◇
てっきり、織音はいつものように不満をぶちまけて怒鳴り散らかすのだと、胡桃は思っていた。それがたとえ親友の凪を相手にしても、変わらない彼女の姿のはずだった。
しかし、胡桃の予想に反して、美術室を取り巻く空気はやけに冷たく、恐ろしい程静寂に満ちている。
「……凪、説明して?」
何色にも染まらない透明な軌跡を頬に残し、織音は言った。そこには確かに静かな怒りが籠っていたが、それ以上に深い悲しみが滲んでいるように思える。
場違いにも、胡桃は織音に見惚れてしまっていた。それ程までに、今の彼女は美しかった。織音自身がまるで一枚の絵画のようにすら見える。
「……ぁ、」
消え入りそうなか細い声。凪の顔から血の気が引いていた。まるで氷に全身を包まれたようにぎこちない動きで全員を見渡す。額には冷や汗が滲み、唇が微かに震えていた。やがて、視線は逃げるように宙をさまよい、すぐに地面に落ちる。その瞳には後悔と恐怖、それから拭い切れない諦念の色が漂っていた。
「…………ごめんなさい」
長い沈黙の末、凪は小さく呟いた。
その瞬間、糸が切れたように織音が顔をぐしゃりと歪める。全てを受け入れてしまった、そんな表情だった。
美術室に織音の嗚咽が響く。肩を小刻みに震わせ、言葉にならない声が絞り出される。織音の涙は悲しみか、苦しみか、それとも絶望か――胡桃の胸をぎゅう、と締め付けるようにひりつかせた。そんな純粋な感情の塊だった。
胡桃も、龍之介も、口を挟めなかった。燿ですら、ただじっと二人を見守っている。ただただ胸の内で、彼女の涙の重みに心を寄せることしか出来なかった。
「いつから……?」
織音の問いかけに、凪はただ唇を震わせるだけ。恐怖で声が出ない。彼の性格を鑑みれば、当然のことに思える。織音もそれが分かっているから、彼女は震えた声で振り絞るように続ける。
「あたしは……っ! 本当に、親友だって思ってたの!」
強まる語気と滲んだ瞳に散る火の粉に、胡桃は織音の決意を見た。先程までの戸惑いを感じさせないのは、芯の通った強い彼女らしい。
「全部、嘘だったんだね……。結局、凪もみんなと一緒なんだ。今さ、どんな気持ちなの? こんなのあたしがいっちばん嫌いなことだって散々言ったじゃん。……ねえ、答えてよ!」
へたり込む凪を見下ろし、織音は悔しそうに歯を鳴らす。震える拳をぎゅっと握りしめ、必死に何かを堪えているみたいだった。
「ねえ、何とか言ってよ……」
「……ごめんなさい」
凪は何度か繰り返し呟く。
「あんたさ、あたしと喧嘩もしてくれないの? そうやって、いつもみたいに逃げて……逃げて、逃げて、逃げて、逃げて! 結局、あたしに任せるんだ……。出来ないことはやらなくていい、変わらなくていいって言ったけどさ、こんな時くらい……」
続く言葉を詰まらせ、織音はスマホを凪の足元へ投げ捨てた。傷一つない画面に亀裂が走り、暗闇に反射した凪の顔がいくつにも分裂する。
織音は涙を乱暴に拭い、ブレスレットを外して机に置く。それが、胡桃には凪との決別の証に思えた。
「染井先輩、自分のスマホなのに」
織音の粗暴な行動に、燿が慌てて動いた。スマホを拾い上げる際、一瞬凪に目を向ける燿は、どう見てもこの状況を悲しんでいるように見える。その濁りのない瞳を、胡桃はまだ信じたいと思ってしまっている。
「何言ってるの。もうそれはあたしのじゃないじゃん」
織音は吐き捨てるように言った。確かに織音のスマホに、彼女の軌跡は一つたりとも残っていない。あるのは、凪の想いだけだ。
きっと、凪が弁解しないだけで、何かの間違いなのかもしれない。スマホの中身が他人のものになっているなんて状況が、そもそも不可思議な現象なのだから、その中身が本当に入れ替わった人のものじゃないかもしれない。都合よくデータが改ざんされているかもしれない。こんな状況だからこそ、胡桃は苦しい妄想に駆られた。
仕組んだ犯人がいてくれれば、まだマシだったのかもしれない。でも、あのサイトの話を持ってきた織音がこうして被害を受けている時点で、偶然が生んだ事故。きっと全員が被害者なのだ。
「ねえ、ストーカーしてたならさ、全部知ってるんでしょ? ――あたしの秘密も」
織音の静かな声色が、自分に向けられているわけではないのに背筋が震えた。織音を取り巻く空気がやけに息苦しく、傍にいる胡桃に圧迫感を与える。
秘密、という言葉に凪は一瞬肩を震わせて反応を見せた。てっきり、もう何を言っても凪には届いていないものだと思っていたのに、その彼を引き戻すような織音の秘密とは一体何なんだろうか。
「言ってもいいよ。もう黙っている義理なんてないじゃん。それにさ、どうせ近いうちに、また誰かのスマホの中身を知ることになるかもしれないんだもんね。いや、もうあたしの秘密だって、凪以外の誰かが知ってるのかもしれないか……」
織音の発言に、胡桃は呼吸が浅くなる。今後も、日を追うごとに誰かのスマホの中身が入れ替わっていくかもしれないことに、胡桃だけじゃなく、織音も予感めいたものを感じているのかもしれない。
織音は燿と龍之介を順番に見遣る。
無意識に、胡桃はスカートをきつく握りしめていた。胡桃の送ったメッセージに反応したのは織音だけ。でも、織音の言う通り、実は未読無視をしているだけで、もう既にスマホの中身が他人のものになっているのは織音と胡桃だけじゃないかもしれない。
胡桃の隠しておきたい――絶対にバレちゃいけない秘密だって、実は誰かにバレてしまっているのではないか。そう思うと、自然と呼吸が浅くなる。
「な、何を言ってるんですか? たまたま染井先輩のスマホがおかしくなっちゃっただけじゃ……」
「違うよ。あたしだけじゃない。ね、胡桃?」
「えっ……胡桃先輩?」
燿が弾かれたように胡桃へと目を向ける。その視線を胡桃は咄嗟に逸らしてしまった。後ろめたい気持ちと、燿の秘密をここで話すことで今以上の惨状になることを恐れた結果だった。
「本当にそんな話があるのか? 俺のスマホはまだ壊れたままだけど。……燿は?」
龍之介に問われ、燿がスマホを取り出す。そして、画面をタップするも、暗転したままの状態は変わらなかった。龍之介のスマホも同様だ。
凪は……触れないでおいてあげよう。今の彼は放心状態で、もう何を言ってもまともに会話することは難しそうだった。現に、誰も話しかけていないのに、凪はただひたすら謝罪の言葉を虚空に繰り返し続けていた。
「そういえば、胡桃先輩のスマホは染井先輩より先に直ったって」
燿はそれからすぐに眉根を寄せた。訝しむような視線が胡桃に向けられる。
「もしかして、胡桃先輩のスマホも誰かのスマホの中身になっている……とか?」
胡桃は音もなく息を吐き出す。元々、隠すつもりは毛頭なかったのだ。ただし、燿の裏の顔を知ってしまったからといって、みんなの前でバラすつもりではなかった。燿と個人的に話して、彼の本音を聞きたかっただけだ。しかし、この状況ではそれも叶わない。
観念してスマホを取り出す。バックライトによって照らし出された液晶を覗き、燿は僅かに目を見開いた。小さく喉を鳴らし、それでもまだポーカーフェイスを貫く。
「これ、もしかして僕のですか?」
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
目が合った燿の表情が固まる。胡桃の顔から、悟ってしまったらしい。聡い燿のことだ。凪の秘密が暴かれたこの状況で、自分の置かれた立場を理解したのだろう。
織音の扇動があったとはいえ、燿は胡桃のスマホが直っているのを言及したことにより、自分から絞首台へと上がってしまった。自らの首を絞める行為に、燿の顔から色が失われていく。
「み、見たんですか?」
上擦った燿の言葉に、胡桃は曖昧に頷いた。頷くしかなかった。嘘を吐いたって、意味がない。そんな胡桃を見て、燿の口角が歪に持ち上がる。
「ふ、ふふっ……。あーあ、じゃあ仕方ないっすね」
――あぁ、やっと分かった。あなたはそんな風に喋るんだね。
「燿……?」
怪訝そうな面持ちで龍之介が呟く。無理もない。燿のこんな低く、感情のない声の正体を理解しているのは、この場では胡桃だけ。きっと、これだけは燿と十年来の付き合いの龍之介も知らないことだ。
態度が豹変した燿は気怠げに机に腰かけて、不機嫌そうな瞳を胡桃に差し向ける。
「いいですよ、喋っちゃって。ってか、どうせ話すつもりだったんすよね?」
「そ、そんなこと……」
「いやいや、言い訳とかいらないっすから。仕方ないっす。僕、ロック画面以外にパスワードかけてないですし。この状況で胡桃先輩が話さなくても、どうせスマホを見られたら分かっちゃうんすよ、僕のこと」
燿は胡桃のスマホを手に取り、まるで自分の端末かのように慣れた手つきで操作する。そのまま、燿は黙り込んでしまった。どうやら、燿は自分から話すつもりはないらしい。あくまでも、胡桃の口からみんなに伝えろ、という意思表示だ。
織音と龍之介の視線が突き刺さる。二人とも胡桃を待っていた。
どうして人は、他人の秘密を暴きたがるのだろう。
「……ごめんね、燿くん」
「偽善者ぶらないでくださいよ。勝手に覗いたくせに」
スマホに目を向けたまま、燿が言った。
本当に燿の言う通りだ。反論の余地もない。燿は勝手に秘密を知られ、その犯人は胡桃なのだから。覗かれた方は、やっぱりただの被害者でしかない。それがたとえ、誰かを傷付けるような秘密だとしても。
「ごめんなさい」
それでも、胡桃はもう一度燿に謝り、自らが見た内容を語った。燿の裏垢のこと。彼がコンクールの作品を意図的に台なしにしていたこと。
それ以上は、話さなかった。胡桃が見てしまった他の秘密は、ここで織音たちに打ち明ける必要のないものだ。話したところで、それは燿を傷付ける一方的な刃でしかない。
打ち明けている時は、喉に鉛でも詰まっているんじゃないかと思った。
もっと性格が悪かったならば、少しは楽だったんだろうか。他人を陥れることに悦びを感じることが出来るのなら――それこそ、燿のような性格なら、嬉々(きき)として話せたのかな。
少なくとも、胡桃には他人の不幸が蜜の味には到底感じなかった。もっとドロドロとした、喉にへばりつく異物だ。
「何それ……もう勘弁してよ……」
頭を抱える織音。親友と後輩から同時に裏切られた彼女のことを思うと、心底胸が痛む。
その時、突然龍之介が燿の胸ぐらを掴み、乱暴に彼の身体を持ち上げた。
「ちょっと、龍之介先輩!?」
慌てて止めようと龍之介の腕を掴むも、非力な胡桃ではびくともしなかった。
どうしよう。暴力沙汰にでもなったら、大変なことだ。今の胡桃には、燿が外部にこのことを晒さないとは思えなかった。
「殴っちゃ駄目……染井さんも手伝って……!」
胡桃の懇願に、織音は静観したままだった。きっと、普段の織音なら一緒に龍之介を止めてくれていたはずだ。
なぜ?と考えるも、すぐに織音のキャパシティーがとっくに振り切れてしまっているのだと気が付いた。むしろ、織音は龍之介が手を上げるのを待っているようにさえ見える。どうせなら、もう全てめちゃくちゃにしてくれ。そんな雰囲気を漂わせ、その場に立ち尽くしていた。
「な、何をキレてんすか……先輩、いつもそうっすよね。何かあったら、そうやってすぐに高圧的になる」
苦しそうに顔を歪ませた燿は、浮かせた足を僅かに揺らして冷笑を浮かべる。
この期に及んで嘲る燿に、胡桃は微かな憤りを感じた。でも、それ以上に、胡桃の知る燿の姿が、赤の他人に乗っ取られていくように思えて悔しかった。今までの五人の関係に、他人が土足で入り込んだ。そんな言葉に表せない怒りが込み上がる。
龍之介は無言のまま燿を正面から睨み付け、小さく舌打ちをしてから彼を離した。床に崩れ落ちた燿が、咳き込みながら愉しそうに龍之介を見上げる。
「ははっ、やっぱりそうだ。殴る勇気もないくせに、そうやって強がって。一匹狼気取っておいていつも凄んでいるだけで、変わんないっすね、龍之介先輩も。今、すっげぇダサいっすよ」
「……ダセぇのはお前だろ」
「なんすか、そんなにキレて。矛先間違ってますよ。僕のこんなの、凪先輩のストーカーと盗聴に比べたらちっぽけなことじゃないっすか。もう一回言いますよ? ストーカーに! 盗聴! 普通に犯罪じゃないっすか」
燿が凪の肩に腕を回す。
「殴るなら、こっちの最低野郎でしょ。ほら、早く殴ってくださいよ。染井先輩が可哀想じゃないんすか? それともあれですか、自分が被害者じゃないから、凪先輩はどうでもいいんすか?」
開き直った燿は止まらなかった。それどころか、凪の顔を覗き込んだ燿は、ますます生き生きとした表情に染まる。
「ねえ、凪先輩も何とか言ってくださいよ。つまらないなぁ。ストーカーって楽しいんですか? そんなことしても、絶対に染井先輩は自分のものにならないのに。遠くから眺めて、それで満足してたんすね。僕なら、そんなことしないで普通にアタックしますけど。いや、そりゃ、染井先輩がわけ分からないくらい恋愛が嫌いなのは知ってますよ? でも、それって関係ないでしょ。まさか、好きになったのにまだ友達のままいたいからっていう保身ですか? いやいや、それは無理があるでしょ。何も捨てる覚悟がないからストーカーって。凪先輩、本当に玉ついてます?」
凪の頬を軽く小突く燿に、胡桃は耐え切れず口を挟む。
「燿くん、一旦落ち着こう? ねっ、ほら、急なことで言いたくもないこと言っちゃってるだけだよね」
胡桃は自らの言動を心の内で笑ってしまった。
まだ、燿を信じたいとでも言うのだろうか。それはもう優しさなどではなく、浅はかでただ往生際が悪いだけだ。
燿が胡桃をねめつける。
もちろん、燿には胡桃を恨む権利がある。だから、矛先はどうか自分にだけ向けてほしい。他の人を傷付けないでほしい。そう思ってしまうのは、偽善なのだろうか。
「僕は落ち着いていますよ。だって、これが素の自分ですし。むしろ、今までよりも誠実に、嘘を吐かずにみなさんと向き合っているんですけど?」
「そうかもしれないけど……。でも、だからって誰かを傷付けていい理由にはならないよ。私はそんな燿くんを見たくはないから」
「まだそんなこと言うんですか? つくづく、どうしようもないお人よしですね。勝手に騙されておいて、本当の僕が気に入らないからって頭ごなしに否定して理想を押し付ける。今、胡桃先輩がやってることって、僕を傷付けているんですけど?」
反論できなかった。善悪を除けば、燿の言っていることは何一つとして間違っていなかったからだ。
結局、胡桃はいつだって、場を収めるために誰かを無意識に悪者にする方法しか選択できない。いつも、窘めるのではなく、宥めてきたからだ。いつもの燿のように全員を傷付けずに取り持つ術なんて、たとえ嘘を吐こうが出来ないことだった。
「また誰かのスマホが直って、他の人のスマホの中身になるかもしれないんですよね? ははっ、あー楽しみだなぁ。ねえ、胡桃先輩、僕はあなたの本性が一番気になります。きっと、みんなも同じこと思ってますよ。絵に描いたような優等生の化けの皮を剥がしたら、一体何が出てくるんでしょうね」
ほんの一瞬だけ逡巡し、胡桃は告げた。
「……燿くんが喜びそうなものはないよ?」
「あー駄目っすよ。嘘を吐く時は視線を逸らさない、瞬きも意識して抑える。顔や髪を触らない。そうやって手を胸の前で組むのも駄目です。嘘吐きの僕からのアドバイスっす」
顔が熱くなった。胸の前で組んだ手に力が籠る。これでは、自分のスマホの中に見られたくないものが眠っていると自白したようなものだ。凪にポーカーフェイスがどうとか言えたものじゃない。
燿は胡桃のスマホを自分のポケットにしまい、席を立つ。
「それじゃ、今日は帰ります。明日もちゃんと部活は来ますね。僕、人の不幸って大好きなんで。染井先輩の秘密も、龍之介先輩の秘密も、楽しみにしてますよ」
美術室を出る燿に、誰も言葉を返せなかった。それは結局、みんな何かしらの秘密を抱えていることの裏付けだった。
てっきり、織音はいつものように不満をぶちまけて怒鳴り散らかすのだと、胡桃は思っていた。それがたとえ親友の凪を相手にしても、変わらない彼女の姿のはずだった。
しかし、胡桃の予想に反して、美術室を取り巻く空気はやけに冷たく、恐ろしい程静寂に満ちている。
「……凪、説明して?」
何色にも染まらない透明な軌跡を頬に残し、織音は言った。そこには確かに静かな怒りが籠っていたが、それ以上に深い悲しみが滲んでいるように思える。
場違いにも、胡桃は織音に見惚れてしまっていた。それ程までに、今の彼女は美しかった。織音自身がまるで一枚の絵画のようにすら見える。
「……ぁ、」
消え入りそうなか細い声。凪の顔から血の気が引いていた。まるで氷に全身を包まれたようにぎこちない動きで全員を見渡す。額には冷や汗が滲み、唇が微かに震えていた。やがて、視線は逃げるように宙をさまよい、すぐに地面に落ちる。その瞳には後悔と恐怖、それから拭い切れない諦念の色が漂っていた。
「…………ごめんなさい」
長い沈黙の末、凪は小さく呟いた。
その瞬間、糸が切れたように織音が顔をぐしゃりと歪める。全てを受け入れてしまった、そんな表情だった。
美術室に織音の嗚咽が響く。肩を小刻みに震わせ、言葉にならない声が絞り出される。織音の涙は悲しみか、苦しみか、それとも絶望か――胡桃の胸をぎゅう、と締め付けるようにひりつかせた。そんな純粋な感情の塊だった。
胡桃も、龍之介も、口を挟めなかった。燿ですら、ただじっと二人を見守っている。ただただ胸の内で、彼女の涙の重みに心を寄せることしか出来なかった。
「いつから……?」
織音の問いかけに、凪はただ唇を震わせるだけ。恐怖で声が出ない。彼の性格を鑑みれば、当然のことに思える。織音もそれが分かっているから、彼女は震えた声で振り絞るように続ける。
「あたしは……っ! 本当に、親友だって思ってたの!」
強まる語気と滲んだ瞳に散る火の粉に、胡桃は織音の決意を見た。先程までの戸惑いを感じさせないのは、芯の通った強い彼女らしい。
「全部、嘘だったんだね……。結局、凪もみんなと一緒なんだ。今さ、どんな気持ちなの? こんなのあたしがいっちばん嫌いなことだって散々言ったじゃん。……ねえ、答えてよ!」
へたり込む凪を見下ろし、織音は悔しそうに歯を鳴らす。震える拳をぎゅっと握りしめ、必死に何かを堪えているみたいだった。
「ねえ、何とか言ってよ……」
「……ごめんなさい」
凪は何度か繰り返し呟く。
「あんたさ、あたしと喧嘩もしてくれないの? そうやって、いつもみたいに逃げて……逃げて、逃げて、逃げて、逃げて! 結局、あたしに任せるんだ……。出来ないことはやらなくていい、変わらなくていいって言ったけどさ、こんな時くらい……」
続く言葉を詰まらせ、織音はスマホを凪の足元へ投げ捨てた。傷一つない画面に亀裂が走り、暗闇に反射した凪の顔がいくつにも分裂する。
織音は涙を乱暴に拭い、ブレスレットを外して机に置く。それが、胡桃には凪との決別の証に思えた。
「染井先輩、自分のスマホなのに」
織音の粗暴な行動に、燿が慌てて動いた。スマホを拾い上げる際、一瞬凪に目を向ける燿は、どう見てもこの状況を悲しんでいるように見える。その濁りのない瞳を、胡桃はまだ信じたいと思ってしまっている。
「何言ってるの。もうそれはあたしのじゃないじゃん」
織音は吐き捨てるように言った。確かに織音のスマホに、彼女の軌跡は一つたりとも残っていない。あるのは、凪の想いだけだ。
きっと、凪が弁解しないだけで、何かの間違いなのかもしれない。スマホの中身が他人のものになっているなんて状況が、そもそも不可思議な現象なのだから、その中身が本当に入れ替わった人のものじゃないかもしれない。都合よくデータが改ざんされているかもしれない。こんな状況だからこそ、胡桃は苦しい妄想に駆られた。
仕組んだ犯人がいてくれれば、まだマシだったのかもしれない。でも、あのサイトの話を持ってきた織音がこうして被害を受けている時点で、偶然が生んだ事故。きっと全員が被害者なのだ。
「ねえ、ストーカーしてたならさ、全部知ってるんでしょ? ――あたしの秘密も」
織音の静かな声色が、自分に向けられているわけではないのに背筋が震えた。織音を取り巻く空気がやけに息苦しく、傍にいる胡桃に圧迫感を与える。
秘密、という言葉に凪は一瞬肩を震わせて反応を見せた。てっきり、もう何を言っても凪には届いていないものだと思っていたのに、その彼を引き戻すような織音の秘密とは一体何なんだろうか。
「言ってもいいよ。もう黙っている義理なんてないじゃん。それにさ、どうせ近いうちに、また誰かのスマホの中身を知ることになるかもしれないんだもんね。いや、もうあたしの秘密だって、凪以外の誰かが知ってるのかもしれないか……」
織音の発言に、胡桃は呼吸が浅くなる。今後も、日を追うごとに誰かのスマホの中身が入れ替わっていくかもしれないことに、胡桃だけじゃなく、織音も予感めいたものを感じているのかもしれない。
織音は燿と龍之介を順番に見遣る。
無意識に、胡桃はスカートをきつく握りしめていた。胡桃の送ったメッセージに反応したのは織音だけ。でも、織音の言う通り、実は未読無視をしているだけで、もう既にスマホの中身が他人のものになっているのは織音と胡桃だけじゃないかもしれない。
胡桃の隠しておきたい――絶対にバレちゃいけない秘密だって、実は誰かにバレてしまっているのではないか。そう思うと、自然と呼吸が浅くなる。
「な、何を言ってるんですか? たまたま染井先輩のスマホがおかしくなっちゃっただけじゃ……」
「違うよ。あたしだけじゃない。ね、胡桃?」
「えっ……胡桃先輩?」
燿が弾かれたように胡桃へと目を向ける。その視線を胡桃は咄嗟に逸らしてしまった。後ろめたい気持ちと、燿の秘密をここで話すことで今以上の惨状になることを恐れた結果だった。
「本当にそんな話があるのか? 俺のスマホはまだ壊れたままだけど。……燿は?」
龍之介に問われ、燿がスマホを取り出す。そして、画面をタップするも、暗転したままの状態は変わらなかった。龍之介のスマホも同様だ。
凪は……触れないでおいてあげよう。今の彼は放心状態で、もう何を言ってもまともに会話することは難しそうだった。現に、誰も話しかけていないのに、凪はただひたすら謝罪の言葉を虚空に繰り返し続けていた。
「そういえば、胡桃先輩のスマホは染井先輩より先に直ったって」
燿はそれからすぐに眉根を寄せた。訝しむような視線が胡桃に向けられる。
「もしかして、胡桃先輩のスマホも誰かのスマホの中身になっている……とか?」
胡桃は音もなく息を吐き出す。元々、隠すつもりは毛頭なかったのだ。ただし、燿の裏の顔を知ってしまったからといって、みんなの前でバラすつもりではなかった。燿と個人的に話して、彼の本音を聞きたかっただけだ。しかし、この状況ではそれも叶わない。
観念してスマホを取り出す。バックライトによって照らし出された液晶を覗き、燿は僅かに目を見開いた。小さく喉を鳴らし、それでもまだポーカーフェイスを貫く。
「これ、もしかして僕のですか?」
今、自分はどんな顔をしているのだろう。
目が合った燿の表情が固まる。胡桃の顔から、悟ってしまったらしい。聡い燿のことだ。凪の秘密が暴かれたこの状況で、自分の置かれた立場を理解したのだろう。
織音の扇動があったとはいえ、燿は胡桃のスマホが直っているのを言及したことにより、自分から絞首台へと上がってしまった。自らの首を絞める行為に、燿の顔から色が失われていく。
「み、見たんですか?」
上擦った燿の言葉に、胡桃は曖昧に頷いた。頷くしかなかった。嘘を吐いたって、意味がない。そんな胡桃を見て、燿の口角が歪に持ち上がる。
「ふ、ふふっ……。あーあ、じゃあ仕方ないっすね」
――あぁ、やっと分かった。あなたはそんな風に喋るんだね。
「燿……?」
怪訝そうな面持ちで龍之介が呟く。無理もない。燿のこんな低く、感情のない声の正体を理解しているのは、この場では胡桃だけ。きっと、これだけは燿と十年来の付き合いの龍之介も知らないことだ。
態度が豹変した燿は気怠げに机に腰かけて、不機嫌そうな瞳を胡桃に差し向ける。
「いいですよ、喋っちゃって。ってか、どうせ話すつもりだったんすよね?」
「そ、そんなこと……」
「いやいや、言い訳とかいらないっすから。仕方ないっす。僕、ロック画面以外にパスワードかけてないですし。この状況で胡桃先輩が話さなくても、どうせスマホを見られたら分かっちゃうんすよ、僕のこと」
燿は胡桃のスマホを手に取り、まるで自分の端末かのように慣れた手つきで操作する。そのまま、燿は黙り込んでしまった。どうやら、燿は自分から話すつもりはないらしい。あくまでも、胡桃の口からみんなに伝えろ、という意思表示だ。
織音と龍之介の視線が突き刺さる。二人とも胡桃を待っていた。
どうして人は、他人の秘密を暴きたがるのだろう。
「……ごめんね、燿くん」
「偽善者ぶらないでくださいよ。勝手に覗いたくせに」
スマホに目を向けたまま、燿が言った。
本当に燿の言う通りだ。反論の余地もない。燿は勝手に秘密を知られ、その犯人は胡桃なのだから。覗かれた方は、やっぱりただの被害者でしかない。それがたとえ、誰かを傷付けるような秘密だとしても。
「ごめんなさい」
それでも、胡桃はもう一度燿に謝り、自らが見た内容を語った。燿の裏垢のこと。彼がコンクールの作品を意図的に台なしにしていたこと。
それ以上は、話さなかった。胡桃が見てしまった他の秘密は、ここで織音たちに打ち明ける必要のないものだ。話したところで、それは燿を傷付ける一方的な刃でしかない。
打ち明けている時は、喉に鉛でも詰まっているんじゃないかと思った。
もっと性格が悪かったならば、少しは楽だったんだろうか。他人を陥れることに悦びを感じることが出来るのなら――それこそ、燿のような性格なら、嬉々(きき)として話せたのかな。
少なくとも、胡桃には他人の不幸が蜜の味には到底感じなかった。もっとドロドロとした、喉にへばりつく異物だ。
「何それ……もう勘弁してよ……」
頭を抱える織音。親友と後輩から同時に裏切られた彼女のことを思うと、心底胸が痛む。
その時、突然龍之介が燿の胸ぐらを掴み、乱暴に彼の身体を持ち上げた。
「ちょっと、龍之介先輩!?」
慌てて止めようと龍之介の腕を掴むも、非力な胡桃ではびくともしなかった。
どうしよう。暴力沙汰にでもなったら、大変なことだ。今の胡桃には、燿が外部にこのことを晒さないとは思えなかった。
「殴っちゃ駄目……染井さんも手伝って……!」
胡桃の懇願に、織音は静観したままだった。きっと、普段の織音なら一緒に龍之介を止めてくれていたはずだ。
なぜ?と考えるも、すぐに織音のキャパシティーがとっくに振り切れてしまっているのだと気が付いた。むしろ、織音は龍之介が手を上げるのを待っているようにさえ見える。どうせなら、もう全てめちゃくちゃにしてくれ。そんな雰囲気を漂わせ、その場に立ち尽くしていた。
「な、何をキレてんすか……先輩、いつもそうっすよね。何かあったら、そうやってすぐに高圧的になる」
苦しそうに顔を歪ませた燿は、浮かせた足を僅かに揺らして冷笑を浮かべる。
この期に及んで嘲る燿に、胡桃は微かな憤りを感じた。でも、それ以上に、胡桃の知る燿の姿が、赤の他人に乗っ取られていくように思えて悔しかった。今までの五人の関係に、他人が土足で入り込んだ。そんな言葉に表せない怒りが込み上がる。
龍之介は無言のまま燿を正面から睨み付け、小さく舌打ちをしてから彼を離した。床に崩れ落ちた燿が、咳き込みながら愉しそうに龍之介を見上げる。
「ははっ、やっぱりそうだ。殴る勇気もないくせに、そうやって強がって。一匹狼気取っておいていつも凄んでいるだけで、変わんないっすね、龍之介先輩も。今、すっげぇダサいっすよ」
「……ダセぇのはお前だろ」
「なんすか、そんなにキレて。矛先間違ってますよ。僕のこんなの、凪先輩のストーカーと盗聴に比べたらちっぽけなことじゃないっすか。もう一回言いますよ? ストーカーに! 盗聴! 普通に犯罪じゃないっすか」
燿が凪の肩に腕を回す。
「殴るなら、こっちの最低野郎でしょ。ほら、早く殴ってくださいよ。染井先輩が可哀想じゃないんすか? それともあれですか、自分が被害者じゃないから、凪先輩はどうでもいいんすか?」
開き直った燿は止まらなかった。それどころか、凪の顔を覗き込んだ燿は、ますます生き生きとした表情に染まる。
「ねえ、凪先輩も何とか言ってくださいよ。つまらないなぁ。ストーカーって楽しいんですか? そんなことしても、絶対に染井先輩は自分のものにならないのに。遠くから眺めて、それで満足してたんすね。僕なら、そんなことしないで普通にアタックしますけど。いや、そりゃ、染井先輩がわけ分からないくらい恋愛が嫌いなのは知ってますよ? でも、それって関係ないでしょ。まさか、好きになったのにまだ友達のままいたいからっていう保身ですか? いやいや、それは無理があるでしょ。何も捨てる覚悟がないからストーカーって。凪先輩、本当に玉ついてます?」
凪の頬を軽く小突く燿に、胡桃は耐え切れず口を挟む。
「燿くん、一旦落ち着こう? ねっ、ほら、急なことで言いたくもないこと言っちゃってるだけだよね」
胡桃は自らの言動を心の内で笑ってしまった。
まだ、燿を信じたいとでも言うのだろうか。それはもう優しさなどではなく、浅はかでただ往生際が悪いだけだ。
燿が胡桃をねめつける。
もちろん、燿には胡桃を恨む権利がある。だから、矛先はどうか自分にだけ向けてほしい。他の人を傷付けないでほしい。そう思ってしまうのは、偽善なのだろうか。
「僕は落ち着いていますよ。だって、これが素の自分ですし。むしろ、今までよりも誠実に、嘘を吐かずにみなさんと向き合っているんですけど?」
「そうかもしれないけど……。でも、だからって誰かを傷付けていい理由にはならないよ。私はそんな燿くんを見たくはないから」
「まだそんなこと言うんですか? つくづく、どうしようもないお人よしですね。勝手に騙されておいて、本当の僕が気に入らないからって頭ごなしに否定して理想を押し付ける。今、胡桃先輩がやってることって、僕を傷付けているんですけど?」
反論できなかった。善悪を除けば、燿の言っていることは何一つとして間違っていなかったからだ。
結局、胡桃はいつだって、場を収めるために誰かを無意識に悪者にする方法しか選択できない。いつも、窘めるのではなく、宥めてきたからだ。いつもの燿のように全員を傷付けずに取り持つ術なんて、たとえ嘘を吐こうが出来ないことだった。
「また誰かのスマホが直って、他の人のスマホの中身になるかもしれないんですよね? ははっ、あー楽しみだなぁ。ねえ、胡桃先輩、僕はあなたの本性が一番気になります。きっと、みんなも同じこと思ってますよ。絵に描いたような優等生の化けの皮を剥がしたら、一体何が出てくるんでしょうね」
ほんの一瞬だけ逡巡し、胡桃は告げた。
「……燿くんが喜びそうなものはないよ?」
「あー駄目っすよ。嘘を吐く時は視線を逸らさない、瞬きも意識して抑える。顔や髪を触らない。そうやって手を胸の前で組むのも駄目です。嘘吐きの僕からのアドバイスっす」
顔が熱くなった。胸の前で組んだ手に力が籠る。これでは、自分のスマホの中に見られたくないものが眠っていると自白したようなものだ。凪にポーカーフェイスがどうとか言えたものじゃない。
燿は胡桃のスマホを自分のポケットにしまい、席を立つ。
「それじゃ、今日は帰ります。明日もちゃんと部活は来ますね。僕、人の不幸って大好きなんで。染井先輩の秘密も、龍之介先輩の秘密も、楽しみにしてますよ」
美術室を出る燿に、誰も言葉を返せなかった。それは結局、みんな何かしらの秘密を抱えていることの裏付けだった。



