうなってたんだからさ」
トンッと織音が指でスマホを小突く。
「お前ら仲いいんだし、スマホの中まで全部一緒にしてるだけじゃねーのか?」
龍之介は興味なさそうに自分のスマホを再度確認していた。しかし、その画面はやっぱり何をしても暗転したままのようだ。
「そんなわけないじゃん。どれだけ仲が良くったって、スマホは見せ合わないよ」
「そうですよね。僕の両親なんか、結婚しているのにスマホは二人とも絶対に見せないですもん。というか、普通誰だってスマホの中身は見られたくないんじゃないですかね。どんなに仲良くても、大切な人でも、そこんとこは変わらないと思います」
燿の言葉に、胡桃の胸がチクッと痛む。
「先に謝っとくけど、あたし色々とアプリとか写真とか漁っちゃった。悪気があったわけじゃないよ? だって、本当に意味分かんなくてめっちゃ焦ったし。自分のデータがどっかに保存されていないかなって思って……」
織音が凪に「ごめんね」と謝る。しかし、その言葉は凪には届いていなそうだった。彼の色白の肌が血の気を引いて、さらに青白くなっている。戸惑いと焦燥を浮かべた瞳が忙しなく揺らめいていた。
「言っとくけど、ガワだけじゃないよ。LINEもSNSも全部凪のアカウントになってる。それから、写真とか連絡先、何でか知らないけれど電話番号まで。ありとあらゆるものが、丸っと多分、凪のものになっちゃってる。こんなのあり得る? いや、現実に起きてんだけどさ」
織音の言い分はよく分かる。だって、正真正銘、自分の端末だし、何より直ってくれなくちゃ困るんだから。解決策を探るためには、目の前の見ず知らずのデータを漁るしかない。
ただ、見られた側は少し気の毒ではある。覗いた胡桃がそう思うのも変な話だけど。
「それで、何か分かったんですか? 直す方法とか」
燿の呈した疑問に、織音はやおら首を振る。
「……あ、あのっ!」
突然、凪が大きな声を上げた。普段、彼がこんなに大きな声を出すことはないから、全員が目を丸くする。
凪は唇を小刻みに震わせながら、一つ生唾を呑み込んで続けた。
「ど、どこまで見た……? ロ、ロック、僕はかけてるのに、これ、かかってない。じゃ、じゃあ、もしかしてあれも……」
いつも以上に訥々(とつ)とした喋りは、織音に向けてというより、必死に何かを否定しようとしているみたいに思えた。
凪の様子は見るからにおかしい。青ざめた表情に、額に滲む大粒の汗。虚ろで焦点の定まっていない視線。息を切らして忙しない口元。
まるで、断頭台に登った罪人みたいだ、と胡桃は胸の中で独り言ちる。
そんな様子の凪に、みんなが戸惑う。
「凪、落ち着きなって。そんなにたくさん見たわけじゃないから。すぐに凪のスマホだって予想できたし。本当、LINEとインスタ、後は写真くらいだよ」
〝写真〟という言葉に、凪の身体が波を打つ。
「しゃ、写真……?」
「そう、写真。でも、ほらこの画面で気が付いたから、すぐに閉じたよ」
そう言い、織音は指を広げて並んだ写真を囲った。胡桃も目を流したけれど、別に変な写真は見られなかった。作品を描くための資料画像。織音とお揃いのブレスレットの写真。多分、ミスって撮った謎のスクショ。
何気なく保存したものを見られるのが恥ずかしいのは理解できるが、そこまで慌てるようなものでもないような。
「それに、ロックかかってたフォルダは見てないし。自分で確認する?」
織音がスマホを差し出すと、凪は慌ててそれを受け取り、震える手で画面をスクロールする。そして、ロックのかかったフォルダを見つけたのだろう、安堵の息を吐いてスマホを織音に返す。端末は織音のものだから、返すのは当然のことなのに、その行為がどこか奇妙に感じてしまう。
あと、凪はもう少しポーカーフェイスを覚えるべきだと思う。そんな露骨に顔色を良くしては、そのロックのかかったフォルダに見られたくないものが眠っていることは明白だ。
「きょ、今日、暑いね。僕、飲み物買ってくる。あっ、でもスマホ……」
凪の視線が織音のスマホに寄せられる。きっと、自分が離れている間に他のものを見られることを危惧しているのだろう。それは胡桃だけではなく、織音にも伝わったのか、彼女はスマホの画面を消して机の上に再び置いた。
「大丈夫。絶対に見ないから」
「う、うん……」
慌ただしく美術室を出ていく凪に、胡桃たちは呆れ笑みを浮かべる。
「クーラー効いているし、そこまで暑くないのにね」
「でも、こんな不可思議な現象なんだから、どっかに直るヒントでもあるんじゃないですかね?」
燿が机上のスマホを操作してフォルダをタップすると、パスワードを入力する画面が浮かび上がる。しかし、他人のかけたパスワードの予想など付くはずもなく、キーボードの上で燿の指が宙をさまよう。
「あっ、おい、約束したんだから、勝手に触んなし」
織音が急いで燿からスマホを奪い取った。その拍子に指が触れたのだろう。写真がスクロールされて流れていく。
「凪くんが戻ってきたら、自分で確かめてもらうのがいいんじゃないかな?」
ありきたりな提案をしただけなのに、胡桃の心臓はやけに暴れていた。
「そうそう。凪、繊細なんだから触れてや――」
スマホに目を向けた織音が言葉を詰まらせた。じっと、食い入るように画面を見つめる。
「染井さん? どうかした?」
胡桃の問いかけに、織音からの返事はない。彼女は唇を軽く噛みしめて眉根を寄せていた。
「あっ、これ染井先輩のインスタじゃないですか。……ん? でも、妙ですね」
織音の肩越しにスマホを覗き込んだ燿も、同じように疑問めいた表情を浮かべる。
「おい、俺たちにも見せろって」
龍之介が織音からスマホを奪い取り、胡桃にも見えるように机の上に置く。
それは何てことのない画像に紛れて保存された、織音のInstagramのスクショの一覧だった。ただし、保存されているのはどれも投稿から二十四時間で自動的に削除されるストーリーズ機能で投稿されたものだ。
胡桃も気に入った投稿があればスクショで保存することがあるので、一瞬疑問を持たなかったが、よくよく考えれば、これだけの数のストーリーズを保存しているのは異様だ。ぱっと見で数十件。もはや、最近の織音のストーリーズを全て保存して残しているんじゃないかと思える。
いくら凪と織音が仲がいいからって、ここまでするだろうか。
「す、すごいですね、凪先輩。こんなの好きじゃなきゃやらないですよ」
「えっ?」
燿の発言に、織音の射抜くような視線が彼へと向けられる。
「あっ、いや、友達としてってことですよ。もちろん」
「……だよね」
織音は釈然としない様子だった。
当たり前だ。織音だって何となく分かっているはずだ。これが親友としての許容範囲のものじゃないことくらい。
不穏な空気が美術室を漂う。
「き、きっと、あたしが保存してなくて後悔した時のために残しておいてくれてるんだよ。ほら、凪って優しいし、底抜けに心配性じゃん?」
そう言いつつ、織音の指がスマホの画面を滑り、保存された写真を一通り遡る。良くないと思いながらも、胡桃も織音と共に画面に食い入ってしまう。
結局、インスタの写真以外、特に気になる写真は見当たらなかった。しかし、織音はもう止まれないのか、そのままスマホのアプリを片っ端から覗いていく。
彼女を止める人は誰もいなかった。まるで蚊帳の外から眺めるように、胡桃と燿、龍之介の三人は黙り込んで織音を見守る。
気になるということも否定できないけれど、織音を止めるだけの理由がなかった。倫理観などという大層なものを、胡桃はさほど持ち合わせていない。どうしてか、織音は全部見て知るべきだと思ってしまった。
きっと、胡桃がそう思うのは燿の本性を知ってしまったから。凪のことを疑うわけじゃないが、誰かを傷付ける何かが彼のスマホの中に潜んでいる可能性があるのなら、知らなくちゃいけないと思う。
燿を盗み見る。
どうして、あなたはそんなに純粋な眼でいられるの?
見て見ぬふりをするのが正解じゃないことくらい、分かっている。だから、胡桃は織音を止めないし、この後、燿とも話し合わなければいけない。
「何これ……」
織音が愕然と呟く。
スマホのメモ帳が開かれていた。



