燿の声には、僅かな悲しさが孕んでいた。きっと、燿が一番本音をぶつけたいのは龍之介のはずだ。だから、胡桃の提案に乗ると決意した燿からすれば、龍之介の行動は受け入れがたいものだったのだろう。
「何を言われても、俺はお前らに――燿だけには話さねぇ」
そう告げ、龍之介は美術室を出る。その背を追いかけるように、燿と胡桃は廊下に飛び出した。
「待って!」
胡桃の懇願も虚しく、龍之介の姿が遠ざかっていく。走れば追い付けたけど、足を引きずる燿を追い越すことを、胡桃は躊躇ってしまった。
「逃げるな! ふざけないでくださいよ……。これ以上、僕の理想から遠ざかるな!」
燿の悲痛な叫びだった。
龍之介が一瞬、動きを止める。それでも、龍之介が振り返ることはなかった。
昔からどうにも花の匂いは苦手だ。
「すんません。見舞い用の花、包んでください」
店内にいた店員は、龍之介の顔を見て表情を明るくした。
「いつもありがとうございます。すぐにお包みしますので、少々お待ちくださいね」
「うす……」
待ち時間はいつも店内をぼんやりと眺めている。外で待つのは違う気がしたし、初めて来た時にいた先客の真似をしているだけだ。
正直、花には一切興味がない。店内の色とりどりの花を見ても、名前が分かるものは向日葵くらいだ。だから、自然と向日葵の傍が落ち着く。
店員は龍之介のことをよく見ているようで、いつも向日葵を眺めているからと、三回目の来店の時から毎回向日葵も包んでくれるようになった。別に向日葵が好きかと言われるとそうでもないので、反応に困る。
「あー、そうだ。入れてほしい花があるんすけど。えっと、何だったかな……えき、なんちゃらみたいな」
燿のスマホ――と言っても、中身は龍之介のものを取り出し、思い出す。そういえば、昨日衝動的にメモ帳を初期化してしまったんだった。花の名前のメモもそこにあったはずだ。
またいつ何が起こるか分からないからと危惧しての初期化だったが、今思えば自虐じみた行為だ。
自作の小説が全員にバレた時、冷静さを装ってはいたが、内心はめちゃくちゃ恥ずかしかった。嫌な汗は背中を垂れるし、口の中は乾いて仕方がなかった。
織音と胡桃はおかしなことじゃないと言ってくれたが、それも体裁的な言葉だったかもしれない。そう思うと、帰ってからすぐにメモ帳ごと消してしまうのを躊躇うこともなかった。
気取っているわけじゃないが、醜態を晒すのは避けたいと常々思う。ありのままで生きていたら、何かあった時に傷付くし、誰かを傷付ける。
「もしかして、エキナセアですか?」
店員がはっとしたように花の名前を挙げる。
「あぁ、そんな感じだったかもっす」
正直、ピンとは来なかった。ここ数日、色々なことがあり過ぎて、些細な会話の記憶が曖昧だ。
「エキナセアは夏のお花で、今の時期はとても人気なんですよ。ほら、可愛いでしょ?」
店員が持ってきたエキナセアという花は、赤紫色の細い花弁を下向きに垂らし、中央のぼつぼつとした花の芯が特徴的なものだ。
そこらの花壇に生えていそうだな、と悪びれもなく思った。良く言えば馴染み深い、悪く言えばありきたりな花だ。
「エキナセアは八月二十日の誕生花でしたね。もしかして、ご存じでした?」
「いえ、全然……。見舞い先の人が好きらしくて」
もしかしたら、あの人はエキナセアの誕生花の日付を知っていたのかもしれない。
花屋を後にして、その足で総合病院へと向かう。やけに明るい院内に入った瞬間、病院特有のアルコール臭が鼻を衝き、まだ奥の方で微かに残っていた花の香りをかき消した。
三階の左端の病室をノックする。ややあって、扉の向こうから「どうぞ」という声が聞こえてきたので、特に何を言うでもなく扉を開ける。
「いらっしゃい、龍之介くん」
日当たりのいい窓際のベッドで龍之介を出迎えたのは、高齢の男性だった。彼はくぼんだ目で龍之介を見据え、皺だらけの細い腕を軽く上げる。龍之介が赴いた時に挨拶と共に必ず取る仕草だ。しかし、龍之介の意識はギブスが巻かれた男性のもう片方の腕に吸い寄せられる。
左腕と左膝蓋骨の骨折。高齢で治りにくいということもあり、完治には数か月程かかるらしい。龍之介がこの男性に負わせてしまった大怪我だ。
「……こんちは、村田さん」
入口で突っ立っていても仕方がないので、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「何度も来てもらってありがとうね」
村田さんは嬉しそうに顔を綻ばせ、龍之介に頭を下げる。これもいつものこと。だから、その度に龍之介は胸をナイフで抉られるような痛みに苛まれる。村田さんが入院している原因は、全て龍之介にあるのだから。
「いえ、当然っす……」
それ以上の言葉が出てこない龍之介に、村田さんはいつも通り色々な話をしてくれる。話題の切り出しが出来ない龍之介にとっては、とても助かることだった。
村田さんは一言で言えば、とても気が利く人だ。
龍之介と村田さんは七十近く歳が離れているのに、会話で困ることはほとんどない。きっと、最大限、年下の龍之介の価値観に合わせて話をしようと努めてくれているのだと思う。自分語りにならず、相手に寄り添う。そういう面では、村田さんは少しだけ昔の燿と似ているような気がする。
龍之介は相手に合わせて会話をするなんて器用なことが出来ないので、尊敬に値するのだ。
「いつも思っていたけれど、夏休みだろうに学校に行っているのかい?」
と、しかし今回に限っては気まずい話題を出される。
「休みでも、部活はあるんで」
「なるほど、部活かぁ。僕は小さい頃から身体が弱くてね。友達も少なかったから、そういう経験をしたことがないんだ。部活は楽しいかい?」
「……はい、まあ、それなりに」
嘘、とまでは言えない歯切れの悪い返事しか出来なかった。
今が少し特殊な状況なだけだ。そう自分に言い聞かせ、ふと龍之介は言葉に詰まった。
俺が燿の前で、何かを楽しむなんてあってはならないことなのに。
「そうだ、少しだけ退院が延びてしまってね。龍之介くんには伝えておこうと思って」
ずくんと胸が痛む。
「すんません……」
村田さんは首を傾げる。
「何を謝っているんだい?」
「だって、俺のせいで……」
どうしてか、村田さんは柔らかな笑みを浮かべた。窓際のベッドで夏の陽射しを全身に浴びた彼は、とても眩しくて、明るいところを避けるように座った龍之介には直視が出来そうもない。
「僕はね、龍之介くんともっとこうしてお話が出来ることを喜んでいるんだよ。あっ、でも、学校も始まるだろうし、本当に無理して来ては駄目だよ?」
やめてほしかった。そうやってまた、龍之介は罰を受けることを許されない。
優しくされたって、辛いだけなのに。
燿も、村田さんも、どうして俺のことを責めないのだろう。後から恨むくらいなら、最初から優しくなんてしないでほしい。
「俺は村田さんを怪我させた奴ですよ。本当なら、訴えられてもおかしくないのに。こんなの、変っすよ……」
警察も、今回の件で龍之介が何かの罪に問われることはないと話していた。
確かに龍之介は村田さんを怪我させた。それも入院する程の大怪我だ。それなのに、村田さんも、法律も、龍之介を裁いちゃくれない。
じゃあ、俺はどこで誰に贖罪をすればいい。
尽きることのない罪悪感を抱えて、一生龍之介は生きていかなければいけない。そんな残酷な運命を受け入れろと、みんなから言われているみたいだった。
大きく膨らんだ罪の意識に、龍之介はあの日のことを思い出す。
「何を言われても、俺はお前らに――燿だけには話さねぇ」
そう告げ、龍之介は美術室を出る。その背を追いかけるように、燿と胡桃は廊下に飛び出した。
「待って!」
胡桃の懇願も虚しく、龍之介の姿が遠ざかっていく。走れば追い付けたけど、足を引きずる燿を追い越すことを、胡桃は躊躇ってしまった。
「逃げるな! ふざけないでくださいよ……。これ以上、僕の理想から遠ざかるな!」
燿の悲痛な叫びだった。
龍之介が一瞬、動きを止める。それでも、龍之介が振り返ることはなかった。
昔からどうにも花の匂いは苦手だ。
「すんません。見舞い用の花、包んでください」
店内にいた店員は、龍之介の顔を見て表情を明るくした。
「いつもありがとうございます。すぐにお包みしますので、少々お待ちくださいね」
「うす……」
待ち時間はいつも店内をぼんやりと眺めている。外で待つのは違う気がしたし、初めて来た時にいた先客の真似をしているだけだ。
正直、花には一切興味がない。店内の色とりどりの花を見ても、名前が分かるものは向日葵くらいだ。だから、自然と向日葵の傍が落ち着く。
店員は龍之介のことをよく見ているようで、いつも向日葵を眺めているからと、三回目の来店の時から毎回向日葵も包んでくれるようになった。別に向日葵が好きかと言われるとそうでもないので、反応に困る。
「あー、そうだ。入れてほしい花があるんすけど。えっと、何だったかな……えき、なんちゃらみたいな」
燿のスマホ――と言っても、中身は龍之介のものを取り出し、思い出す。そういえば、昨日衝動的にメモ帳を初期化してしまったんだった。花の名前のメモもそこにあったはずだ。
またいつ何が起こるか分からないからと危惧しての初期化だったが、今思えば自虐じみた行為だ。
自作の小説が全員にバレた時、冷静さを装ってはいたが、内心はめちゃくちゃ恥ずかしかった。嫌な汗は背中を垂れるし、口の中は乾いて仕方がなかった。
織音と胡桃はおかしなことじゃないと言ってくれたが、それも体裁的な言葉だったかもしれない。そう思うと、帰ってからすぐにメモ帳ごと消してしまうのを躊躇うこともなかった。
気取っているわけじゃないが、醜態を晒すのは避けたいと常々思う。ありのままで生きていたら、何かあった時に傷付くし、誰かを傷付ける。
「もしかして、エキナセアですか?」
店員がはっとしたように花の名前を挙げる。
「あぁ、そんな感じだったかもっす」
正直、ピンとは来なかった。ここ数日、色々なことがあり過ぎて、些細な会話の記憶が曖昧だ。
「エキナセアは夏のお花で、今の時期はとても人気なんですよ。ほら、可愛いでしょ?」
店員が持ってきたエキナセアという花は、赤紫色の細い花弁を下向きに垂らし、中央のぼつぼつとした花の芯が特徴的なものだ。
そこらの花壇に生えていそうだな、と悪びれもなく思った。良く言えば馴染み深い、悪く言えばありきたりな花だ。
「エキナセアは八月二十日の誕生花でしたね。もしかして、ご存じでした?」
「いえ、全然……。見舞い先の人が好きらしくて」
もしかしたら、あの人はエキナセアの誕生花の日付を知っていたのかもしれない。
花屋を後にして、その足で総合病院へと向かう。やけに明るい院内に入った瞬間、病院特有のアルコール臭が鼻を衝き、まだ奥の方で微かに残っていた花の香りをかき消した。
三階の左端の病室をノックする。ややあって、扉の向こうから「どうぞ」という声が聞こえてきたので、特に何を言うでもなく扉を開ける。
「いらっしゃい、龍之介くん」
日当たりのいい窓際のベッドで龍之介を出迎えたのは、高齢の男性だった。彼はくぼんだ目で龍之介を見据え、皺だらけの細い腕を軽く上げる。龍之介が赴いた時に挨拶と共に必ず取る仕草だ。しかし、龍之介の意識はギブスが巻かれた男性のもう片方の腕に吸い寄せられる。
左腕と左膝蓋骨の骨折。高齢で治りにくいということもあり、完治には数か月程かかるらしい。龍之介がこの男性に負わせてしまった大怪我だ。
「……こんちは、村田さん」
入口で突っ立っていても仕方がないので、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「何度も来てもらってありがとうね」
村田さんは嬉しそうに顔を綻ばせ、龍之介に頭を下げる。これもいつものこと。だから、その度に龍之介は胸をナイフで抉られるような痛みに苛まれる。村田さんが入院している原因は、全て龍之介にあるのだから。
「いえ、当然っす……」
それ以上の言葉が出てこない龍之介に、村田さんはいつも通り色々な話をしてくれる。話題の切り出しが出来ない龍之介にとっては、とても助かることだった。
村田さんは一言で言えば、とても気が利く人だ。
龍之介と村田さんは七十近く歳が離れているのに、会話で困ることはほとんどない。きっと、最大限、年下の龍之介の価値観に合わせて話をしようと努めてくれているのだと思う。自分語りにならず、相手に寄り添う。そういう面では、村田さんは少しだけ昔の燿と似ているような気がする。
龍之介は相手に合わせて会話をするなんて器用なことが出来ないので、尊敬に値するのだ。
「いつも思っていたけれど、夏休みだろうに学校に行っているのかい?」
と、しかし今回に限っては気まずい話題を出される。
「休みでも、部活はあるんで」
「なるほど、部活かぁ。僕は小さい頃から身体が弱くてね。友達も少なかったから、そういう経験をしたことがないんだ。部活は楽しいかい?」
「……はい、まあ、それなりに」
嘘、とまでは言えない歯切れの悪い返事しか出来なかった。
今が少し特殊な状況なだけだ。そう自分に言い聞かせ、ふと龍之介は言葉に詰まった。
俺が燿の前で、何かを楽しむなんてあってはならないことなのに。
「そうだ、少しだけ退院が延びてしまってね。龍之介くんには伝えておこうと思って」
ずくんと胸が痛む。
「すんません……」
村田さんは首を傾げる。
「何を謝っているんだい?」
「だって、俺のせいで……」
どうしてか、村田さんは柔らかな笑みを浮かべた。窓際のベッドで夏の陽射しを全身に浴びた彼は、とても眩しくて、明るいところを避けるように座った龍之介には直視が出来そうもない。
「僕はね、龍之介くんともっとこうしてお話が出来ることを喜んでいるんだよ。あっ、でも、学校も始まるだろうし、本当に無理して来ては駄目だよ?」
やめてほしかった。そうやってまた、龍之介は罰を受けることを許されない。
優しくされたって、辛いだけなのに。
燿も、村田さんも、どうして俺のことを責めないのだろう。後から恨むくらいなら、最初から優しくなんてしないでほしい。
「俺は村田さんを怪我させた奴ですよ。本当なら、訴えられてもおかしくないのに。こんなの、変っすよ……」
警察も、今回の件で龍之介が何かの罪に問われることはないと話していた。
確かに龍之介は村田さんを怪我させた。それも入院する程の大怪我だ。それなのに、村田さんも、法律も、龍之介を裁いちゃくれない。
じゃあ、俺はどこで誰に贖罪をすればいい。
尽きることのない罪悪感を抱えて、一生龍之介は生きていかなければいけない。そんな残酷な運命を受け入れろと、みんなから言われているみたいだった。
大きく膨らんだ罪の意識に、龍之介はあの日のことを思い出す。



