◇
夏休みも終わり、二学期が始まった。
九月から学校って、他の学校よりもちょっとだけ夏休みが長いらしく、得した気分だ。でも、その分、冬休みが短いわけだけど。
美術室のドアを開くと、顔料の鉄っぽい匂いが微かに鼻を衝いた。
「ごめんね、遅れて」
慌ただしく美術室に入って来た胡桃に向けられる視線が四つ。良かった、いつも通りの顔ぶれだ。それだけで胡桃は嬉しくなった。
今日からは新しいコンクールの作品づくりに、もう少しすれば文化祭の出し物にも着手しなくちゃならない。部活でやることは山積みだ。でも、正直なところ、そんなことはどうでも良かった。
「遅いっすよ、胡桃先輩」
キャンバスから顔を上げた燿が言った。夏休み前のような爽やかな雰囲気は鳴りを潜め、相変わらずちょっと不貞腐れたような態度だ。でも、燿のそんなふてぶてしい態度にもすっかり慣れてしまった。
「ちょっと、先生に頼まれごとしちゃって」
ふと窓際に目を向けると、懐かしい光景が広がっていた。
「凪、青色切れちゃった。少し頂戴」
「ぼ、僕は白がない」
「じゃ、交換」
やっぱり、織音と凪は横に並んでいてほしい。そんな胡桃の願いが叶ったように、二人は仲良さげに会話をしていた。
織音の答えが出たのか、まだその途中なのかは分からなかったけれど、少なくとも二人の表情は明るい。だから、もう胡桃が何かを心配する必要もないんじゃないかと思う。
「そうだ、龍之介先輩」
胡桃が声をかけると、定位置である一番後ろの席に座っていた龍之介が、気怠そうに胡桃を見た。
「何だよ」
そう言う龍之介を見て、胡桃は一瞬固まった。その様子に龍之介が小首を傾げる。
気のせいかもしれないけれど、龍之介のいつもと同じ目つきが、今日はどこか優しく感じられた。
龍之介と燿の距離は、胡桃が見る限り変わらずに遠い。二人とも、目も合わせないでいる。だから、二人の問題はまだ解決していないのかと思ったけど、それにしては二人とも表情が柔らかい。
何だか妙な空気だな、と素直に思った。
「おい。だから、何か用かって」
龍之介の声に我に返る。
「えっ? あ、あぁ、そうでした。文化祭が終わったら、龍之介先輩の送別会をしようと思っていて、空いている日付を聞いておこうかなって」
そう言うと、胡桃の予想通り、龍之介はとても嫌そうな表情を浮かべた。
「別にやんなくていいよ」
「駄目です。部長として、引退する先輩はしっかり送り出さないと」
胡桃はわざとらしく腕を組んで、座る龍之介を見下ろす。龍之介の呆れたような視線も何のそのだ。
「胡桃ー、あたしは二十日なら空いてるー!」
「あっ、ぼ、僕も」
どうやら、教室の反対側の織音と凪にも聞こえていたらしい。二人が笑顔でこちらに向けて手を振って合図をしていた。
「僕も、その日なら空いてます」
燿がキャンバスに目を落としたまま言った。そんな燿に、胡桃は僅かに微笑む。
「ですって。龍之介先輩、二十日は空いていますか?」
胡桃は龍之介に向き直る。
「しゃーねぇなぁ。……空けとく」
「はい!」
龍之介からの言質を取り、満足して自らの席に戻ろうとした時、
「あれ……?」
燿がぽつりと呟く。
「どうしたの?」
胡桃の問いかけに、燿はみんなにスマホの画面を見せる。
「直ってる……」
燿が手に持つ胡桃の端末には、懐かしさすら覚えるホーム画面が浮かんでいた。
「えっ、ということは……」
急いで鞄から凪のスマホを取り出す。ぱっと明るくなった画面には、先程まで胡桃のホーム画面が表示されていたはずなのに、凪のホーム画面へと元通りになっていた。
顔を上げると、みんなと目が合った。そして、ややあってから一斉に呆れたような笑いが零れ落ちる。
「直るの遅過ぎだっつーの」
織音がそう言うと、龍之介が頬杖をつきながら続くように口を開いた。
「本当、何だったんだ?」
「で、でも、戻って良かったね」
凪がほっと息を吐く。
「もうコリゴリっすけどね」
燿が胡桃にスマホを差し出す。それを受け取り、ぎゅっと胸に寄せた。
結局、スマホの中身が入れ替わるという謎めいた出来事は、全員のスマホの中身が突然元に戻ったことで、何事もなかったかのように幕を閉じた。
あまりにも呆気なく終わってしまったので、夏の暑さが見せた夢だったんじゃないかとすら思えるくらいだ。でも、今日のみんなを見れば、胡桃たちは確かにぶつかり合い、かりそめの関係を壊したのだと分かる。
「さっ、部活始めるよ!」
キャンバスを立てかけ、筆洗器に水を張る。そして、パレットに絵具を出していく。
真っ白なキャンバスを前にすると、少し気圧される。今からここに自分だけの絵を描いていくと思うと、わくわくもするし、ちょっともったいなくも思えた。
と、そんなことを考えている暇はあまりないのだ。
胡桃は急いで筆を水で濡らした。
夏休みも終わり、二学期が始まった。
九月から学校って、他の学校よりもちょっとだけ夏休みが長いらしく、得した気分だ。でも、その分、冬休みが短いわけだけど。
美術室のドアを開くと、顔料の鉄っぽい匂いが微かに鼻を衝いた。
「ごめんね、遅れて」
慌ただしく美術室に入って来た胡桃に向けられる視線が四つ。良かった、いつも通りの顔ぶれだ。それだけで胡桃は嬉しくなった。
今日からは新しいコンクールの作品づくりに、もう少しすれば文化祭の出し物にも着手しなくちゃならない。部活でやることは山積みだ。でも、正直なところ、そんなことはどうでも良かった。
「遅いっすよ、胡桃先輩」
キャンバスから顔を上げた燿が言った。夏休み前のような爽やかな雰囲気は鳴りを潜め、相変わらずちょっと不貞腐れたような態度だ。でも、燿のそんなふてぶてしい態度にもすっかり慣れてしまった。
「ちょっと、先生に頼まれごとしちゃって」
ふと窓際に目を向けると、懐かしい光景が広がっていた。
「凪、青色切れちゃった。少し頂戴」
「ぼ、僕は白がない」
「じゃ、交換」
やっぱり、織音と凪は横に並んでいてほしい。そんな胡桃の願いが叶ったように、二人は仲良さげに会話をしていた。
織音の答えが出たのか、まだその途中なのかは分からなかったけれど、少なくとも二人の表情は明るい。だから、もう胡桃が何かを心配する必要もないんじゃないかと思う。
「そうだ、龍之介先輩」
胡桃が声をかけると、定位置である一番後ろの席に座っていた龍之介が、気怠そうに胡桃を見た。
「何だよ」
そう言う龍之介を見て、胡桃は一瞬固まった。その様子に龍之介が小首を傾げる。
気のせいかもしれないけれど、龍之介のいつもと同じ目つきが、今日はどこか優しく感じられた。
龍之介と燿の距離は、胡桃が見る限り変わらずに遠い。二人とも、目も合わせないでいる。だから、二人の問題はまだ解決していないのかと思ったけど、それにしては二人とも表情が柔らかい。
何だか妙な空気だな、と素直に思った。
「おい。だから、何か用かって」
龍之介の声に我に返る。
「えっ? あ、あぁ、そうでした。文化祭が終わったら、龍之介先輩の送別会をしようと思っていて、空いている日付を聞いておこうかなって」
そう言うと、胡桃の予想通り、龍之介はとても嫌そうな表情を浮かべた。
「別にやんなくていいよ」
「駄目です。部長として、引退する先輩はしっかり送り出さないと」
胡桃はわざとらしく腕を組んで、座る龍之介を見下ろす。龍之介の呆れたような視線も何のそのだ。
「胡桃ー、あたしは二十日なら空いてるー!」
「あっ、ぼ、僕も」
どうやら、教室の反対側の織音と凪にも聞こえていたらしい。二人が笑顔でこちらに向けて手を振って合図をしていた。
「僕も、その日なら空いてます」
燿がキャンバスに目を落としたまま言った。そんな燿に、胡桃は僅かに微笑む。
「ですって。龍之介先輩、二十日は空いていますか?」
胡桃は龍之介に向き直る。
「しゃーねぇなぁ。……空けとく」
「はい!」
龍之介からの言質を取り、満足して自らの席に戻ろうとした時、
「あれ……?」
燿がぽつりと呟く。
「どうしたの?」
胡桃の問いかけに、燿はみんなにスマホの画面を見せる。
「直ってる……」
燿が手に持つ胡桃の端末には、懐かしさすら覚えるホーム画面が浮かんでいた。
「えっ、ということは……」
急いで鞄から凪のスマホを取り出す。ぱっと明るくなった画面には、先程まで胡桃のホーム画面が表示されていたはずなのに、凪のホーム画面へと元通りになっていた。
顔を上げると、みんなと目が合った。そして、ややあってから一斉に呆れたような笑いが零れ落ちる。
「直るの遅過ぎだっつーの」
織音がそう言うと、龍之介が頬杖をつきながら続くように口を開いた。
「本当、何だったんだ?」
「で、でも、戻って良かったね」
凪がほっと息を吐く。
「もうコリゴリっすけどね」
燿が胡桃にスマホを差し出す。それを受け取り、ぎゅっと胸に寄せた。
結局、スマホの中身が入れ替わるという謎めいた出来事は、全員のスマホの中身が突然元に戻ったことで、何事もなかったかのように幕を閉じた。
あまりにも呆気なく終わってしまったので、夏の暑さが見せた夢だったんじゃないかとすら思えるくらいだ。でも、今日のみんなを見れば、胡桃たちは確かにぶつかり合い、かりそめの関係を壊したのだと分かる。
「さっ、部活始めるよ!」
キャンバスを立てかけ、筆洗器に水を張る。そして、パレットに絵具を出していく。
真っ白なキャンバスを前にすると、少し気圧される。今からここに自分だけの絵を描いていくと思うと、わくわくもするし、ちょっともったいなくも思えた。
と、そんなことを考えている暇はあまりないのだ。
胡桃は急いで筆を水で濡らした。



