前日の気鬱さを引きずりながら、学校へと登校する。
早くから活動している運動部の活発な光景を横目に、朝からため息が零れる。昨日までと何ら変わらない日常なのに、どうしてか今日はやけに彼らがきらきらと輝いて見える。
まるで、自分がその輝きの輪から踏み出して外れてしまったような感覚に陥った。先日までの自分は、彼らと同じように青い輝きを放っていたのだろうか。
どんな顔をしてみんなと会えばいいのだろう。そもそも、凪はもう部活に顔を出さないかもしれない。胡桃が凪の立場だったら、間違いなく休むと思う。
今日から、横渕先生はしばらく忙しくて部活に顔を出せないそうなので、数日分の活動内容などを聞き届け、職員室を後にする。こんな状況でも、部長である胡桃には休むという選択肢はなかった。
美術室へ赴くと、活動開始ギリギリの時間になっていたこともあって、胡桃が最後の到着だった。
「みんな、おはよう」
いつも通りの明るい挨拶が出来たと思う。
「あ、胡桃先輩、おはようございます!」
真っ先に返してくれたのは燿だった。不思議なもので、快活なその挨拶は胡桃のよく知る燿だ。そんな彼を見れば、昨日の出来事がやっぱり夢だったんじゃないかと思えてくる。
しかし、胡桃は織音の姿を捉え、その幻想も簡単に崩れ去る。いつも部活が始まる直前まで窓際で凪と話している織音だが、今日は独りでぼんやりと窓の外を眺めていた。
織音は芯が強い人間だ。誰かの影響で自らの行動を変えるなんてことはしない。だから、部活に来ていたことは胡桃の予想通りではあるのだ。しかし、心ここにあらずの彼女の姿を見てしまうと、やっぱり胸が痛む。
龍之介は特に変わった様子はなかった。挨拶を返してくれるわけではないし、すぐに目を逸らされてしまうけれど、一応、いつものように挨拶代わりの目配せをしてくれる。
意外だったのは、凪も部活に参加していたことだった。織音から一番離れた教室の隅の暗い席で、おどおどした面持ちで俯いていた。その様子を思わず少しの間眺めてしまう。
いつも通りの五人が揃ったのに、空気は異質だった。五人の間に会話はなく、気が付けばどこかひんやりとした静寂がすぐに包み込む。
どうしよう。普通に部活を始めるか、とりあえず昨日の続きを話すか、決めていなかった。でも、話すって、何を?
喧嘩はやめて、今まで通り仲良くしよう。そんな幼稚な本音を言えるはずもなかった。そもそも、現状を喧嘩という稚拙で単純な言葉では表せないのだ。
「凪先輩は僕が連れて来ましたよ」
胡桃の心を読むみたいに、燿が言った。
「部活に来ないなら、ストーカーと盗聴のこと、ネットにばら撒いちゃいますよって。朝から大変でしたよ。凪先輩、いくらLINE送っても既読すらつけてくれないんで。あっ、もちろん胡桃先輩のスマホから、染井先輩のスマホに、ですけどね」
涼し気な表情の燿は、まるで世間話のように言った。その手に持った胡桃のスマホに、自然と目が吸い寄せられる。
「凪くん、無理して来なくてもいいんだよ? 気持ちの整理とか、やっぱり時間がかかっちゃうと思うし」
とてもじゃないが、部活が出来る雰囲気ではなかった。横渕先生が部活に顔を出せないで良かったと心底思う。淡泊な態度ではあるが、生徒のことはよく見ている人だ。絶対に何かあったと勘付かれるに決まっている。
「やめろよ」
胡桃に注意を促したのは、ずっと黙っていた龍之介だった。
「変に気を遣われたら、それこそ居づらいだろうが。そんなの優しさなんて言わねぇよ」
龍之介に諫められ、胡桃は確かに、と反省する。今の胡桃の発言は、凪にも、織音にも失礼なものだ。上の空な織音の耳には届いていなさそうだったが、そんなことは関係ない。
「龍之介先輩、いいこと言いますねぇ」
「うるせぇ、燿は黙ってろ」
「せっかく褒めたのに。本当、ひねくれた人ですね」
龍之介に睨まれ、つまらなそうに頬杖をつく燿。
「――私は、音の鳴らない風鈴だ」
唐突に燿が独り言ちる。詩的な言葉に、何かの引用であることは明白だった。
「僕はすごくいい導入だと思うんですよね。爽やかな印象の風鈴と、音が鳴らないっていう歪な雰囲気が真逆な感じで、ぐっと引き込まれますね。ただ、次の一文があんまりなんですよね。『この世界には、音がない』って、いやいや比喩表現じゃなくて、そういう設定なのかよってがっかりでしたわ」
燿は胡桃のスマホを机上に置き、誰に向けてというわけでもなく、饒舌な口ぶりで諳んじるように続ける。
「先を読んでも、オチが分かりやすいのに至るところで矛盾が生じてるし、くっどい比喩表現多くて読みにくいし。他人に読ませるっていうより、自己満足。これじゃ、自慰行為っすよ。――ねっ、龍之介先輩?」
そう言い、燿はポケットから自分のスマホを取り出した。燿がサイドボタンを押すと、黒々とした画面に明かりが点灯する。簡素な背景のホーム画面は、一見面白みに欠けるなとつい思ってしまう。
龍之介の舌打ちが聞こえ、胡桃は察した。燿のスマホの中身は、龍之介のものだ。
やっぱり、時間差で誰かのスマホの中身が入れ替わるという仮説は正しかったらしい。
まだ連鎖が終わらない焦燥を、今回も自分じゃなくて良かったという安堵が上回る。まるで、ロシアンルーレットでもしている気分だ。ただし、その引き金を握っているのは自分じゃない。
今回、燿に銃口を突き付けられたのが、ちょうど荒々しく立ち上がった龍之介だった。
気が付けば、ぼんやりと意識を漂わせていた織音も、ずっと俯いたままの凪も、もちろん胡桃も、全員がそのスマホに意識を吸い寄せられていた。
「……返せよ」
龍之介は燿を見下ろし、低い声と共にスマホに手を伸ばす。
「嫌でーす。これ、僕の端末ですし。龍之介先輩は自分のスマホいじっててくださいよ。あっ、まだ壊れていたんでしたっけ? 大丈夫っすよ、どうせすぐに直りますから」
胡桃のスマホを勝手に持って行ったことを棚に上げ、燿は龍之介を押し退ける。しかし、体格のいい龍之介は強引に燿の腕を掴んだ。
「暴力は駄目ですよ。部活単位での問題になれば、困るのは部長の胡桃先輩っす。胡桃先輩は何も悪くないのに、色んな人に頭下げて。もしかしたら、内申にも響くかもしんないっすよ。胡桃先輩の家、めちゃくちゃ厳しいこと僕たち知ってるじゃないっすか」
「…………」
燿が胡桃を横目で嘲笑う。しかし、胡桃の表情を見て、燿は目をしばたたかせた。
「胡桃先輩、一晩でポーカーフェイスが上手くなりましたね。そんな何でもないような顔して。流石はみんなが認める優等生。演技まですぐに出来ちゃうんだ。いいっすねぇ、エリート家族の子供は」
感心する燿から、龍之介が無理矢理スマホを奪い取る。
「お前、本当に屑野郎だな」
「まあ、小説書いてるくらいしか秘密っぽいのがないつまらない龍之介先輩よりは、随分と性格が悪いかもしれないっすね」
掴まれていた手首を擦り、燿は含みのある笑みを浮かべた。
また龍之介が燿に食ってかかるのかと冷や冷やしたが、龍之介は胸糞悪そうに鼻を鳴らすだけ。一瞬、逡巡する素振りを見せたが、燿の挑発には乗らないと決めたらしい。それが燿の言うように、胡桃の迷惑になるからなのか、単に付き合い切れないからなのかは分からない。
ふと、龍之介と目が合う。彼は睨むように胡桃を見つめ、すぐに目を逸らした。
「別に小説くらい、何でもないでしょ」
ずっと黙っていた織音が二人の間に口を挟む。少し腫れた瞼と憔悴の残り香を漂わせる濁った瞳が、燿を捉える。あんなことがあっても、織音をまとう絶対的な空気は変わらなかった。曇った瞳の奥底で浮かぶ眼光は、燿を黙らせるに足るものだ。
「そうだよ、燿くん。私たちだって、いつも絵を描いたり、何か作品をつくっているでしょ? 小説だって畑が違うだけで同じ創作活動だよ」
実際、胡桃には疑問だった。以前にも、授業中にノートに物語を書いていた人がみんなにからかわれていたが、胡桃には理解できなかった。もちろん、授業中に書いているのは良くないことだが、物語を綴ること自体は面白可笑しく取り上げられることじゃないはずだ。なぜ、絵が上手いと周りから脚光を浴び、文章で物語を紡げばからかわれるのか。その空気そのものが理解しがたいものだ。
人は自分の価値観に合わないことを、すぐに排斥しようとする。それはとてももったいないことだと思う。
「そんなこと分かってますよ。だから、つまらないって言ってるでしょ。自作の小説なんて、盗撮やストーカーに比べたら足元にも及ばない秘密なんすから。そう思わないっすか、凪先輩?」
怖くて、凪の方を向けなかった。
「燿くん、やめよう? やっぱり、こんなの間違ってるよ。落ち着いて話し合おう?」
「悪いことを悪いって言って、何が悪いんすか? 僕は染井先輩に同情してるんすよ。僕が染井先輩の立場だったら、ほんっとうに気持ち悪くて吐き気が止まらないっす。胡桃先輩は染井先輩のこと、可哀想だと思わないんすか?」
「そんなこと……」
にこりと笑みを浮かべる燿に肌が粟立つ。頼むから、胡桃の知る燿の顔でそんなことを言わないでほしい。
「悪いことしたのに、凪先輩が庇われている状況っておかしくないですか? やったことに、その人の性格も、動機も関係ないでしょ。いつまで上っ面の感情で物事判断してるんすか。僕、何か間違ったこと言ってます? 言ってないですよね」
「…………うん、そうだね」
結局、先に折れたのは胡桃だった。
心の奥底では、分かっている。凪のしたことは許されないことで、無意識に彼を庇おうとしている自分は間違っていることに。
もちろん、燿が凪の揚げ足を取ることも間違っているのだけど、それは凪を擁護する理由には全くなっていない。
全部、燿の言う通り。落ち着けと言ったのに、現実を呑み込みたくないあまり、感情に流されていたのは胡桃の方だ。
「龍之介先輩のスマホはまだ駄目なんすよね?」
燿の問いかけに、龍之介は沈黙を貫く。しかし、彼の表情を見るに、まだ壊れたままなのだろう。
今日、燿のスマホの中身が龍之介のものになった。まだ壊れたままのスマホは、凪と龍之介の二台。そして、未だスマホの中身が行方不明なのは胡桃と織音の二人だ。
胡桃には絶対に知られたくない秘密が、スマホの中に眠っている。織音は凪を問い詰める際に、自ら秘密を抱えているような発言をしていた。
足元が崩れて狭まっていくような、そんな感覚がひたひたと静かに、だけど確実に迫ってきている気がした。
「あーあ、じゃあ今日はハズレの日っすね。龍之介先輩のスマホの中身、全然面白いもの入ってなかったですし。写真は撮らない、SNSもやってない。普段、何してるんすか? あっ、そっか、小説書いてるのか」
「……だから、言っただろ。俺はお前と違って、秘密なんてない」
「でも、」
強調するように燿が強めた語気が、自然と沈黙を促す。あれだけ饒舌だった燿が急に黙ると、却って不穏さを感じてしまう。
胡桃は思わず、そっと織音の傍に寄る。
「一つだけ気になることがあるんすよね。履歴にたくさんあった電話番号、あれって何です?」
その発言に、龍之介が息を呑む気配がした。
「電話帳に登録されていない番号なのに、少し前から何度も通話に応答した履歴がある。怪しいっすよねぇ。友達なら、今だとLINEかDiscordで通話するのが普通じゃないっすか。そうでなくとも、知り合いなら電話帳に登録するはず。そんなの気になるに決まっていますよね」
胡桃の傍らで、織音が「確かに」と小さく呟く。
「別に……俺が誰と電話してようが関係ないだろ」
「それを言われたら、何も言い返せないんですけど。まっ、僕はもうネットでその番号を検索して知っちゃってるんですけどね」
燿の発言に、龍之介の目が見開かれる。茫然と立ち尽くす龍之介に、燿の口角が歪に吊り上がる。
「でも、何度も通話している理由とか分からないんで、今からその番号にかけて聞いてみてもいいっすか? いいっすよね!」
燿は胡桃のスマホに手を伸ばす。龍之介にとって燿の行動は予想外だったのだろう。
「や、やめろっ!」
龍之介が立ち上がると同時に、倒れた椅子が床を叩き、けたたましい音を響かせた。
喧噪に包まれる中、龍之介が燿に覆いかぶさるように詰め寄ってスマホを奪い取る。その表情は焦りに満ち、手元のスマホにしか目が行っていなかった。そのせいか、龍之介の身体が燿の座る椅子に勢いよくぶつかり、椅子の脚が僅かに浮いた。
胡桃は一歩も動けないまま、後ろ向きに倒れる燿から思わず顔を逸らす。
激しい騒音が美術室に響き、視界の端で凪の肩が大きく跳ね上がるのが分かった。
恐る恐る目を向ければ、整然と並んでいた机が乱れ、燿が床に叩き付けられるようにしてうずくまっていた。
苦痛に歪む燿の顔に、胡桃の意識は無自覚に彼の左足へと向かう。燿は両手で左足首を抑えていた。相当痛いのだろう。燿の全身がガタガタと震えていた。
一拍遅れて、胡桃は我に返る。
「燿くん、だ、大丈夫!?」
燿に駆け寄るも、どうしていいのか分からなかった。燿の足に触ることも憚られ、ただおろおろと焦ることしか出来ない。
保健室って、夏休みも先生いるんだっけ? そもそも、燿を動かしても大丈夫なのだろうか。それより、まず横渕先生を呼ぶ方が先決? ……いや、横渕先生はしばらく忙しいと言っていたし、でもそんなこと言っていられない状況なのでは……?
結局考えがまとまらず、宙をさまよっていた手が燿の顔のすぐ傍の床にだらりと落ちる。こんな時、要領の悪い自分に心底嫌気がさす。
「……冷やすもの持ってくる」
胡桃の肩越しに覗き込んでいた織音が、一言告げて足早に美術室を飛び出す。
「だ、大丈夫っすよ。ちょっと痛むだけでよくあることっす」
額に脂汗を滲ませ、燿はそれでも歪に笑みを浮かべた。故意じゃないにしても、龍之介が燿を手にかけてしまった状況を愉しんでいるように思える。
「嬉しいっすよ。龍之介先輩のこと、もっと嫌いになれて」
聞いたこともない汚い笑い声を鳴らし、燿が龍之介を見上げる。しかし、その声も、彼の視線も、龍之介に届いているかは怪しい。龍之介は狼狽して立ち尽くしていた。息を切らし、焦点が定まっていないのか眼球が忙しなく揺らめく。
普段の龍之介の性格を鑑みれば、違和感のある様相だった。
その時、突然甲高いスマホの着信音が鳴り響いた。聞き覚えのあるメロディーに、遅れて龍之介のスマホの着信音だということに気が付く。
規則的に繰り返す電子音はやけに明るく、場違いな程無神経に空気を震わせる。緊迫した状況を何も知らない外からの介入が、無遠慮に殴り込んで来たみたいだった。
「……出てくださいよ」
ややあって、燿が龍之介に言った。
「…………」
「何してんすか、早く出てくださいよ」
「……うるせぇ」
「出ろって! 僕にちょっとでも罪悪感があるなら、出ろよ!」
怒気を帯びた強い言葉に、びりっと胡桃の鼓膜が震える。
龍之介を睨み付ける燿の瞳には、激しい怒りと憎しみが籠っていた。きっと、それは今、龍之介が燿を押し倒してしまったことに対するものだけじゃないような気がする。もっと根深く、彼の中で長い間ぐつぐつと煮えたぎっていた何かが溢れ出したみたいだった。
今までの人の不幸をからかって悦ぶ姿とは違う、純然たる憎悪だ。
龍之介は一瞬、怯えたように逡巡する。しかし、燿の圧に押されたのか、ゆっくりとスマホを手に取った。
「スピーカーにしてくださいよ」
燿の言葉に、龍之介は沈黙を返す。そして、龍之介は電話に出た。
「…………もしもし」
『あー、もしもし? 渡会龍之介さんの携帯でお間違いありませんか?』
電話口から聞こえてくる声は、見知らぬ男性のものだった。それも、声質的にだいぶ年上のようだ。
『私、沼津警察署の相沢と申します。突然のお電話で失礼いたします。先日の事故の件でお電話させていただきました』
唾を呑み込む音が、自分から鳴っているのだと、胡桃は遅れて気が付く。警察って、あの警察のことだろうか、と床にだらしなく落ちた自分の手を眺めながらわけの分からないことを考える。
「……はい」
『現場検証と被害者の方の証言が整いましたので、お手数ですが、一度署まで足をお運びいただきたいと思いまして――』
ふと、指にぬるっとした感触が伝う。目を落とせば、艶やかな水滴が指先を濡らしていた。
咄嗟に自らの口元を触るが、涎の垂れた形跡はない。
「ははっ……!」
這いつくばる燿が恍惚とした表情を浮かべていた。だらしなく開いた口元から、涎が滴っていた。
早くから活動している運動部の活発な光景を横目に、朝からため息が零れる。昨日までと何ら変わらない日常なのに、どうしてか今日はやけに彼らがきらきらと輝いて見える。
まるで、自分がその輝きの輪から踏み出して外れてしまったような感覚に陥った。先日までの自分は、彼らと同じように青い輝きを放っていたのだろうか。
どんな顔をしてみんなと会えばいいのだろう。そもそも、凪はもう部活に顔を出さないかもしれない。胡桃が凪の立場だったら、間違いなく休むと思う。
今日から、横渕先生はしばらく忙しくて部活に顔を出せないそうなので、数日分の活動内容などを聞き届け、職員室を後にする。こんな状況でも、部長である胡桃には休むという選択肢はなかった。
美術室へ赴くと、活動開始ギリギリの時間になっていたこともあって、胡桃が最後の到着だった。
「みんな、おはよう」
いつも通りの明るい挨拶が出来たと思う。
「あ、胡桃先輩、おはようございます!」
真っ先に返してくれたのは燿だった。不思議なもので、快活なその挨拶は胡桃のよく知る燿だ。そんな彼を見れば、昨日の出来事がやっぱり夢だったんじゃないかと思えてくる。
しかし、胡桃は織音の姿を捉え、その幻想も簡単に崩れ去る。いつも部活が始まる直前まで窓際で凪と話している織音だが、今日は独りでぼんやりと窓の外を眺めていた。
織音は芯が強い人間だ。誰かの影響で自らの行動を変えるなんてことはしない。だから、部活に来ていたことは胡桃の予想通りではあるのだ。しかし、心ここにあらずの彼女の姿を見てしまうと、やっぱり胸が痛む。
龍之介は特に変わった様子はなかった。挨拶を返してくれるわけではないし、すぐに目を逸らされてしまうけれど、一応、いつものように挨拶代わりの目配せをしてくれる。
意外だったのは、凪も部活に参加していたことだった。織音から一番離れた教室の隅の暗い席で、おどおどした面持ちで俯いていた。その様子を思わず少しの間眺めてしまう。
いつも通りの五人が揃ったのに、空気は異質だった。五人の間に会話はなく、気が付けばどこかひんやりとした静寂がすぐに包み込む。
どうしよう。普通に部活を始めるか、とりあえず昨日の続きを話すか、決めていなかった。でも、話すって、何を?
喧嘩はやめて、今まで通り仲良くしよう。そんな幼稚な本音を言えるはずもなかった。そもそも、現状を喧嘩という稚拙で単純な言葉では表せないのだ。
「凪先輩は僕が連れて来ましたよ」
胡桃の心を読むみたいに、燿が言った。
「部活に来ないなら、ストーカーと盗聴のこと、ネットにばら撒いちゃいますよって。朝から大変でしたよ。凪先輩、いくらLINE送っても既読すらつけてくれないんで。あっ、もちろん胡桃先輩のスマホから、染井先輩のスマホに、ですけどね」
涼し気な表情の燿は、まるで世間話のように言った。その手に持った胡桃のスマホに、自然と目が吸い寄せられる。
「凪くん、無理して来なくてもいいんだよ? 気持ちの整理とか、やっぱり時間がかかっちゃうと思うし」
とてもじゃないが、部活が出来る雰囲気ではなかった。横渕先生が部活に顔を出せないで良かったと心底思う。淡泊な態度ではあるが、生徒のことはよく見ている人だ。絶対に何かあったと勘付かれるに決まっている。
「やめろよ」
胡桃に注意を促したのは、ずっと黙っていた龍之介だった。
「変に気を遣われたら、それこそ居づらいだろうが。そんなの優しさなんて言わねぇよ」
龍之介に諫められ、胡桃は確かに、と反省する。今の胡桃の発言は、凪にも、織音にも失礼なものだ。上の空な織音の耳には届いていなさそうだったが、そんなことは関係ない。
「龍之介先輩、いいこと言いますねぇ」
「うるせぇ、燿は黙ってろ」
「せっかく褒めたのに。本当、ひねくれた人ですね」
龍之介に睨まれ、つまらなそうに頬杖をつく燿。
「――私は、音の鳴らない風鈴だ」
唐突に燿が独り言ちる。詩的な言葉に、何かの引用であることは明白だった。
「僕はすごくいい導入だと思うんですよね。爽やかな印象の風鈴と、音が鳴らないっていう歪な雰囲気が真逆な感じで、ぐっと引き込まれますね。ただ、次の一文があんまりなんですよね。『この世界には、音がない』って、いやいや比喩表現じゃなくて、そういう設定なのかよってがっかりでしたわ」
燿は胡桃のスマホを机上に置き、誰に向けてというわけでもなく、饒舌な口ぶりで諳んじるように続ける。
「先を読んでも、オチが分かりやすいのに至るところで矛盾が生じてるし、くっどい比喩表現多くて読みにくいし。他人に読ませるっていうより、自己満足。これじゃ、自慰行為っすよ。――ねっ、龍之介先輩?」
そう言い、燿はポケットから自分のスマホを取り出した。燿がサイドボタンを押すと、黒々とした画面に明かりが点灯する。簡素な背景のホーム画面は、一見面白みに欠けるなとつい思ってしまう。
龍之介の舌打ちが聞こえ、胡桃は察した。燿のスマホの中身は、龍之介のものだ。
やっぱり、時間差で誰かのスマホの中身が入れ替わるという仮説は正しかったらしい。
まだ連鎖が終わらない焦燥を、今回も自分じゃなくて良かったという安堵が上回る。まるで、ロシアンルーレットでもしている気分だ。ただし、その引き金を握っているのは自分じゃない。
今回、燿に銃口を突き付けられたのが、ちょうど荒々しく立ち上がった龍之介だった。
気が付けば、ぼんやりと意識を漂わせていた織音も、ずっと俯いたままの凪も、もちろん胡桃も、全員がそのスマホに意識を吸い寄せられていた。
「……返せよ」
龍之介は燿を見下ろし、低い声と共にスマホに手を伸ばす。
「嫌でーす。これ、僕の端末ですし。龍之介先輩は自分のスマホいじっててくださいよ。あっ、まだ壊れていたんでしたっけ? 大丈夫っすよ、どうせすぐに直りますから」
胡桃のスマホを勝手に持って行ったことを棚に上げ、燿は龍之介を押し退ける。しかし、体格のいい龍之介は強引に燿の腕を掴んだ。
「暴力は駄目ですよ。部活単位での問題になれば、困るのは部長の胡桃先輩っす。胡桃先輩は何も悪くないのに、色んな人に頭下げて。もしかしたら、内申にも響くかもしんないっすよ。胡桃先輩の家、めちゃくちゃ厳しいこと僕たち知ってるじゃないっすか」
「…………」
燿が胡桃を横目で嘲笑う。しかし、胡桃の表情を見て、燿は目をしばたたかせた。
「胡桃先輩、一晩でポーカーフェイスが上手くなりましたね。そんな何でもないような顔して。流石はみんなが認める優等生。演技まですぐに出来ちゃうんだ。いいっすねぇ、エリート家族の子供は」
感心する燿から、龍之介が無理矢理スマホを奪い取る。
「お前、本当に屑野郎だな」
「まあ、小説書いてるくらいしか秘密っぽいのがないつまらない龍之介先輩よりは、随分と性格が悪いかもしれないっすね」
掴まれていた手首を擦り、燿は含みのある笑みを浮かべた。
また龍之介が燿に食ってかかるのかと冷や冷やしたが、龍之介は胸糞悪そうに鼻を鳴らすだけ。一瞬、逡巡する素振りを見せたが、燿の挑発には乗らないと決めたらしい。それが燿の言うように、胡桃の迷惑になるからなのか、単に付き合い切れないからなのかは分からない。
ふと、龍之介と目が合う。彼は睨むように胡桃を見つめ、すぐに目を逸らした。
「別に小説くらい、何でもないでしょ」
ずっと黙っていた織音が二人の間に口を挟む。少し腫れた瞼と憔悴の残り香を漂わせる濁った瞳が、燿を捉える。あんなことがあっても、織音をまとう絶対的な空気は変わらなかった。曇った瞳の奥底で浮かぶ眼光は、燿を黙らせるに足るものだ。
「そうだよ、燿くん。私たちだって、いつも絵を描いたり、何か作品をつくっているでしょ? 小説だって畑が違うだけで同じ創作活動だよ」
実際、胡桃には疑問だった。以前にも、授業中にノートに物語を書いていた人がみんなにからかわれていたが、胡桃には理解できなかった。もちろん、授業中に書いているのは良くないことだが、物語を綴ること自体は面白可笑しく取り上げられることじゃないはずだ。なぜ、絵が上手いと周りから脚光を浴び、文章で物語を紡げばからかわれるのか。その空気そのものが理解しがたいものだ。
人は自分の価値観に合わないことを、すぐに排斥しようとする。それはとてももったいないことだと思う。
「そんなこと分かってますよ。だから、つまらないって言ってるでしょ。自作の小説なんて、盗撮やストーカーに比べたら足元にも及ばない秘密なんすから。そう思わないっすか、凪先輩?」
怖くて、凪の方を向けなかった。
「燿くん、やめよう? やっぱり、こんなの間違ってるよ。落ち着いて話し合おう?」
「悪いことを悪いって言って、何が悪いんすか? 僕は染井先輩に同情してるんすよ。僕が染井先輩の立場だったら、ほんっとうに気持ち悪くて吐き気が止まらないっす。胡桃先輩は染井先輩のこと、可哀想だと思わないんすか?」
「そんなこと……」
にこりと笑みを浮かべる燿に肌が粟立つ。頼むから、胡桃の知る燿の顔でそんなことを言わないでほしい。
「悪いことしたのに、凪先輩が庇われている状況っておかしくないですか? やったことに、その人の性格も、動機も関係ないでしょ。いつまで上っ面の感情で物事判断してるんすか。僕、何か間違ったこと言ってます? 言ってないですよね」
「…………うん、そうだね」
結局、先に折れたのは胡桃だった。
心の奥底では、分かっている。凪のしたことは許されないことで、無意識に彼を庇おうとしている自分は間違っていることに。
もちろん、燿が凪の揚げ足を取ることも間違っているのだけど、それは凪を擁護する理由には全くなっていない。
全部、燿の言う通り。落ち着けと言ったのに、現実を呑み込みたくないあまり、感情に流されていたのは胡桃の方だ。
「龍之介先輩のスマホはまだ駄目なんすよね?」
燿の問いかけに、龍之介は沈黙を貫く。しかし、彼の表情を見るに、まだ壊れたままなのだろう。
今日、燿のスマホの中身が龍之介のものになった。まだ壊れたままのスマホは、凪と龍之介の二台。そして、未だスマホの中身が行方不明なのは胡桃と織音の二人だ。
胡桃には絶対に知られたくない秘密が、スマホの中に眠っている。織音は凪を問い詰める際に、自ら秘密を抱えているような発言をしていた。
足元が崩れて狭まっていくような、そんな感覚がひたひたと静かに、だけど確実に迫ってきている気がした。
「あーあ、じゃあ今日はハズレの日っすね。龍之介先輩のスマホの中身、全然面白いもの入ってなかったですし。写真は撮らない、SNSもやってない。普段、何してるんすか? あっ、そっか、小説書いてるのか」
「……だから、言っただろ。俺はお前と違って、秘密なんてない」
「でも、」
強調するように燿が強めた語気が、自然と沈黙を促す。あれだけ饒舌だった燿が急に黙ると、却って不穏さを感じてしまう。
胡桃は思わず、そっと織音の傍に寄る。
「一つだけ気になることがあるんすよね。履歴にたくさんあった電話番号、あれって何です?」
その発言に、龍之介が息を呑む気配がした。
「電話帳に登録されていない番号なのに、少し前から何度も通話に応答した履歴がある。怪しいっすよねぇ。友達なら、今だとLINEかDiscordで通話するのが普通じゃないっすか。そうでなくとも、知り合いなら電話帳に登録するはず。そんなの気になるに決まっていますよね」
胡桃の傍らで、織音が「確かに」と小さく呟く。
「別に……俺が誰と電話してようが関係ないだろ」
「それを言われたら、何も言い返せないんですけど。まっ、僕はもうネットでその番号を検索して知っちゃってるんですけどね」
燿の発言に、龍之介の目が見開かれる。茫然と立ち尽くす龍之介に、燿の口角が歪に吊り上がる。
「でも、何度も通話している理由とか分からないんで、今からその番号にかけて聞いてみてもいいっすか? いいっすよね!」
燿は胡桃のスマホに手を伸ばす。龍之介にとって燿の行動は予想外だったのだろう。
「や、やめろっ!」
龍之介が立ち上がると同時に、倒れた椅子が床を叩き、けたたましい音を響かせた。
喧噪に包まれる中、龍之介が燿に覆いかぶさるように詰め寄ってスマホを奪い取る。その表情は焦りに満ち、手元のスマホにしか目が行っていなかった。そのせいか、龍之介の身体が燿の座る椅子に勢いよくぶつかり、椅子の脚が僅かに浮いた。
胡桃は一歩も動けないまま、後ろ向きに倒れる燿から思わず顔を逸らす。
激しい騒音が美術室に響き、視界の端で凪の肩が大きく跳ね上がるのが分かった。
恐る恐る目を向ければ、整然と並んでいた机が乱れ、燿が床に叩き付けられるようにしてうずくまっていた。
苦痛に歪む燿の顔に、胡桃の意識は無自覚に彼の左足へと向かう。燿は両手で左足首を抑えていた。相当痛いのだろう。燿の全身がガタガタと震えていた。
一拍遅れて、胡桃は我に返る。
「燿くん、だ、大丈夫!?」
燿に駆け寄るも、どうしていいのか分からなかった。燿の足に触ることも憚られ、ただおろおろと焦ることしか出来ない。
保健室って、夏休みも先生いるんだっけ? そもそも、燿を動かしても大丈夫なのだろうか。それより、まず横渕先生を呼ぶ方が先決? ……いや、横渕先生はしばらく忙しいと言っていたし、でもそんなこと言っていられない状況なのでは……?
結局考えがまとまらず、宙をさまよっていた手が燿の顔のすぐ傍の床にだらりと落ちる。こんな時、要領の悪い自分に心底嫌気がさす。
「……冷やすもの持ってくる」
胡桃の肩越しに覗き込んでいた織音が、一言告げて足早に美術室を飛び出す。
「だ、大丈夫っすよ。ちょっと痛むだけでよくあることっす」
額に脂汗を滲ませ、燿はそれでも歪に笑みを浮かべた。故意じゃないにしても、龍之介が燿を手にかけてしまった状況を愉しんでいるように思える。
「嬉しいっすよ。龍之介先輩のこと、もっと嫌いになれて」
聞いたこともない汚い笑い声を鳴らし、燿が龍之介を見上げる。しかし、その声も、彼の視線も、龍之介に届いているかは怪しい。龍之介は狼狽して立ち尽くしていた。息を切らし、焦点が定まっていないのか眼球が忙しなく揺らめく。
普段の龍之介の性格を鑑みれば、違和感のある様相だった。
その時、突然甲高いスマホの着信音が鳴り響いた。聞き覚えのあるメロディーに、遅れて龍之介のスマホの着信音だということに気が付く。
規則的に繰り返す電子音はやけに明るく、場違いな程無神経に空気を震わせる。緊迫した状況を何も知らない外からの介入が、無遠慮に殴り込んで来たみたいだった。
「……出てくださいよ」
ややあって、燿が龍之介に言った。
「…………」
「何してんすか、早く出てくださいよ」
「……うるせぇ」
「出ろって! 僕にちょっとでも罪悪感があるなら、出ろよ!」
怒気を帯びた強い言葉に、びりっと胡桃の鼓膜が震える。
龍之介を睨み付ける燿の瞳には、激しい怒りと憎しみが籠っていた。きっと、それは今、龍之介が燿を押し倒してしまったことに対するものだけじゃないような気がする。もっと根深く、彼の中で長い間ぐつぐつと煮えたぎっていた何かが溢れ出したみたいだった。
今までの人の不幸をからかって悦ぶ姿とは違う、純然たる憎悪だ。
龍之介は一瞬、怯えたように逡巡する。しかし、燿の圧に押されたのか、ゆっくりとスマホを手に取った。
「スピーカーにしてくださいよ」
燿の言葉に、龍之介は沈黙を返す。そして、龍之介は電話に出た。
「…………もしもし」
『あー、もしもし? 渡会龍之介さんの携帯でお間違いありませんか?』
電話口から聞こえてくる声は、見知らぬ男性のものだった。それも、声質的にだいぶ年上のようだ。
『私、沼津警察署の相沢と申します。突然のお電話で失礼いたします。先日の事故の件でお電話させていただきました』
唾を呑み込む音が、自分から鳴っているのだと、胡桃は遅れて気が付く。警察って、あの警察のことだろうか、と床にだらしなく落ちた自分の手を眺めながらわけの分からないことを考える。
「……はい」
『現場検証と被害者の方の証言が整いましたので、お手数ですが、一度署まで足をお運びいただきたいと思いまして――』
ふと、指にぬるっとした感触が伝う。目を落とせば、艶やかな水滴が指先を濡らしていた。
咄嗟に自らの口元を触るが、涎の垂れた形跡はない。
「ははっ……!」
這いつくばる燿が恍惚とした表情を浮かべていた。だらしなく開いた口元から、涎が滴っていた。



