「すみません、これから部活なのに手伝わせてしまって」
横渕先生が謝るので、胡桃は慌てて言葉を繋ぐ。
「大丈夫です! 今日は少し早めに来ていたので」
それに、出来れば部活が始まるまでは何かを考える時間をつくりたくない。
昨日は勢いで龍之介に秘密を打ち明けてしまったけれど、それでもまだ他の三人に本当の自分を知られることが怖い。ふとした瞬間、逃げてしまいそうになる。だから、横渕先生に頼みごとをされたのはちょうど良かった。
こういう時、衝動に身を任せられないのは良いことなのか、悪いことなのか。逃げたって、いつかはみんなと顔を合わせなければいけないのだし、余計に嫌な印象を与えるだけだ。そう分かっているから、胡桃は震えそうになる身体を押さえつける。
「部活の方に僕は顔を出せていませんが、文化祭の出し物と次のコンクールの作品づくりは進んでいますか?」
横渕先生にそう問われ、胡桃は口の中で本当のことをかみ砕いた。
「実はテーマ決めで難航しちゃっていて。それに今ちょっと色々あって、もしかしたら、またいつものように相談することになるかもしれないです」
横渕先生は僅かに沈黙をつくり、ややあってぎこちない笑みを浮かべた。
「そうですか。でも、無理はしないように。何か困ったことがあれば、気軽に言ってください」
「はい。ありがとうございます」
職員室を出て、すぐに声をかけられた。
「胡桃……」
校舎二階の廊下の隅に織音がいた。いつもより血色が悪く見えるのは多分、気のせいじゃない。胡桃に向けた瞳の下は少し隈が浮かんでいた。
「おはよう、染井さん」
途端に暴れ出す心臓を撫で付け、織音にいつも通りの挨拶を告げる。
「うん……おはよ」
職員室に用があったのかと思ったけれど、どうやら織音は胡桃を待っていたらしい。気まずい空気を断ち切るように、織音は何も言わずに美術室の方へと歩き出した。
少し迷い、胡桃は織音の半歩後ろをついて行く。
どうやら今日は吹奏楽部の活動がないらしい。いつも渡り廊下を歩く際に聞こえてくる鮮やかな音色が、一切響いていなかった。
胡桃は足音を消すように静かに歩く。織音は挨拶以降何も話さないし、胡桃から話題を振ることも憚られた。
それに、何を話せばいいのか分からない。こういう時、いつも何を話していたんだっけ……。
大きなガラス窓越しに射し込む朝の陽射しが、どこかひんやりとした薄暗さを残した渡り廊下を照らす。上履きの底が床を掠める度に、光の輪の中をほこりが金の粒のように舞い上がった。
ふと、織音が振り返る。彼女の髪には朝陽が射し込んで、淡く輝いていた。
「あのさ、」
織音は視線をさまよわせ、続ける。
「……あたしは胡桃のこと、友達だと思っているから」
どう返せばいいのか分からなくて、曖昧に頷く。
「私も。染井さんのことは本当に友達だと思っているよ」
「あれを見ても?」
あれ、とは昨日の美術室の惨状のことだろう。まだ脳裏にべっとりと残る光景を思い返す。
「うん……。それでも、私たちは友達だよ。染井さんには、ああいうことをしなくちゃならなかった理由がちゃんとあるんだよね?」
「理由……あるのかなぁ。元々、そうだった気もするし、どこかで狂っちゃったような気もする。どっちだって、傍から見たら変わらないのにね」
そう言い、織音は自虐的な笑みを零した。それだけで、やっぱり胡桃は織音のことをまだ友達だと心から思える。こんなに優しくて、気高い彼女がただの愉快犯のわけがない。
そして、それはみんな一緒だ。凪だって、燿だって、龍之介だって、みんな抱えているものがある。だからこそ、こんなちっぽけな出来事だけでは、胡桃の中のみんなは何も変わらない。
「誰だって、他人のことは完璧には理解できないんだよ。だから、私は今まで自分が見てきた染井さんのことを信じたい。勝手に裏切られた気になるのはもったいないと思う。全部曝け出しあって、それから改めて考えても遅くはないよね」
「……やっぱり、胡桃はすごいね。あたしの憧れ」
「えっ……?」
聞き間違いなんじゃないかと思った。だって、胡桃は織音のことを密かに憧れていた。いつもまっすぐで、誰にも汚されない。それなのに、色々なところで思いやりがある。胡桃が理想としている彼女が、胡桃に憧れていると言ったのだ。
私のどこに、心を奪われるような要素があるのだろう。
その疑問を読み取ったかのように、織音が話してくれる。
「あたしも胡桃のような綺麗な心を持って生きていきたい。ずっと、そう思ってた。あたしはもう汚れちゃってるからさ……」
「そんなことな――」
「あるよね。あたしはもったいないことをしてるんだよ。勝手に裏切られたって思って、親友を傷付けて。本当、自分勝手で子供みたい。だから、あたしも胡桃みたいに……」
続く言葉を織音は言い淀む。そして、ややあって静かに言った。
「胡桃、あたしのこと……好き?」
織音の言う好きがどの好きに対してなのか、胡桃には分からなかった。でも、好きか嫌いかの二択を迫られているのであれば、胡桃の答えは変わらない。
「うん、好きだよ」
何の迷いもなく、そう言える。
すると、織音はちょっとだけ困ったように視線を逸らす。
「例えばさ、あたしのこと……えっと、好きっていうか……愛せたりもする?」
訥々とした織音の問いかけに、胡桃は堪らず彼女の手を握る。その手は少し震えていた。
「多分、出来るよ。好きと愛の違いって、私もよく分からない。でも、染井さんのことを嫌いになるくらいなら、私はあなたのことを愛したいと思うんだ」
「嫌いになるくらいなら……」
織音の手の震えが強まる。
きっと、怖いんだ。胡桃からの愛を受け取ることが。
だけど、織音はその震えに負けることはなく、胡桃の目をもう一度見てくれた。
「正直ね、胡桃があたしのこと愛したいって言ってくれたのに、気持ち悪いって思っちゃったんだ……。ごめん……ごめんね……」
唇を噛みしめ、戦慄く織音は必死に何かを堪えているようだった。今にも泣いてしまいそうな、胡桃の手を痛い程強く握る手が少しでも緩めば崩れ落ちてしまいそうな、そんな脆さの中で彼女は戦っているんだ。
震える口でゆっくりと深呼吸をして、織音は苦しそうに笑みを浮かべた。
「でも、同じくらい、愛したいって言ってもらえて良かったって思ったんだ……。胡桃に嫌われるくらいなら、あたしも愛されたいし、愛したいって。きっと、胡桃だけじゃない。他のみんなにだって、そう思えるはず……。ごめんね、こんなのわけ分かんないよね?」
胡桃はそっと首を横に振る。
「大丈夫、分かるよ。染井さんは私と何も変わらない。だから、大丈夫だよ」
織音を抱きしめると、その震えが一層強まる。彼女の全身が、魂が、胡桃の好意を拒絶しているのだとはっきり分かる。
だけど、胡桃は織音を離さなかった。だって、こんなにも独りが輝く少女は、誰よりも孤独に苦しみ、恐れている。ちぐはぐな二つの本心が織音の中には存在しているんだ。
織音の腕が恐る恐る胡桃の背に回った時、二人は本当の意味で友達になれた気がした。
横渕先生が謝るので、胡桃は慌てて言葉を繋ぐ。
「大丈夫です! 今日は少し早めに来ていたので」
それに、出来れば部活が始まるまでは何かを考える時間をつくりたくない。
昨日は勢いで龍之介に秘密を打ち明けてしまったけれど、それでもまだ他の三人に本当の自分を知られることが怖い。ふとした瞬間、逃げてしまいそうになる。だから、横渕先生に頼みごとをされたのはちょうど良かった。
こういう時、衝動に身を任せられないのは良いことなのか、悪いことなのか。逃げたって、いつかはみんなと顔を合わせなければいけないのだし、余計に嫌な印象を与えるだけだ。そう分かっているから、胡桃は震えそうになる身体を押さえつける。
「部活の方に僕は顔を出せていませんが、文化祭の出し物と次のコンクールの作品づくりは進んでいますか?」
横渕先生にそう問われ、胡桃は口の中で本当のことをかみ砕いた。
「実はテーマ決めで難航しちゃっていて。それに今ちょっと色々あって、もしかしたら、またいつものように相談することになるかもしれないです」
横渕先生は僅かに沈黙をつくり、ややあってぎこちない笑みを浮かべた。
「そうですか。でも、無理はしないように。何か困ったことがあれば、気軽に言ってください」
「はい。ありがとうございます」
職員室を出て、すぐに声をかけられた。
「胡桃……」
校舎二階の廊下の隅に織音がいた。いつもより血色が悪く見えるのは多分、気のせいじゃない。胡桃に向けた瞳の下は少し隈が浮かんでいた。
「おはよう、染井さん」
途端に暴れ出す心臓を撫で付け、織音にいつも通りの挨拶を告げる。
「うん……おはよ」
職員室に用があったのかと思ったけれど、どうやら織音は胡桃を待っていたらしい。気まずい空気を断ち切るように、織音は何も言わずに美術室の方へと歩き出した。
少し迷い、胡桃は織音の半歩後ろをついて行く。
どうやら今日は吹奏楽部の活動がないらしい。いつも渡り廊下を歩く際に聞こえてくる鮮やかな音色が、一切響いていなかった。
胡桃は足音を消すように静かに歩く。織音は挨拶以降何も話さないし、胡桃から話題を振ることも憚られた。
それに、何を話せばいいのか分からない。こういう時、いつも何を話していたんだっけ……。
大きなガラス窓越しに射し込む朝の陽射しが、どこかひんやりとした薄暗さを残した渡り廊下を照らす。上履きの底が床を掠める度に、光の輪の中をほこりが金の粒のように舞い上がった。
ふと、織音が振り返る。彼女の髪には朝陽が射し込んで、淡く輝いていた。
「あのさ、」
織音は視線をさまよわせ、続ける。
「……あたしは胡桃のこと、友達だと思っているから」
どう返せばいいのか分からなくて、曖昧に頷く。
「私も。染井さんのことは本当に友達だと思っているよ」
「あれを見ても?」
あれ、とは昨日の美術室の惨状のことだろう。まだ脳裏にべっとりと残る光景を思い返す。
「うん……。それでも、私たちは友達だよ。染井さんには、ああいうことをしなくちゃならなかった理由がちゃんとあるんだよね?」
「理由……あるのかなぁ。元々、そうだった気もするし、どこかで狂っちゃったような気もする。どっちだって、傍から見たら変わらないのにね」
そう言い、織音は自虐的な笑みを零した。それだけで、やっぱり胡桃は織音のことをまだ友達だと心から思える。こんなに優しくて、気高い彼女がただの愉快犯のわけがない。
そして、それはみんな一緒だ。凪だって、燿だって、龍之介だって、みんな抱えているものがある。だからこそ、こんなちっぽけな出来事だけでは、胡桃の中のみんなは何も変わらない。
「誰だって、他人のことは完璧には理解できないんだよ。だから、私は今まで自分が見てきた染井さんのことを信じたい。勝手に裏切られた気になるのはもったいないと思う。全部曝け出しあって、それから改めて考えても遅くはないよね」
「……やっぱり、胡桃はすごいね。あたしの憧れ」
「えっ……?」
聞き間違いなんじゃないかと思った。だって、胡桃は織音のことを密かに憧れていた。いつもまっすぐで、誰にも汚されない。それなのに、色々なところで思いやりがある。胡桃が理想としている彼女が、胡桃に憧れていると言ったのだ。
私のどこに、心を奪われるような要素があるのだろう。
その疑問を読み取ったかのように、織音が話してくれる。
「あたしも胡桃のような綺麗な心を持って生きていきたい。ずっと、そう思ってた。あたしはもう汚れちゃってるからさ……」
「そんなことな――」
「あるよね。あたしはもったいないことをしてるんだよ。勝手に裏切られたって思って、親友を傷付けて。本当、自分勝手で子供みたい。だから、あたしも胡桃みたいに……」
続く言葉を織音は言い淀む。そして、ややあって静かに言った。
「胡桃、あたしのこと……好き?」
織音の言う好きがどの好きに対してなのか、胡桃には分からなかった。でも、好きか嫌いかの二択を迫られているのであれば、胡桃の答えは変わらない。
「うん、好きだよ」
何の迷いもなく、そう言える。
すると、織音はちょっとだけ困ったように視線を逸らす。
「例えばさ、あたしのこと……えっと、好きっていうか……愛せたりもする?」
訥々とした織音の問いかけに、胡桃は堪らず彼女の手を握る。その手は少し震えていた。
「多分、出来るよ。好きと愛の違いって、私もよく分からない。でも、染井さんのことを嫌いになるくらいなら、私はあなたのことを愛したいと思うんだ」
「嫌いになるくらいなら……」
織音の手の震えが強まる。
きっと、怖いんだ。胡桃からの愛を受け取ることが。
だけど、織音はその震えに負けることはなく、胡桃の目をもう一度見てくれた。
「正直ね、胡桃があたしのこと愛したいって言ってくれたのに、気持ち悪いって思っちゃったんだ……。ごめん……ごめんね……」
唇を噛みしめ、戦慄く織音は必死に何かを堪えているようだった。今にも泣いてしまいそうな、胡桃の手を痛い程強く握る手が少しでも緩めば崩れ落ちてしまいそうな、そんな脆さの中で彼女は戦っているんだ。
震える口でゆっくりと深呼吸をして、織音は苦しそうに笑みを浮かべた。
「でも、同じくらい、愛したいって言ってもらえて良かったって思ったんだ……。胡桃に嫌われるくらいなら、あたしも愛されたいし、愛したいって。きっと、胡桃だけじゃない。他のみんなにだって、そう思えるはず……。ごめんね、こんなのわけ分かんないよね?」
胡桃はそっと首を横に振る。
「大丈夫、分かるよ。染井さんは私と何も変わらない。だから、大丈夫だよ」
織音を抱きしめると、その震えが一層強まる。彼女の全身が、魂が、胡桃の好意を拒絶しているのだとはっきり分かる。
だけど、胡桃は織音を離さなかった。だって、こんなにも独りが輝く少女は、誰よりも孤独に苦しみ、恐れている。ちぐはぐな二つの本心が織音の中には存在しているんだ。
織音の腕が恐る恐る胡桃の背に回った時、二人は本当の意味で友達になれた気がした。



