平筆の毛先が水面に触れ、一瞬にして絵具が音もなく広がった。真紅の色彩が滲み、薄絹のベールのように静かに沈んでいく。
バケツの中をかき混ぜてしまうのが何だか惜しくて、胡桃はしばらくその様子を眺めて待つ。本当はコンクールの〆切が近く、悠長にしている暇はないのだけど、どうにも綺麗なものを汚すことには抵抗がある。
透明は、きっと一番綺麗な色だ。どんな色にも染まることが出来て、どんな色も透明にはなれないのだから。白よりももっと混じり気のない、完璧な色。
でも、透明って色とは言わないような……。
「――柳さん、手が止まっていますよ」
意識の横っ面を叩く物腰柔らかい男性の声に、胡桃は我に返る。と同時に毛先が深く水中を突き刺し、一層濃い赤色が濁って広がった。あーあ、と心の中で独り言ちる。
顔を上げると、教壇の上でこちらを見遣る顧問の横渕先生と目が合った。男性にしてはぱっちりとした大きな瞳が、黒縁の眼鏡の奥から不思議そうに胡桃を捉える。
「何か行き詰まりましたか?」
「い、いえ、大丈夫です」
夏休みとはいえ、部活の時間に呆けるなんて良くない。美術部の部長としてあるまじき行為だ。
平筆を水中で左右に揺らしながら、胡桃は横渕先生から眼前の水彩紙へと視線を戻す。
紙一面に広がる荒野には、燦々と降り注ぐ陽射しを浴びて、眠たそうに目を細める狼がいた。最初に暖色の下地を塗ってから描き始めると、柔らかな雰囲気を出せると部員の織音に言われて試してみたけれど、確かに彼女の言う通り、絵全体に暖かさが満ち溢れている気がする。後は仕上げに細かいところを手直しすれば、どうにか期日内に完成まで漕ぎ着けそうだった。
織音のおかげで、水彩画が苦手な胡桃にとってはいつも以上の出来栄えだ。まだ途中ではあるが、横渕先生からもこれならコンクールで入賞できるとお墨付きももらえた。
しかし、この美術部には胡桃よりも優れた作品を生み出す人物がいる。その一人が、胡桃にアドバイスをくれた染井織音だ。
二つ離れた机上に置かれる彼女の完成作品を見れば、否が応でも差を感じてしまう。
上手く言い表せないけれど、自分の作品が〝絵〟だとしたら、織音の作品は〝絵画〟だ。悔しいなんて微塵も感じないし、そんな風に考えることすらおこがましいと思う。
しかも、今回はたまたまいい出来栄えだった胡桃とは違い、織音は毎回胡桃が思わず唸ってしまうくらい作品のクオリティが高いのだから、同じ土俵に立っていること自体が、どこか申し訳なさを覚える。
そんな彼女は、一足先に同じく作品を完成させた男子部員――天音凪と、窓際でいつもの如く会話に花を咲かせていた。互いに中学校からの親友と公言しているだけある。本当にいつ見ても、二人は楽しそうに話している。
親友と呼べる深い交友関係を持ったことのない胡桃からすれば、ちょっとだけ――いや、とても羨ましい。
胡桃の視線に気が付いたのか、織音がチラッとこちらを見る。綺麗に整えられた眉と、凛々しさを感じさせる鋭い目。レイヤースタイルのウルフカットの黒髪が僅かに揺れ、射し込む夏の陽射しを首元の黒いチョーカーの金具が反射して光沢を放つ。
織音に見つめられると、同じ女性の胡桃ですら、その格好の良さにどぎまぎしそうになる。身長も高くて、すらっと長い脚も含め、胡桃は織音に密かな憧れを感じざるを得ない。何の特徴もない自分とは大違いだ。
「胡桃ー作品、完成した? おっ、チョーいい感じじゃん!」
側に寄ってきた織音が、まじまじと胡桃の作品を覗き込む。
「うん、あとちょっとで完成。染井さんのアドバイスのおかげで、とてもいい作品になったよ」
「えー、でもこの狼の毛並みの質感とか、あたしでも思い付かないわぁ。水彩なのにふさふさしてそうでエグい。ほら、凪も見てよ」
織音が遠巻きにこちらを眺めていた凪を手招く。そこでようやく、凪は遠慮しがちに席を立った。
「こ、こことか、とても綺麗な発色だと思うよ」
凪の真っ白な腕が胡桃の前を通り、荒野の隅に描かれた枯草を指さす。
「えっ、凪的にはそこが気になったんだ。着眼点おもしろっ。狼見てあげなって」
織音が可笑しそうに声を上げる。確かに、胡桃としてもまさか枯草の色味を褒められるとは思わなかったので、織音につられて少し声を漏らす。
「ふふっ、ありがとう凪くん」
「も、もちろん、狼もすごく存在感あるし、目を惹くように描けてるよ。あ、えっと、本当に……」
赤面しながら慌てて言葉を繋げる凪に、胡桃は緩やかに首肯する。
「大丈夫だよ、凪くん。些細なところを褒めてくれるのも、私はとても嬉しいから。そういえば、凪くんも今回の作品は葉っぱのところをこだわって描いてたもんね。私はあんなに色鮮やかには描けないから枯草にしちゃった」
「あっ、うん……。納得がいくようにしたくて、別紙で練習してから描いたから」
「えー、そこまでしたの? 努力家だなぁ。今度、草仲間として上手な描き方教えてよ」
織音が「草仲間て」とまた愉快に笑う。
「でも実際、凪の今回の作品は本当によく描けてるとあたしも思うよ」
織音は自分の作品と凪の作品を並べ、満足げに頷く。
二人の作品はやっぱり、胡桃では足元にも及ばなそうだった。織音だけじゃなく、凪も彼女に負けず劣らずの作品を毎回完成させる。だから、今回も例に及ばず両者の作品は甲乙つけがたい。コンクールに出す以上、優劣はついてしまうのだろうけど、胡桃が審査員ならばどちらも一番いい賞をあげたいくらいだ。
三人の会話を遮るように、手を叩く軽快な音が美術室に響いた。その音で、胡桃は自然とスマホで時刻を確認する。部活の終わり時に、いつも横渕先生が行う癖だったからだ。
「さて、今日の部活は少し早いですが、これで終了にしましょう。最近、学校近辺で虐殺された動物の死体が見つかっていて物騒ですからね。極力、一人では帰らないように。では、片付けをしてくださいね」
そう言い残し、横渕先生は美術室を出た。相変わらず、生徒と必要以上に関わらない人だ。物腰柔らかな雰囲気と性格がちぐはぐに思える。
「胡桃先輩、パレットは僕が一緒に洗っておきますね」
織音と凪が胡桃の元を離れる最中、声をかけてきた人物は、この美術部唯一の一年生である星屋燿だった。
色白で鼻が高く、唇が薄い。いわゆる塩顔男子というやつだ。手入れを欠かさないらしい髪に、皺のない白シャツ。一学年の証の深緑色のネクタイすら、まるで新品のように見える。
全体的に小綺麗かつ清潔感のある身なりで、彼自身は爽やかで空気が読めるし、人懐っこい。夏が似合いそうな人物だなと胡桃は思う。実際、学年が違うにもかかわらず、燿の話は二年の胡桃も、部活以外の学校生活で度々耳にしていた。
一年にイケメンが入って来た、みたいな燿の容姿を褒めるものがほとんどだったけど。
「ありがとう、燿くん。でも、両手埋まってるけど持っていける?」
「大丈夫ですよ。胡桃先輩は活動日誌書かないといけないですし、僕に任せてください」
「そう? じゃあ、お願いしようかな」
部長である胡桃の仕事は多い。まず、夏休み期間中は部活動の内容を日誌に書いて、学校側に提出しなければいけない。これは各部活の部長の仕事だ。それに加え、美術室の施錠、顧問への鍵の返却までが、部活終わりの胡桃の一連の仕事になる。
「そうだぞー。今日は燿のコンクール入賞のお祝いで、みんなでご飯に行くんだから。胡桃にはさっさとやることやってもらわないと」
そう言い、織音が胡桃のパレットを燿から奪い取る。
「あっ、僕がやろうと思っていたのに。わざわざ、染井先輩が手を煩わせる必要ないですよ」
そう言いつつも、燿は織音からパレットを取り返そうとはしなかった。人の厚意をちゃんと受け取れるのも彼のいいところだ。
「あたし、もう自分の片付け終わってるし。なら、あたしが胡桃の分の片付けをやった方が早いっしょ」
織音と同じく手伝いに来てくれた凪も含めて、和気藹々と洗い場に向かう三人。中学生の時に遭ったという事故の後遺症で歩くのが遅い燿のために、織音と凪がいつもより緩慢に歩く後ろ姿を眺め、胡桃は小さく相好を崩す。
学年関係なく仲がいいし、変ないざこざや喧嘩は一度も起きたことがない。勉強の時間をつくりたくて、比較的活動が少ない美術部に入部したが、今では胡桃もすっかり居心地の良さを感じていた。
実際には部員が少なく、活動実績のために夏休みもこうして部活をすることになっているのだが、それはそれで、何だか青春しているなと思えて悪くない。家で閉じこもって勉強しているよりは何倍もマシだ。
しかし、そんな気心の知れた部員たちの中にも、輪から外れている人物がいる。
後方から、スマホの着信音が鳴り響く。振り向けば、いつもの定位置である美術室の隅の席を陣取っていた三年生の渡会龍之介が、スマホの画面を眺めて渋い顔を浮かべていた。
マナーモード、と注意したい気持ちを呑み込む。今は先生もいないのだし、あまりうるさく言う必要もないだろう。優等生と周りから言われる胡桃だが、そこら辺の融通はわきまえている。
「龍之介先輩、電話出ないんですか?」
胡桃の言葉で弾かれたように顔を上げる龍之介。いつも通りの目つきの悪さで胡桃を見据える龍之介の顔からは、若干の戸惑いと焦りが見て取れた。
胡桃はそんな龍之介の珍しい顔色に首を傾げる。
「……帰る」
着信を切るわけでもなく、一言そう呟いて龍之介は席を立った。高い身長に威圧感のある風貌。美術部員とは思えない鍛えられた筋肉質な身体。
龍之介は雑にえんじ色のネクタイを緩め、胡桃に自らの作品を押し付けるように渡す。
「えっ、燿くんの祝賀会は行かないんですか?」
「あ? 行かねーよ。俺、用事あるし。お疲れ、部長さん」
龍之介が教室から出てもなお、廊下から聞こえてきていた着信音が不意に消える。きっと、龍之介が着信を切ったのか、電話に応答したのだろう。
それなら美術室で出てもいいだろうに。いつも通り、何を考えているのか良く分からない人だ。あの体格でぶっきらぼうに接されると、ちょっとだけ気圧されてしまう。
いや、見た目で人を判断するのは良くないことだ。こうしてちゃんと部活には参加しているのだから。手元の龍之介の作品を見て、胡桃は自分の浅慮な考えを否定する。拙いながらも、時間をかけたことが伝わってくる良い作品だ。
別に揉めごとを起こすこともないし、誰かに目くじらを立てることもない。龍之介が見た目通りの怖い先輩でないことは、部員の全員が分かっている。
だからこそ、もう少し仲良くなれたらとも思う。
三年の龍之介は秋口に行われる文化祭の出し物を最後に、部活動を引退する。出来れば、彼には美術部に入って良かったと思いながら引退をしてほしい。
送別会を開いたら、龍之介は来てくれるだろうか。
……絶対に嫌がるだろうなぁ。
当たり前にそう感じた。長いこと同じ部活の日々を過ごしているのだから、部員の性格はある程度分かっているつもりだ。もしかしたら、意外な一面とかあったりするのかもしれないけど。
実はとても紳士的だったり、はたまた、傷付きやすくて案外涙もろいかもしれない。想像してみて、失礼だと分かりながらもクスッと笑みが漏れる。
「ん? 誰かバケツ片付け忘れてる……」
バケツと言ったが、正確には筆を洗うための筆洗器だ。どうやら、結局胡桃も三人の後を追って洗い場に行く必要がありそうだ。
何かの拍子で零しても面倒だし、先に片付けてしまおう。
筆洗器の中の水は、色々な絵具が溶けて混ざり合い、灰褐色に染まっていた。刺さったままの筆を持ち上げると、底に溜まった泥のような絵具が姿を見せる。
透明だったものに赤色が滲み、青色が混ざり、緑色が包み込む。
どうして一色だと綺麗なのに、混ざり合い過ぎるとこんなにも汚い色になってしまうのだろう。
ふと、くだらない疑問が胡桃の頭の中に浮かんだ。
バケツの中をかき混ぜてしまうのが何だか惜しくて、胡桃はしばらくその様子を眺めて待つ。本当はコンクールの〆切が近く、悠長にしている暇はないのだけど、どうにも綺麗なものを汚すことには抵抗がある。
透明は、きっと一番綺麗な色だ。どんな色にも染まることが出来て、どんな色も透明にはなれないのだから。白よりももっと混じり気のない、完璧な色。
でも、透明って色とは言わないような……。
「――柳さん、手が止まっていますよ」
意識の横っ面を叩く物腰柔らかい男性の声に、胡桃は我に返る。と同時に毛先が深く水中を突き刺し、一層濃い赤色が濁って広がった。あーあ、と心の中で独り言ちる。
顔を上げると、教壇の上でこちらを見遣る顧問の横渕先生と目が合った。男性にしてはぱっちりとした大きな瞳が、黒縁の眼鏡の奥から不思議そうに胡桃を捉える。
「何か行き詰まりましたか?」
「い、いえ、大丈夫です」
夏休みとはいえ、部活の時間に呆けるなんて良くない。美術部の部長としてあるまじき行為だ。
平筆を水中で左右に揺らしながら、胡桃は横渕先生から眼前の水彩紙へと視線を戻す。
紙一面に広がる荒野には、燦々と降り注ぐ陽射しを浴びて、眠たそうに目を細める狼がいた。最初に暖色の下地を塗ってから描き始めると、柔らかな雰囲気を出せると部員の織音に言われて試してみたけれど、確かに彼女の言う通り、絵全体に暖かさが満ち溢れている気がする。後は仕上げに細かいところを手直しすれば、どうにか期日内に完成まで漕ぎ着けそうだった。
織音のおかげで、水彩画が苦手な胡桃にとってはいつも以上の出来栄えだ。まだ途中ではあるが、横渕先生からもこれならコンクールで入賞できるとお墨付きももらえた。
しかし、この美術部には胡桃よりも優れた作品を生み出す人物がいる。その一人が、胡桃にアドバイスをくれた染井織音だ。
二つ離れた机上に置かれる彼女の完成作品を見れば、否が応でも差を感じてしまう。
上手く言い表せないけれど、自分の作品が〝絵〟だとしたら、織音の作品は〝絵画〟だ。悔しいなんて微塵も感じないし、そんな風に考えることすらおこがましいと思う。
しかも、今回はたまたまいい出来栄えだった胡桃とは違い、織音は毎回胡桃が思わず唸ってしまうくらい作品のクオリティが高いのだから、同じ土俵に立っていること自体が、どこか申し訳なさを覚える。
そんな彼女は、一足先に同じく作品を完成させた男子部員――天音凪と、窓際でいつもの如く会話に花を咲かせていた。互いに中学校からの親友と公言しているだけある。本当にいつ見ても、二人は楽しそうに話している。
親友と呼べる深い交友関係を持ったことのない胡桃からすれば、ちょっとだけ――いや、とても羨ましい。
胡桃の視線に気が付いたのか、織音がチラッとこちらを見る。綺麗に整えられた眉と、凛々しさを感じさせる鋭い目。レイヤースタイルのウルフカットの黒髪が僅かに揺れ、射し込む夏の陽射しを首元の黒いチョーカーの金具が反射して光沢を放つ。
織音に見つめられると、同じ女性の胡桃ですら、その格好の良さにどぎまぎしそうになる。身長も高くて、すらっと長い脚も含め、胡桃は織音に密かな憧れを感じざるを得ない。何の特徴もない自分とは大違いだ。
「胡桃ー作品、完成した? おっ、チョーいい感じじゃん!」
側に寄ってきた織音が、まじまじと胡桃の作品を覗き込む。
「うん、あとちょっとで完成。染井さんのアドバイスのおかげで、とてもいい作品になったよ」
「えー、でもこの狼の毛並みの質感とか、あたしでも思い付かないわぁ。水彩なのにふさふさしてそうでエグい。ほら、凪も見てよ」
織音が遠巻きにこちらを眺めていた凪を手招く。そこでようやく、凪は遠慮しがちに席を立った。
「こ、こことか、とても綺麗な発色だと思うよ」
凪の真っ白な腕が胡桃の前を通り、荒野の隅に描かれた枯草を指さす。
「えっ、凪的にはそこが気になったんだ。着眼点おもしろっ。狼見てあげなって」
織音が可笑しそうに声を上げる。確かに、胡桃としてもまさか枯草の色味を褒められるとは思わなかったので、織音につられて少し声を漏らす。
「ふふっ、ありがとう凪くん」
「も、もちろん、狼もすごく存在感あるし、目を惹くように描けてるよ。あ、えっと、本当に……」
赤面しながら慌てて言葉を繋げる凪に、胡桃は緩やかに首肯する。
「大丈夫だよ、凪くん。些細なところを褒めてくれるのも、私はとても嬉しいから。そういえば、凪くんも今回の作品は葉っぱのところをこだわって描いてたもんね。私はあんなに色鮮やかには描けないから枯草にしちゃった」
「あっ、うん……。納得がいくようにしたくて、別紙で練習してから描いたから」
「えー、そこまでしたの? 努力家だなぁ。今度、草仲間として上手な描き方教えてよ」
織音が「草仲間て」とまた愉快に笑う。
「でも実際、凪の今回の作品は本当によく描けてるとあたしも思うよ」
織音は自分の作品と凪の作品を並べ、満足げに頷く。
二人の作品はやっぱり、胡桃では足元にも及ばなそうだった。織音だけじゃなく、凪も彼女に負けず劣らずの作品を毎回完成させる。だから、今回も例に及ばず両者の作品は甲乙つけがたい。コンクールに出す以上、優劣はついてしまうのだろうけど、胡桃が審査員ならばどちらも一番いい賞をあげたいくらいだ。
三人の会話を遮るように、手を叩く軽快な音が美術室に響いた。その音で、胡桃は自然とスマホで時刻を確認する。部活の終わり時に、いつも横渕先生が行う癖だったからだ。
「さて、今日の部活は少し早いですが、これで終了にしましょう。最近、学校近辺で虐殺された動物の死体が見つかっていて物騒ですからね。極力、一人では帰らないように。では、片付けをしてくださいね」
そう言い残し、横渕先生は美術室を出た。相変わらず、生徒と必要以上に関わらない人だ。物腰柔らかな雰囲気と性格がちぐはぐに思える。
「胡桃先輩、パレットは僕が一緒に洗っておきますね」
織音と凪が胡桃の元を離れる最中、声をかけてきた人物は、この美術部唯一の一年生である星屋燿だった。
色白で鼻が高く、唇が薄い。いわゆる塩顔男子というやつだ。手入れを欠かさないらしい髪に、皺のない白シャツ。一学年の証の深緑色のネクタイすら、まるで新品のように見える。
全体的に小綺麗かつ清潔感のある身なりで、彼自身は爽やかで空気が読めるし、人懐っこい。夏が似合いそうな人物だなと胡桃は思う。実際、学年が違うにもかかわらず、燿の話は二年の胡桃も、部活以外の学校生活で度々耳にしていた。
一年にイケメンが入って来た、みたいな燿の容姿を褒めるものがほとんどだったけど。
「ありがとう、燿くん。でも、両手埋まってるけど持っていける?」
「大丈夫ですよ。胡桃先輩は活動日誌書かないといけないですし、僕に任せてください」
「そう? じゃあ、お願いしようかな」
部長である胡桃の仕事は多い。まず、夏休み期間中は部活動の内容を日誌に書いて、学校側に提出しなければいけない。これは各部活の部長の仕事だ。それに加え、美術室の施錠、顧問への鍵の返却までが、部活終わりの胡桃の一連の仕事になる。
「そうだぞー。今日は燿のコンクール入賞のお祝いで、みんなでご飯に行くんだから。胡桃にはさっさとやることやってもらわないと」
そう言い、織音が胡桃のパレットを燿から奪い取る。
「あっ、僕がやろうと思っていたのに。わざわざ、染井先輩が手を煩わせる必要ないですよ」
そう言いつつも、燿は織音からパレットを取り返そうとはしなかった。人の厚意をちゃんと受け取れるのも彼のいいところだ。
「あたし、もう自分の片付け終わってるし。なら、あたしが胡桃の分の片付けをやった方が早いっしょ」
織音と同じく手伝いに来てくれた凪も含めて、和気藹々と洗い場に向かう三人。中学生の時に遭ったという事故の後遺症で歩くのが遅い燿のために、織音と凪がいつもより緩慢に歩く後ろ姿を眺め、胡桃は小さく相好を崩す。
学年関係なく仲がいいし、変ないざこざや喧嘩は一度も起きたことがない。勉強の時間をつくりたくて、比較的活動が少ない美術部に入部したが、今では胡桃もすっかり居心地の良さを感じていた。
実際には部員が少なく、活動実績のために夏休みもこうして部活をすることになっているのだが、それはそれで、何だか青春しているなと思えて悪くない。家で閉じこもって勉強しているよりは何倍もマシだ。
しかし、そんな気心の知れた部員たちの中にも、輪から外れている人物がいる。
後方から、スマホの着信音が鳴り響く。振り向けば、いつもの定位置である美術室の隅の席を陣取っていた三年生の渡会龍之介が、スマホの画面を眺めて渋い顔を浮かべていた。
マナーモード、と注意したい気持ちを呑み込む。今は先生もいないのだし、あまりうるさく言う必要もないだろう。優等生と周りから言われる胡桃だが、そこら辺の融通はわきまえている。
「龍之介先輩、電話出ないんですか?」
胡桃の言葉で弾かれたように顔を上げる龍之介。いつも通りの目つきの悪さで胡桃を見据える龍之介の顔からは、若干の戸惑いと焦りが見て取れた。
胡桃はそんな龍之介の珍しい顔色に首を傾げる。
「……帰る」
着信を切るわけでもなく、一言そう呟いて龍之介は席を立った。高い身長に威圧感のある風貌。美術部員とは思えない鍛えられた筋肉質な身体。
龍之介は雑にえんじ色のネクタイを緩め、胡桃に自らの作品を押し付けるように渡す。
「えっ、燿くんの祝賀会は行かないんですか?」
「あ? 行かねーよ。俺、用事あるし。お疲れ、部長さん」
龍之介が教室から出てもなお、廊下から聞こえてきていた着信音が不意に消える。きっと、龍之介が着信を切ったのか、電話に応答したのだろう。
それなら美術室で出てもいいだろうに。いつも通り、何を考えているのか良く分からない人だ。あの体格でぶっきらぼうに接されると、ちょっとだけ気圧されてしまう。
いや、見た目で人を判断するのは良くないことだ。こうしてちゃんと部活には参加しているのだから。手元の龍之介の作品を見て、胡桃は自分の浅慮な考えを否定する。拙いながらも、時間をかけたことが伝わってくる良い作品だ。
別に揉めごとを起こすこともないし、誰かに目くじらを立てることもない。龍之介が見た目通りの怖い先輩でないことは、部員の全員が分かっている。
だからこそ、もう少し仲良くなれたらとも思う。
三年の龍之介は秋口に行われる文化祭の出し物を最後に、部活動を引退する。出来れば、彼には美術部に入って良かったと思いながら引退をしてほしい。
送別会を開いたら、龍之介は来てくれるだろうか。
……絶対に嫌がるだろうなぁ。
当たり前にそう感じた。長いこと同じ部活の日々を過ごしているのだから、部員の性格はある程度分かっているつもりだ。もしかしたら、意外な一面とかあったりするのかもしれないけど。
実はとても紳士的だったり、はたまた、傷付きやすくて案外涙もろいかもしれない。想像してみて、失礼だと分かりながらもクスッと笑みが漏れる。
「ん? 誰かバケツ片付け忘れてる……」
バケツと言ったが、正確には筆を洗うための筆洗器だ。どうやら、結局胡桃も三人の後を追って洗い場に行く必要がありそうだ。
何かの拍子で零しても面倒だし、先に片付けてしまおう。
筆洗器の中の水は、色々な絵具が溶けて混ざり合い、灰褐色に染まっていた。刺さったままの筆を持ち上げると、底に溜まった泥のような絵具が姿を見せる。
透明だったものに赤色が滲み、青色が混ざり、緑色が包み込む。
どうして一色だと綺麗なのに、混ざり合い過ぎるとこんなにも汚い色になってしまうのだろう。
ふと、くだらない疑問が胡桃の頭の中に浮かんだ。



