胡桃にとって世界は、家庭という内側と、それ以外の外側の二つにしか分けることが出来ない。
毎日、家で目覚めて、外で勉強をして、家に帰ってまた勉強をする。その繰り返しなのだから、二つの世界を細分化することも出来ない。ただ、明確に内と外が違うことだけは明らかだった。
「ただいま」
玄関のドアを開けて少し大きめに言うと、母がリビングから顔を見せる。
「お帰りなさい」
母が手を差し出すので、胡桃は何も言わずに鞄を渡すと、母も慣れた手つきで胡桃の鞄の中を漁る。
「日記書いちゃいなさい」
「うん……」
胡桃の家では毎日その日の出来事をまとめた日記を書いて、母に見せるのが習慣だ。だから、玄関には胡桃の日記と兄の日記の二つが常に置かれていた。
日記を書きながら、横目で母を見る。母は胡桃の財布の中身を確認し、それから学校の授業の板書をまとめたノートをぱらぱらと流し見する。
その間、胡桃と母の間に会話はない。
最後に母がプリント類の入ったクリアファイルに手をかける。そして、今日返却されたテスト用紙を眺め、そっとため息を漏らした。
「胡桃」
「……はい」
「目を見なさい」
「…………」
胡桃を見下ろす母の目はとても冷たい。胡桃への憐みと呆れが入り混じって見える。外の人たちとは大違いだ。まるで、違う生物のようにすら思えた。
「分かるわね? 二問分ね」
「…………はい」
胡桃の返事を聞き届け、母は胡桃に鞄を返してリビングへと戻っていった。しんと静まった空間に、ようやく胡桃は息を吐き出す。
二階からは微かに物音が聞こえた。父は単身赴任中なので、物音の正体は胡桃の兄だ。どうやら兄は、今日は何事もなく靴を脱ぐことを許されたらしい。
広い玄関の端、靴箱の上棚に置かれた花瓶を横に退け、教科書とノートを広げる。テストを二問間違えたので、今からまた二時間勉強だ。
今日は兄が横にいないので、広々とスペースを使うことが出来る。
帰ったら絶対にただいまを言う。そして、鞄の中身を母に見せる。母が鞄の中身を確認している間、一日の出来事を日記に書いて、それも母に見せる。テストの点数や、ノートの出来次第で母に決められた時間分、玄関で立ったまま勉強をする。
これが内の世界での日常だ。
もちろん、その勉強中に靴を脱ぐことも、家に上がることも許されない。終わるまで、ご飯も食べることが出来ない。
しばらくすると、ふわりといい匂いが漂ってきた。夕飯はシチューと聞いていたが、どうやらビーフシチューの方らしい。いつもなら、夕飯の匂いが漂うこの時間が苦痛なのだが、今日はそうでもない。なぜなら、とても美味しいコロッケを食べたからだ。
味もさることながら、みんなで会話を交わしながら店先で立って食べる、あのちょっぴり背徳的な雰囲気が忘れられない。
階段を降りてくる足音に、胡桃は手を止めた。二階から降りてきた兄は、玄関で勉強をする胡桃を見遣り、リビングの母に聞こえるように大きく「おかえり」と一言。そして、今度は声を潜めて続ける。
「ただ勉、あとどれくらい?」
リビングに声が届かないよう、こっそり兄にそう聞かれたので、壁かけの時計に目を向ける。
「四十分くらい」
ただ勉とは、兄が勝手に、玄関での勉強時間に名を付けたもので、ただいまとただ働きの〝ただ〟がかかっているらしい。帰ってすぐの無駄な勉強という皮肉が込められていた。
「そっか。それくらいなら、きっと夕飯は冷めないよ」
「うん」
胡桃と兄は、冷たくなった夕飯の味を嫌という程知っている。冷めても美味しいのだけど、疲れた身体で食べる冷たいご飯はびっくりするくらい箸が進まない。
「俺も明日テスト返却だから、今から憂鬱だなぁ」
「お兄ちゃん、最近ただ勉多いよね。やっぱり、高校の勉強って難しい?」
「そうだね。偏差値高いところのしかも特進コースだから、授業も付いて行くのでやっとだよ」
胡桃よりもずっと優れた兄がそう言うのだ。高校って、どれだけ恐ろしいところなのだろうか。
そう言えば、兄は最近、隈が酷い。ただ勉じゃなくても、夜遅くまで勉強していることは知っていた。元気がないことも多いし、ちょっぴり心配だ。
でも、無理をしないでね、なんて無責任なことは言えない。胡桃も兄も、頑張らないと後々辛い目に遭うのは自分自身なのだから。
「これ以上話していると母さんにバレる。先に向こう行ってるから。あと少し、頑張れ」
頭をぽんと撫でられる。もうそういう歳じゃないのだけど、兄にされると嬉しくなってしまうから困る。
結局、ただ勉を終わらせて一人で食べた夕飯は少し冷めていた。でも、その日は温かい気持ちでぐっすりと眠ることが出来た。
毎日、家で目覚めて、外で勉強をして、家に帰ってまた勉強をする。その繰り返しなのだから、二つの世界を細分化することも出来ない。ただ、明確に内と外が違うことだけは明らかだった。
「ただいま」
玄関のドアを開けて少し大きめに言うと、母がリビングから顔を見せる。
「お帰りなさい」
母が手を差し出すので、胡桃は何も言わずに鞄を渡すと、母も慣れた手つきで胡桃の鞄の中を漁る。
「日記書いちゃいなさい」
「うん……」
胡桃の家では毎日その日の出来事をまとめた日記を書いて、母に見せるのが習慣だ。だから、玄関には胡桃の日記と兄の日記の二つが常に置かれていた。
日記を書きながら、横目で母を見る。母は胡桃の財布の中身を確認し、それから学校の授業の板書をまとめたノートをぱらぱらと流し見する。
その間、胡桃と母の間に会話はない。
最後に母がプリント類の入ったクリアファイルに手をかける。そして、今日返却されたテスト用紙を眺め、そっとため息を漏らした。
「胡桃」
「……はい」
「目を見なさい」
「…………」
胡桃を見下ろす母の目はとても冷たい。胡桃への憐みと呆れが入り混じって見える。外の人たちとは大違いだ。まるで、違う生物のようにすら思えた。
「分かるわね? 二問分ね」
「…………はい」
胡桃の返事を聞き届け、母は胡桃に鞄を返してリビングへと戻っていった。しんと静まった空間に、ようやく胡桃は息を吐き出す。
二階からは微かに物音が聞こえた。父は単身赴任中なので、物音の正体は胡桃の兄だ。どうやら兄は、今日は何事もなく靴を脱ぐことを許されたらしい。
広い玄関の端、靴箱の上棚に置かれた花瓶を横に退け、教科書とノートを広げる。テストを二問間違えたので、今からまた二時間勉強だ。
今日は兄が横にいないので、広々とスペースを使うことが出来る。
帰ったら絶対にただいまを言う。そして、鞄の中身を母に見せる。母が鞄の中身を確認している間、一日の出来事を日記に書いて、それも母に見せる。テストの点数や、ノートの出来次第で母に決められた時間分、玄関で立ったまま勉強をする。
これが内の世界での日常だ。
もちろん、その勉強中に靴を脱ぐことも、家に上がることも許されない。終わるまで、ご飯も食べることが出来ない。
しばらくすると、ふわりといい匂いが漂ってきた。夕飯はシチューと聞いていたが、どうやらビーフシチューの方らしい。いつもなら、夕飯の匂いが漂うこの時間が苦痛なのだが、今日はそうでもない。なぜなら、とても美味しいコロッケを食べたからだ。
味もさることながら、みんなで会話を交わしながら店先で立って食べる、あのちょっぴり背徳的な雰囲気が忘れられない。
階段を降りてくる足音に、胡桃は手を止めた。二階から降りてきた兄は、玄関で勉強をする胡桃を見遣り、リビングの母に聞こえるように大きく「おかえり」と一言。そして、今度は声を潜めて続ける。
「ただ勉、あとどれくらい?」
リビングに声が届かないよう、こっそり兄にそう聞かれたので、壁かけの時計に目を向ける。
「四十分くらい」
ただ勉とは、兄が勝手に、玄関での勉強時間に名を付けたもので、ただいまとただ働きの〝ただ〟がかかっているらしい。帰ってすぐの無駄な勉強という皮肉が込められていた。
「そっか。それくらいなら、きっと夕飯は冷めないよ」
「うん」
胡桃と兄は、冷たくなった夕飯の味を嫌という程知っている。冷めても美味しいのだけど、疲れた身体で食べる冷たいご飯はびっくりするくらい箸が進まない。
「俺も明日テスト返却だから、今から憂鬱だなぁ」
「お兄ちゃん、最近ただ勉多いよね。やっぱり、高校の勉強って難しい?」
「そうだね。偏差値高いところのしかも特進コースだから、授業も付いて行くのでやっとだよ」
胡桃よりもずっと優れた兄がそう言うのだ。高校って、どれだけ恐ろしいところなのだろうか。
そう言えば、兄は最近、隈が酷い。ただ勉じゃなくても、夜遅くまで勉強していることは知っていた。元気がないことも多いし、ちょっぴり心配だ。
でも、無理をしないでね、なんて無責任なことは言えない。胡桃も兄も、頑張らないと後々辛い目に遭うのは自分自身なのだから。
「これ以上話していると母さんにバレる。先に向こう行ってるから。あと少し、頑張れ」
頭をぽんと撫でられる。もうそういう歳じゃないのだけど、兄にされると嬉しくなってしまうから困る。
結局、ただ勉を終わらせて一人で食べた夕飯は少し冷めていた。でも、その日は温かい気持ちでぐっすりと眠ることが出来た。



