帰宅してから布団に入るまで、胡桃はずっとそわそわしていた。昨日からずっと感じていた胸のざわめき。それが胡桃の中で膨らみ続けている。
わざと遠ざけるように机の上に置いたスマホが、通知音を鳴らす。その度に、迷うのだ。見るべきか、否か。
きっと、胡桃とは関わりのない人からの連絡なのだろうけど、もしかしたら、火急の要件かもしれない。胡桃が伝えなければ、燿が困るようなことかもしれない。
……いや、違う。この胸のざらつく感覚は、そんな正義感なんかじゃない。もっと人間的で、欲深いもの。
――ただの好奇心だ。
昨日見てしまった写真フォルダの記憶が、胡桃の脳裏にへばりついていた。はっきりとは見ていない。でも、思わず目を惹くような画像もあった。確か、半裸の女性が写っていたような――。
まあ、燿も男子高校生なのだ。胡桃はそういう〝欲〟に関する理解は十分にあるし、別に気持ち悪いとかも思わない。むしろ、思春期の自然な姿だと思う。
ただ、頭では分かっていてもやっぱり気になってしまうわけで、通知が鳴ってスマホに意識が向く度に、胡桃は自らの卑しい感情と必死に戦う羽目になっていた。どうしてかマナーモードにも出来ないし、ほとほと困り果てていた。
また、通知音。それも二回続けて。
きっと、誰かからのLINEだ。
こんな夜更けにわざわざ連絡してくるような人って、誰だろう。同じ人? それとも、別々の人?
考えれば考える程、気になって仕方がなかった。
また、通知音。
少し間を置いて、さらに通知。
「うー……勘弁してよ」
思わず部屋を飛び出すと、八月のじめっとした蒸し暑さが肌にまとわりついた。階段を降り、真っ暗なリビングへ。胡桃の立てる物音以外、一切音がしないが、流石にここまでは着信音は聞こえず、冷蔵庫に残っていた飲みかけの麦茶を流し込み息を吐く。
今日はもうこのまま寝てしまおう。そして、明日になったら燿にちゃんと打ち明けよう。燿にスマホを貸して、彼自身が確認すればいいだけの話だ。そう、簡単なこと。どうせなら、電源を切ってしまったっていい。
「あっ、でもアラームどうしよう……」
胡桃は朝に強いが、目覚ましもなしで起きられる自信はあまりない。しばし考え、リビングのテーブルに置かれた母のスマホが目に付いた。それをぼんやりと見下ろす。
「……まあ、いっか」
母のスマホを手に取り、アラームをセットする。
部屋に戻り、自分のスマホを手に取った。これで心置きなく電源が切れる。
パッとついた画面に、いくつもの通知が並んでいた。どうしてか、ロックがかかっていないのだ。否が応でも、内容が見えてしまう。
【既読もつかないけど、大丈夫?】
【ねぇ、空いてる日ない? カラオケ行きたいんだけど】
【りこがスタンプを送信しました】
【なぁ、急で悪いんだけど、夏休み前最後の化学の板書送ってくんね? 写真撮ってたっしょ?】
色んな人から、LINEのメッセージが届いていた。燿の人脈の広さがよく分かる。
LINEの他に、SNSの通知も何件か表示されている。胡桃の知る限り、燿はあまりSNSをやっていなかったはず。と、ふと疑問に思ったが、多分人に教えていない趣味のアカウントなんかがあるのだろう。
仮にそうだとして、燿が人に言えない趣味って何なんだろう。
ずくん、と胸が疼いた。自分の部屋を意味もなく見渡す。
「……ごめんなさい、燿くん」
だって、板書の写真を送ってくれって、頼まれている。
そんな苦しい言い訳を口の中で転がしながら、胡桃は写真フォルダを開いた。そして、目に飛び込んで来た画像に思わず眉根を寄せる。
昨日、一瞬だけ目にしたあれは、やっぱり胡桃の見間違いなんかじゃなかった。友達と笑い合う燿の写真。カフェの飲み物を撮った写真。それらに紛れて、半裸の女性の写真があった。
しかし、胡桃は男性の性欲に関しては肯定的な意見の持ち主だ。胡桃が顔を顰めた理由は他にある。
この写真に写る女性に、胡桃は見覚えがあったからだ。
煽情的な白い素肌を露わにして、紅潮した表情を撮影者に向ける彼女。確か、同じ高校の一年生の子だ。一時期、燿と一緒に下校していたのを何度か目にしていたから覚えている。
それに、この写真の下部。見切れてはいるが、撮影者であろう人の素足が写り込み、その足首にはくすんだ色のミサンガが着けられていた。
こんなあられもない姿で写真を撮るなんて、所謂男女の関係ということだろうか。そう思いながらフォルダ内を遡り、胡桃は思わず声を漏らした。
「えっ……」
驚きのあまり、スマホを取り落としそうになる。一覧でずらりと並んだ写真の群れには、先程の写真と似たような写真がいくつも存在していた。構図も同じようなものばかり。ただし、写っている人物は全員違う女性だ。その内、何人かは胡桃の記憶にある人たちだった。
最初はネットで拾ってきた画像だと思っていた。だけど、これには胡桃も愕然とせざるを得ない。
ここでやめておけば良かったのかもしれない。まだ、見て見ぬふりが出来る範疇だったのに。
板書の写真のことなんて既に頭の片隅にも残っておらず、胡桃は衝動のままにあらゆるアプリやウェブの検索履歴、LINEのトークを片っ端から漁っていった。
複数の女性と交際を匂わせるような会話のやり取り。違法アップロードされた漫画サイトの閲覧履歴。AIとの卑猥な文通。
どれも胡桃の知る爽やかで純朴な燿からは考えられないような秘密ばかりで、頭が混乱した。
知らなかった燿の裏側を知るごとに、胡桃の中で彼のイメージが音を立てて崩れていく。
しかし、同時に胡桃はほんの少しばかりの悦びを感じていた。どうしてこんな感情が浮かぶのか自分でも理解できなかった。見てしまったことを心の底から後悔しているのに、なぜなんだろう。
私って――人間って、愚かな生き物だ。
他者の秘密がそこにあると知っていて、暴かずにはいられない。押すなと書かれたスイッチがあったら押したくなるように、半開きになった箱があれば、覗かずにはいられない。
だって、気になるから――。
最後にSNSを開いた。胡桃もフォローしている燿のリア垢。投稿された文章から見えてくる純朴な彼を、胡桃はもう信じることが難しい。
少し速い自分の鼓動を感じながら、アカウント切り替えをタップする。やっぱりと言うべきか、リア垢とは別にもう一つアカウントがあった。
しかし、複数のアカウントを持っていること自体は別に珍しいことじゃない。アカウントによって集める情報を管理したりするのは至極当然。そこに疑問はない。
ただ、燿の本性を知ってしまった後に、この別垢を覗くのは勇気がいることだった。
窓の外から微かに聞こえる車のブレーキを踏む甲高い音。身体を撫でるエアコンの冷たい風。メタルボディーのボールペンに映る歪んだ自分の鏡像。
意を決して、もう一つのアカウントを開く。
0フォロー、223フォロワー、620件の投稿。
最新の投稿は昨日の夕方だった。ファミレスでの祝賀会を終えて、解散した直後に投稿されたもので、その一文に、胡桃は息を詰まらせる。
【次は、柳胡桃を殺そう】
スマホが手から滑り落ち、床で耳障りな音を立てた。間を置かず、軽快な通知音が鳴り響く。
美術部のグループトークに、メッセージが届いていた。
【あー、胡桃? 織音なんだけど、えっ、これどうなってんの?】
凪のアカウントから送られた、織音を名乗るメッセージ。それはまるで、昨日、自分が燿のアカウントから送ったメッセージの再現のようだった。
「ははっ……」
乾いた笑いが零れる。
「もう、わけ分かんないよ……」
透明な水面に、一滴の真っ黒な絵具が垂れる気配がした。
わざと遠ざけるように机の上に置いたスマホが、通知音を鳴らす。その度に、迷うのだ。見るべきか、否か。
きっと、胡桃とは関わりのない人からの連絡なのだろうけど、もしかしたら、火急の要件かもしれない。胡桃が伝えなければ、燿が困るようなことかもしれない。
……いや、違う。この胸のざらつく感覚は、そんな正義感なんかじゃない。もっと人間的で、欲深いもの。
――ただの好奇心だ。
昨日見てしまった写真フォルダの記憶が、胡桃の脳裏にへばりついていた。はっきりとは見ていない。でも、思わず目を惹くような画像もあった。確か、半裸の女性が写っていたような――。
まあ、燿も男子高校生なのだ。胡桃はそういう〝欲〟に関する理解は十分にあるし、別に気持ち悪いとかも思わない。むしろ、思春期の自然な姿だと思う。
ただ、頭では分かっていてもやっぱり気になってしまうわけで、通知が鳴ってスマホに意識が向く度に、胡桃は自らの卑しい感情と必死に戦う羽目になっていた。どうしてかマナーモードにも出来ないし、ほとほと困り果てていた。
また、通知音。それも二回続けて。
きっと、誰かからのLINEだ。
こんな夜更けにわざわざ連絡してくるような人って、誰だろう。同じ人? それとも、別々の人?
考えれば考える程、気になって仕方がなかった。
また、通知音。
少し間を置いて、さらに通知。
「うー……勘弁してよ」
思わず部屋を飛び出すと、八月のじめっとした蒸し暑さが肌にまとわりついた。階段を降り、真っ暗なリビングへ。胡桃の立てる物音以外、一切音がしないが、流石にここまでは着信音は聞こえず、冷蔵庫に残っていた飲みかけの麦茶を流し込み息を吐く。
今日はもうこのまま寝てしまおう。そして、明日になったら燿にちゃんと打ち明けよう。燿にスマホを貸して、彼自身が確認すればいいだけの話だ。そう、簡単なこと。どうせなら、電源を切ってしまったっていい。
「あっ、でもアラームどうしよう……」
胡桃は朝に強いが、目覚ましもなしで起きられる自信はあまりない。しばし考え、リビングのテーブルに置かれた母のスマホが目に付いた。それをぼんやりと見下ろす。
「……まあ、いっか」
母のスマホを手に取り、アラームをセットする。
部屋に戻り、自分のスマホを手に取った。これで心置きなく電源が切れる。
パッとついた画面に、いくつもの通知が並んでいた。どうしてか、ロックがかかっていないのだ。否が応でも、内容が見えてしまう。
【既読もつかないけど、大丈夫?】
【ねぇ、空いてる日ない? カラオケ行きたいんだけど】
【りこがスタンプを送信しました】
【なぁ、急で悪いんだけど、夏休み前最後の化学の板書送ってくんね? 写真撮ってたっしょ?】
色んな人から、LINEのメッセージが届いていた。燿の人脈の広さがよく分かる。
LINEの他に、SNSの通知も何件か表示されている。胡桃の知る限り、燿はあまりSNSをやっていなかったはず。と、ふと疑問に思ったが、多分人に教えていない趣味のアカウントなんかがあるのだろう。
仮にそうだとして、燿が人に言えない趣味って何なんだろう。
ずくん、と胸が疼いた。自分の部屋を意味もなく見渡す。
「……ごめんなさい、燿くん」
だって、板書の写真を送ってくれって、頼まれている。
そんな苦しい言い訳を口の中で転がしながら、胡桃は写真フォルダを開いた。そして、目に飛び込んで来た画像に思わず眉根を寄せる。
昨日、一瞬だけ目にしたあれは、やっぱり胡桃の見間違いなんかじゃなかった。友達と笑い合う燿の写真。カフェの飲み物を撮った写真。それらに紛れて、半裸の女性の写真があった。
しかし、胡桃は男性の性欲に関しては肯定的な意見の持ち主だ。胡桃が顔を顰めた理由は他にある。
この写真に写る女性に、胡桃は見覚えがあったからだ。
煽情的な白い素肌を露わにして、紅潮した表情を撮影者に向ける彼女。確か、同じ高校の一年生の子だ。一時期、燿と一緒に下校していたのを何度か目にしていたから覚えている。
それに、この写真の下部。見切れてはいるが、撮影者であろう人の素足が写り込み、その足首にはくすんだ色のミサンガが着けられていた。
こんなあられもない姿で写真を撮るなんて、所謂男女の関係ということだろうか。そう思いながらフォルダ内を遡り、胡桃は思わず声を漏らした。
「えっ……」
驚きのあまり、スマホを取り落としそうになる。一覧でずらりと並んだ写真の群れには、先程の写真と似たような写真がいくつも存在していた。構図も同じようなものばかり。ただし、写っている人物は全員違う女性だ。その内、何人かは胡桃の記憶にある人たちだった。
最初はネットで拾ってきた画像だと思っていた。だけど、これには胡桃も愕然とせざるを得ない。
ここでやめておけば良かったのかもしれない。まだ、見て見ぬふりが出来る範疇だったのに。
板書の写真のことなんて既に頭の片隅にも残っておらず、胡桃は衝動のままにあらゆるアプリやウェブの検索履歴、LINEのトークを片っ端から漁っていった。
複数の女性と交際を匂わせるような会話のやり取り。違法アップロードされた漫画サイトの閲覧履歴。AIとの卑猥な文通。
どれも胡桃の知る爽やかで純朴な燿からは考えられないような秘密ばかりで、頭が混乱した。
知らなかった燿の裏側を知るごとに、胡桃の中で彼のイメージが音を立てて崩れていく。
しかし、同時に胡桃はほんの少しばかりの悦びを感じていた。どうしてこんな感情が浮かぶのか自分でも理解できなかった。見てしまったことを心の底から後悔しているのに、なぜなんだろう。
私って――人間って、愚かな生き物だ。
他者の秘密がそこにあると知っていて、暴かずにはいられない。押すなと書かれたスイッチがあったら押したくなるように、半開きになった箱があれば、覗かずにはいられない。
だって、気になるから――。
最後にSNSを開いた。胡桃もフォローしている燿のリア垢。投稿された文章から見えてくる純朴な彼を、胡桃はもう信じることが難しい。
少し速い自分の鼓動を感じながら、アカウント切り替えをタップする。やっぱりと言うべきか、リア垢とは別にもう一つアカウントがあった。
しかし、複数のアカウントを持っていること自体は別に珍しいことじゃない。アカウントによって集める情報を管理したりするのは至極当然。そこに疑問はない。
ただ、燿の本性を知ってしまった後に、この別垢を覗くのは勇気がいることだった。
窓の外から微かに聞こえる車のブレーキを踏む甲高い音。身体を撫でるエアコンの冷たい風。メタルボディーのボールペンに映る歪んだ自分の鏡像。
意を決して、もう一つのアカウントを開く。
0フォロー、223フォロワー、620件の投稿。
最新の投稿は昨日の夕方だった。ファミレスでの祝賀会を終えて、解散した直後に投稿されたもので、その一文に、胡桃は息を詰まらせる。
【次は、柳胡桃を殺そう】
スマホが手から滑り落ち、床で耳障りな音を立てた。間を置かず、軽快な通知音が鳴り響く。
美術部のグループトークに、メッセージが届いていた。
【あー、胡桃? 織音なんだけど、えっ、これどうなってんの?】
凪のアカウントから送られた、織音を名乗るメッセージ。それはまるで、昨日、自分が燿のアカウントから送ったメッセージの再現のようだった。
「ははっ……」
乾いた笑いが零れる。
「もう、わけ分かんないよ……」
透明な水面に、一滴の真っ黒な絵具が垂れる気配がした。



