◇
高校に入学すると同時にバスケをやめたのには、いくつか理由がある。一つは以前よりもバスケを楽しいと思えなくなったから。むしろ、苦痛の方が勝るようになっていた。
そもそも、自分から孤立を選ぶ性格ゆえ、チームプレーに向いていないので、冷静になった時、バスケを続ける動機が浮かばなかったことも理由の一つだ。と、これはただの言い訳に過ぎない。
実際は、燿への自分本位な贖罪でしかない。燿が将来を失った最たる原因の自分が、バスケを続けるなんてあってはならないことだ。
あの事故の一件以降、龍之介の内にずっと重たくのしかかる罪悪感という塊は、小さくなることはないが、時には急激に大きく膨らむ。
初めて燿の病室を訪れた時。燿が退院して、部活にマネージャーとして復帰した時。それでも明るく振る舞う燿が、ふとした瞬間に表情に翳りを見せる時。
正直、燿と顔を合わせるのがしんどかった。だから、燿が同じ高校で、まさかの同じ部活に入部した時は本当に地獄の始まりだと思った。入りたい部活なんて特になかったのだし、もっと燿が選ぶことがなさそうな部活に入るべきだったと酷く後悔した。
だけど、何も気にしていないように振る舞う燿から、龍之介は逃げることが赦されない。
出来れば関わりたくない。でも、深い傷をなかったことにしてはいけない。
龍之介はこの罪悪感を一生抱えて生きなければならない。それが、一人の人生を奪った代償だ。そして、その一人というのが自分よりも圧倒的に優れた人間ならば、なおのこと、赦されることはない。
実際、トロッコ問題のようなものだ。龍之介と燿、どちらかを轢かないといけないなら、どちらを轢きますか? 百人中百人、龍之介を轢くだろう。龍之介だって、絶対に燿を選びやしない。
どうしてあの時、燿は龍之介を庇ったのだろう。もはや、嫌がらせなんじゃないかとすら思ってしまった。燿自身も不幸を背負う代わりに、龍之介にも一生残る傷を負わせるのが目的だったんじゃないか。
そんな風に少しでも考えてしまう自分が本当に醜くて、最低で、大嫌いだ。
助けてくれた人間を呪い、自らも悲劇の人物の仲間入りをしようとするなんて、どこまで愚かなのだろう。
本当に不運な出来事で、悪いのは絶対に自転車に乗って階段を下った奴だ。それなのにどうして罪の矛先を恩人に向けるのか。
もしかしたら、自分の中には悪魔か何かが宿っているのかもしれない。
……ほら、またそうやってあり得ない理由を付けて逃げようとする。
同じ部活で、家も同じ方向なので、燿とは帰り道がよく被る。ただし、中学の時とは違い、龍之介は意図的に燿と一緒に帰ることを避けていた。もちろん、燿はいい奴なので頻繁に誘ってくれるのだが、龍之介はその誘いを断り続けた。いつも通りぶっきらぼうに、愛想悪く。どうか、燿が自分のことを嫌ってくれますように、と願いながら。
しばらくすると、流石に燿も龍之介を誘わなくなった。少しの罪悪感と、大きな安堵に包まれる。
その日も部活終わりに適度に時間を潰して帰ったつもりだった。しかし、歩道橋の下り階段に燿の姿を見つける。イヤホンを耳に差し、ゆっくりと下る燿の横顔は随分と険しかった。
そういえば、今日は曇りかと空を仰ぐ。上空を覆う灰鼠色の厚い雲は、少し先の方で色を濃くしていた。空気が湿り気を帯びている気がするし、もしかしたら、この後雨が降るかもしれない。
天気痛と言い、気圧が低くなると古傷が痛むことがあると、燿が以前話していたのを思い出す。
だから、今日は一段と燿の歩みが遅いのかもしれない。
よりにもよって、歩道橋で燿のこんな姿を目にしてしまうとは。ズキズキと痛む胸の痛みも天気痛であってほしい。そんな馬鹿げたことを手すりにもたれかかって考える。
額をぽつりと水滴が叩いた。
「傘持ってねぇよ……」
呟きながら視線を下げ、違和感に気が付く。急こう配な階段を下り終えようかとする燿の姿。そして、燿の後ろを同じような速度でゆっくりと歩んでいた老人の男性。その男性はいつしか階段の途中で立ち止まり、身体がふらふらと前後に揺れていた。遠目から見ても、不自然な身体の揺れ方だ。
思わず、その男性に駆け寄る。
「あの、大丈夫っすか?」
数段上から男性に声をかける。すると、男性は龍之介の声に反応して振り返った。その瞬間、男性が体勢を崩し、身体が後ろ向きに倒れていく。男性は傍らの手すりを掴もうとするが、もう遅かった。男性の背が空を切り、足先が地面を離れる。
男性の落ちる先にいる燿が目に入り、きゅっと喉が締まった。このまま男性が転がり落ちれば、燿も巻き込まれる。そう思った刹那、心臓が悲鳴を上げて、過去の記憶がフラッシュバックした。突然、燿に押し退けられたかと思えば、彼が後方から落ちてくる自転車に呑まれ、階段を転がり落ちていく、あの恐怖の光景。
段差を飛び越して駆け下りる。必死に伸ばした手が宙に舞った老人の腕を掴んだ。その瞬間、ずんっと身体が持っていかれそうになり、龍之介は力任せに男性の腕を引っ張った。もう片方の腕で手すりを掴み、浮いた龍之介のかかとが再び地面を叩く。無我夢中だったこともあり、全力で後ろ向きにかけた体重はそのまま止まることなく、龍之介は背中から階段に叩き付けられる。
鈍い衝撃と迸る背中の痛み。それでも、男性の腕は離さなかった。
「いっ……っつ」
苦悶に閉じた目を開けて、隣で龍之介と同じように倒れる男性を確認する。男性の不自然に折れ曲がった左腕を見て、頭が真っ白になった。背中の痛みなど忘れ、どうしてか擦り傷すらしていない自分の左腕が激痛を錯覚させる。
耳をこだまする自らの荒い息遣い。いつの間にか激しくなっていた雨脚。背後から聞こえた小さな悲鳴が、龍之介の意識をさらに遠ざけた。
そこから先のことは、あまり覚えていない。ただひたすら、自らのしでかしたことの大きさに後悔するばかりだった。
ただ一つだけ、このことを燿が気が付かなくて良かったと、安堵の息を漏らしてしまった。だって、龍之介を突き動かしたのは燿が男性の落下に巻き込まれると思ったからだ。そのことを燿が知れば、男性の怪我は自分のせいだと責めるだろう。
そうして、きっとまた燿は龍之介を庇うのだ。そんなこと、もう二度とあってはならない。燿の怪我も、男性の怪我も、龍之介のせいだ。
それなら、全部背負って生きていこう。そうすれば、みんなが龍之介を責める。でも、それでいい。
誰もかれも、生きるのが下手くそだ。
だから、龍之介は悪者であろうと思う。
高校に入学すると同時にバスケをやめたのには、いくつか理由がある。一つは以前よりもバスケを楽しいと思えなくなったから。むしろ、苦痛の方が勝るようになっていた。
そもそも、自分から孤立を選ぶ性格ゆえ、チームプレーに向いていないので、冷静になった時、バスケを続ける動機が浮かばなかったことも理由の一つだ。と、これはただの言い訳に過ぎない。
実際は、燿への自分本位な贖罪でしかない。燿が将来を失った最たる原因の自分が、バスケを続けるなんてあってはならないことだ。
あの事故の一件以降、龍之介の内にずっと重たくのしかかる罪悪感という塊は、小さくなることはないが、時には急激に大きく膨らむ。
初めて燿の病室を訪れた時。燿が退院して、部活にマネージャーとして復帰した時。それでも明るく振る舞う燿が、ふとした瞬間に表情に翳りを見せる時。
正直、燿と顔を合わせるのがしんどかった。だから、燿が同じ高校で、まさかの同じ部活に入部した時は本当に地獄の始まりだと思った。入りたい部活なんて特になかったのだし、もっと燿が選ぶことがなさそうな部活に入るべきだったと酷く後悔した。
だけど、何も気にしていないように振る舞う燿から、龍之介は逃げることが赦されない。
出来れば関わりたくない。でも、深い傷をなかったことにしてはいけない。
龍之介はこの罪悪感を一生抱えて生きなければならない。それが、一人の人生を奪った代償だ。そして、その一人というのが自分よりも圧倒的に優れた人間ならば、なおのこと、赦されることはない。
実際、トロッコ問題のようなものだ。龍之介と燿、どちらかを轢かないといけないなら、どちらを轢きますか? 百人中百人、龍之介を轢くだろう。龍之介だって、絶対に燿を選びやしない。
どうしてあの時、燿は龍之介を庇ったのだろう。もはや、嫌がらせなんじゃないかとすら思ってしまった。燿自身も不幸を背負う代わりに、龍之介にも一生残る傷を負わせるのが目的だったんじゃないか。
そんな風に少しでも考えてしまう自分が本当に醜くて、最低で、大嫌いだ。
助けてくれた人間を呪い、自らも悲劇の人物の仲間入りをしようとするなんて、どこまで愚かなのだろう。
本当に不運な出来事で、悪いのは絶対に自転車に乗って階段を下った奴だ。それなのにどうして罪の矛先を恩人に向けるのか。
もしかしたら、自分の中には悪魔か何かが宿っているのかもしれない。
……ほら、またそうやってあり得ない理由を付けて逃げようとする。
同じ部活で、家も同じ方向なので、燿とは帰り道がよく被る。ただし、中学の時とは違い、龍之介は意図的に燿と一緒に帰ることを避けていた。もちろん、燿はいい奴なので頻繁に誘ってくれるのだが、龍之介はその誘いを断り続けた。いつも通りぶっきらぼうに、愛想悪く。どうか、燿が自分のことを嫌ってくれますように、と願いながら。
しばらくすると、流石に燿も龍之介を誘わなくなった。少しの罪悪感と、大きな安堵に包まれる。
その日も部活終わりに適度に時間を潰して帰ったつもりだった。しかし、歩道橋の下り階段に燿の姿を見つける。イヤホンを耳に差し、ゆっくりと下る燿の横顔は随分と険しかった。
そういえば、今日は曇りかと空を仰ぐ。上空を覆う灰鼠色の厚い雲は、少し先の方で色を濃くしていた。空気が湿り気を帯びている気がするし、もしかしたら、この後雨が降るかもしれない。
天気痛と言い、気圧が低くなると古傷が痛むことがあると、燿が以前話していたのを思い出す。
だから、今日は一段と燿の歩みが遅いのかもしれない。
よりにもよって、歩道橋で燿のこんな姿を目にしてしまうとは。ズキズキと痛む胸の痛みも天気痛であってほしい。そんな馬鹿げたことを手すりにもたれかかって考える。
額をぽつりと水滴が叩いた。
「傘持ってねぇよ……」
呟きながら視線を下げ、違和感に気が付く。急こう配な階段を下り終えようかとする燿の姿。そして、燿の後ろを同じような速度でゆっくりと歩んでいた老人の男性。その男性はいつしか階段の途中で立ち止まり、身体がふらふらと前後に揺れていた。遠目から見ても、不自然な身体の揺れ方だ。
思わず、その男性に駆け寄る。
「あの、大丈夫っすか?」
数段上から男性に声をかける。すると、男性は龍之介の声に反応して振り返った。その瞬間、男性が体勢を崩し、身体が後ろ向きに倒れていく。男性は傍らの手すりを掴もうとするが、もう遅かった。男性の背が空を切り、足先が地面を離れる。
男性の落ちる先にいる燿が目に入り、きゅっと喉が締まった。このまま男性が転がり落ちれば、燿も巻き込まれる。そう思った刹那、心臓が悲鳴を上げて、過去の記憶がフラッシュバックした。突然、燿に押し退けられたかと思えば、彼が後方から落ちてくる自転車に呑まれ、階段を転がり落ちていく、あの恐怖の光景。
段差を飛び越して駆け下りる。必死に伸ばした手が宙に舞った老人の腕を掴んだ。その瞬間、ずんっと身体が持っていかれそうになり、龍之介は力任せに男性の腕を引っ張った。もう片方の腕で手すりを掴み、浮いた龍之介のかかとが再び地面を叩く。無我夢中だったこともあり、全力で後ろ向きにかけた体重はそのまま止まることなく、龍之介は背中から階段に叩き付けられる。
鈍い衝撃と迸る背中の痛み。それでも、男性の腕は離さなかった。
「いっ……っつ」
苦悶に閉じた目を開けて、隣で龍之介と同じように倒れる男性を確認する。男性の不自然に折れ曲がった左腕を見て、頭が真っ白になった。背中の痛みなど忘れ、どうしてか擦り傷すらしていない自分の左腕が激痛を錯覚させる。
耳をこだまする自らの荒い息遣い。いつの間にか激しくなっていた雨脚。背後から聞こえた小さな悲鳴が、龍之介の意識をさらに遠ざけた。
そこから先のことは、あまり覚えていない。ただひたすら、自らのしでかしたことの大きさに後悔するばかりだった。
ただ一つだけ、このことを燿が気が付かなくて良かったと、安堵の息を漏らしてしまった。だって、龍之介を突き動かしたのは燿が男性の落下に巻き込まれると思ったからだ。そのことを燿が知れば、男性の怪我は自分のせいだと責めるだろう。
そうして、きっとまた燿は龍之介を庇うのだ。そんなこと、もう二度とあってはならない。燿の怪我も、男性の怪我も、龍之介のせいだ。
それなら、全部背負って生きていこう。そうすれば、みんなが龍之介を責める。でも、それでいい。
誰もかれも、生きるのが下手くそだ。
だから、龍之介は悪者であろうと思う。



