勝手に覗いて幻滅すんなよ

 燿と別れ、予定通り病院へと向かう。胸のつかえが取れたのか、やけに心が軽い。

 いつもは端を上る階段を、意味もなく真ん中を歩いた。我ながら子供っぽい。

 病室をノックすると、扉の奥から返事が来る。

 「どうぞ」

 扉を開けると、窓際のベッドでいつものように佇む村田さんの姿があった。

 「いらっしゃい、龍之介くん。……おや?」

 村田さんが不思議そうな顔をする。

 一体、どうしたのだろう。おかしな格好でもしているだろうか。

 「どうして、泣いているんだい?」

 「えっ……?」

 頬に触れると、指先が濡れた。そうしてようやく、自分が涙を流していることに気が付いた。

 「あれ……? なんだ、これ……」

 いつからだろう。というか、何の涙なんだ、これは。

 いくら考えても、理由が分からなかった。それなのに、どれだけ拭っても、唇を噛みしめても、止まれと念じても、涙が溢れ出す。まるで、自分の身体じゃないみたいだ。

 「何か、悲しいことがあったんだね」

 村田さんは優しく言った。

 「いや、別に……。すんません。今、止まると思うんで……」

 止まれ。止まれ。止まれって。

 どうして、止まってくれないんだよ。

 「いいんだよ。ここにはよぼよぼのお(じい)さん一人しかいないんだ。だから、何も我慢する必要なんてないよ」

 どうか、優しくしないでほしい。

 「……すんません。俺のことを見てくれていた人と喧嘩……いや、縁を切って……」

 一体、村田さんに何を話しているのだろう。でも、一度口に出したら、もう止まらなかった。

 「別に本当に悲しくはなくて、むしろほっとしている自分がいて。いや、本当に俺って屑だな……どうしようもねぇや。協調性はないし、才能があるわけでもない。話しかけてくれる奴らにも素っ気なくて。……こんな俺を慕ってくれていた奴にも、最後まであいつから言わせて……」

 村田さんはじっと話を聞いてくれていた。そして、龍之介が全てを話し終えると、温和な表情で言った。

 「友達だったんだね?」

 「……違うっす。最初から、きっと友達なんかじゃなかった。俺、友達なんて出来たことないし……」

 俺と燿の関係は、確かに友達なんかじゃなかった。それは、本当のことだ。

 村田さんは窓の外へ目を向け、いつの間にか夕焼けに染まっていた街並みに目を細めた。

 「僕もね、五年前に妻を亡くして、子供もいなくて天涯孤独だったんだよ」

 「ははっ、俺と一緒っすね。あっ、嫌みとかじゃなくて」

 慌てて訂正する龍之介に、村田さんは柔らかく微笑んだ。

 「でも、最近一人だけ友達が出来たんだ」

 「良かったじゃないっすか。少しだけ、羨ましいっす……」

 村田さんと目が合う。

 「君のことだよ」

 「えっ……」

 村田さんは何を言っているんだろう。

 「い、いやいや、俺はあなたをこうして入院させた奴ですよ?」

 声が少し、震えた。

 「龍之介くんは僕があのまま歩道橋を転げ落ちていたら、どうなっていたと思う?」

 答えられなかった。目の前にいるのはもうすぐ九十歳になる老人だ。そんな人が、あの歩道橋を転がり落ちる。それがどういうことか、想像しなくとも分かる。

 「僕はこんな数か月の怪我で、一人の友達が出来た。どうだい、これってすごいことだと思わないかい?」

 「……っ」

 「こんな幸せな老人、中々いないよ」

 頭を振る。

 違う。俺は人を不幸にさせてしまう人間だ。

 「僕を幸せにしてくれて、ありがとう」

 村田さんに手を握られる。筋張っていて、皺くちゃな手だ。でも、とても温かかった。

 「もう何が何だか……分かんないっす……」

 ずっと、涙が止まらなかった。

 だけど、涙の色は確かに変わっていた気がした。