勝手に覗いて幻滅すんなよ

         ◇

 今日は風が強い。膝に置いたスケッチブックがパラパラと捲れていく。

 身体を叩き付けてくる海辺の強い風が、織音は好きだ。全身を持って行かれそうな程の風が吹くと嬉しくなる。

 でも、出来れば外で絵を描いている時は、どうか遠慮してほしい。画材のペンは転がっていくし、紙は砂浜から飛んでくる砂利(じゃり)で汚れるし散々だ。

 まあ、いい。どうせ、これ以上粘っても何も描けないだろうし。

 また、スランプが訪れた。スケッチブックに描かれたラフは、本当に自分が描いたのか疑わしい程に酷い。

 果たして、このスランプから抜け出せる時は来るのだろうか。今までのようなスランプの脱却の仕方は、もう止めにしたのだ。

 もしかしたら、このままずっと満足のいく絵が描けないかもしれない。それはちょっと寂しい。

 両親への反抗として始めた絵も、いつしか織音には欠かせないものになってしまっていた。こんなことさえ、両親の思い通りになっているように感じて不愉快だ。

 オリオン座の星言葉を最近調べた。

 〝信念を持ち、我が道を行く〟だったり、一年中見られることから〝永遠〟を象徴したりするらしく、変わらない愛や友情を表すらしい。

 なんて気高くて、ロマンチックな星なのだろう。織音にはもったいない。だけど、胡桃に教えたら、織音にぴったりだと言うのだ。そんなことあるわけないのに。

 スケッチブックを閉じ、背中から地面に倒れ込む。枕にした腕に砂が押し付けられてちょっと気持ち悪かったけれど、案外悪くないと思えた。

 陽射しが眩しくて、目を閉じる。火照(ほて)る肌を風が冷ましていく。大きく息を吸い込むと、漁港がすぐ真横にあるせいか、ちょっと生臭い。お世辞にも潮のいい匂いなんて言えなかった。

 蝉の合唱と潮騒(しおさい)の音が混ざり合って、織音の鼓膜を揺らす。

 蝉って九月にもいるんだっけ? そう思っていると、ぴたりと蝉の声が鳴り止んだ。

 「も、もう描かないの?」

 片目を開ければ、隣の凪と目が合った。そして、彼が恥ずかしそうに目を逸らすから、織音も再び目を閉じる。

 「まあね。凪のこと誘っといてなんだけど、あたしはそんな気分でもないみたいだし」

 「そ、そっか」

 暑いなぁ。

 波の音だけが、織音と凪の横をすり抜けていく。でも、この静かな空気が、織音は嫌いじゃない。

 「凪は、あたしのどこが好きなの?」

 「えっ……」

 「そう言えば、聞いてないなって」

 身体が震える。怖い。出来れば、聞きたくない。

 ほら、ロマンチックなんてあたしには程遠い。

 「そ、染井さんは絵を描いてる時、すごく楽しそうに描くんだ」

 「嘘? あたしが?」

 「うん……。他にも、自分をちゃんと持っているところとか、物怖()じしないところとか、色々……す、好きなところがあるよ……」

 「ふーん」

 難しいなぁ、と思う。だって、それは友達の好きなところにだって当てはまる話だ。どうやってその好きが恋愛に結び付くのだろう。織音にも、分かる日が来るのだろうか。

 勢いよく起き上がり、水平線へと目を向ける。青々とした海はまるでどこまでも永遠に続いているんじゃないかと思えた。どれだけ遠くに行っても、何もないかもしれない。この海原に一歩を踏み出して身を沈めるのは、果てしなく恐ろしい。

 光の見えない暗闇を進むような、出口の訪れないトンネルを歩むような、そんな一歩目だ。

 世界は広い。そんな冒険をしなくとも、明るい道を一緒に歩んでくれる人はきっとたくさんいるのだろう。それでも――

 「帰ろっか」

 立ち上がる。

 「う、うん……」

 「宿題まだ終わってないし」

 「今日で夏休み終わりだよ?」

 まるで自分のことみたいに慌てる凪を見て、ちょっと可笑しくなった。

 「そうなんだよねぇ。困った、困った」

 相変わらず、身体の震えは止まらない。引き返せ、今なら戻れるってうるさい。

 「今からさ、一緒に宿題終わらせようよ」

 「僕はもう終わってるよ。染井さんの分を、でしょ?」

 「あははっ、もちろん!」

 季節の移ろう気配がする。

 「あのさ、凪」

 「ど、どうしたの?」

 「織音、でいいよ」

 それでも、やっぱり一緒に隣を歩くのは凪がいい。

 どこまでも続く暗い道の一歩目を、織音は踏み出した。