勝手に覗いて幻滅すんなよ

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 凪が織音と出会ったのは、中学二年生の時のことだった。

 都会から転校してきた凪が既に確立されたクラスの輪に入り込めるはずもなく、臆病で内向的な性格ゆえ、元々好きじゃなかった学校生活がより苦痛な日々になるのには十分だった。

 転校生というものは、過度に期待をされがちだと思う。

 どんな人なんだろう。都会から来たのだからお洒落に決まっている。面白い奴ならいいな。イケメンかな。

 均衡の取れた集団に異分子が混ざるのだから、自ずと良い方向に作用する人物を想像するのは当たり前のことだ。誰も、凪のような大人しくておどおどした人物が転校してくるなんて微塵も考えない。

 だから、既に高まった期待値を一足飛びにするどころか、思いっきり根暗な人物がやって来たら、クラスで浮くのは当然のことだった。

 しかし、空気でありたいのに転校生というレッテルがそれを許さない。誰にも話しかけられなくとも物珍し気な視線は感じるし、授業では全員の前で教師から余計な心配をされる。

 友達がいないことに苦を感じたことはなかった。だけど、腫物(はれもの)のように扱われることがとにかく耐えがたかった。

 最初の印象が良くなかった凪は、次第にクラスメートから嫌がらせを受けるようになった。

 いじめと感じる人もいるのだろうけど、当人である凪にいじめられているという自覚はなかった。

 だって、全部自分が悪い。いくら無謀な理想を押し付けられていたからって、最初にもう少し頑張っていればこんなことにはならなかったはずだ。今までの自分を変える絶好の機会だったのに、結局、前の学校と同じように集団の最下層にいることを選んだのは、紛れもない自分自身だった。

 自業自得という妄信で、心を守ることに徹する。いじめられていると認識して傷付くより、自分で自分を傷付けた方が幾分マシだからだ。

 ある授業でのテスト中、何度も後頭部に違和感を覚えた。振り返る勇気がなく、そっと床に目を落とすと、小さくちぎられた消しゴムが散らかっていた。

 よくある陰湿な暇潰(つぶ)しだ。

 教師に気が付かれて大ごとになるのが嫌で、散らばる消しゴムを足でまとめて上履きの下に隠す。別に痛いわけでも、恥ずかしいわけでもない。集中できないから、テストの点数が少し心配なくらいの些細なことだ。

 何かがすり減ってしまわないように、胸の内で「これは(つら)いことなんかじゃない」と肯定する言葉を暗示のように繰り返し唱えた。

 凪は要領の良い人間だった。自己防衛の(すべ)は持ち合わせているし、自らの置かれる立場を客観的に見つめることも出来る。

 ただ、勇気がなかった。転校初日が大事だったということも、さっさと教師に言うなりして対処すればいいことも、分かっている。

 分かってはいるんだ。

 結局、一番凪を傷付けるのは、いつだって自分自身だった。

 どうして、僕はこんなろくでもない性格なのだろう。

 不器用で、()(かん)(りょく)に欠けていたとしても、()(きょう)さえあればどれだけ楽に生きられたのだろうか。ペンを走らせる筆音だけが教室を包む最中、そんなことをぼんやりと考えていた。

 「――あのさ、気が散るんだけど」

 刹那、静黙を切り裂いて、澄んだ声が凪の耳を穿(うが)った。

 よく通る、(りん)とした力強い声色に、肩が大きく跳ねる。(しゅう)()と驚きが同時に襲いかかって鼓動が速まり、冷や汗が溢れ出した。

 「どうしたの、染井さん?」

 教卓に目を落としていた女性の教師が、不思議そうにこちら――正確には凪の席がある後方を見遣る。

 みんなが振り向くから、つられて振り返る。一人の少女が、机に(ひじ)をついて不機嫌そうに数名のクラスメートを睨み付けていた。彼らの机上には細かくちぎられた消しゴムが置かれている。

 織音は凪には一切目をくれず、荒く息を吐き出す。

 「何でもないです、虫が飛んでいて」

 「みんなの迷惑になるので、静かにしてくださいね」

 「はーい」

 空気を読んだように全員が机に向き直る中、凪は織音から目が離せないでいた。

 初夏のじりじりとした陽射しが、織音の輪郭(りんかく)を照らす。誰の視線も気にせず、感情の(はつ)()に戸惑いがない。世界に不満を抱えているような雰囲気に、吞み込まれてしまいそうだった。

 凪には織音が別世界の人に見えた。

 放課後、織音に感謝の言葉を伝えられたのは、きっと彼女の勇ましさに触発されたからだろう。

 だって、自分はそういう人間じゃない。誰かに素直に感謝を口にすることも、話したことがない人に自分から話しかけることも、今までの人生で数える程しかなかったんだから。

 「いやいや、だってあれはウザいっしょ。そう思わなかった?」

 「き、気にはなっていたけど……」

 織音は口をへの字に曲げ、(いぶか)しむ。口の中で転がした、じゃあどうして、という疑問が容易に透けて見えた。

 嫌なことは口に出して言いなさい。今まで、色々な大人にそんなことを言われた。その人たちは、凪に自分で解決する力を身に付けてほしかったのだろう。

 きっと、勇気を出すということの難しさを、その大人たちは知らない。理解してくれない。でも、みんなが口を揃えて同じことを言うのなら、それが正しくて、おかしいのは凪の方だ。

 異端な自分を認めてこれまで過ごしてきた。だから、今回も織音に同じことを言われるのだろうと覚悟をしていた。

 「じゃ、また気になったらあたしに言いなよ」

 「えっ?」

 「あたしは別に馬鹿な奴に声を上げるのは何とも思わないからね。みんなが出来るわけじゃないのなんて、少し考えたら分かるし。

苦手なことを無理にする必要なんてないでしょ。その代わり、」

 織音は机上に開いたノートを指さし、続ける。

 「この問題の答え教えて。ほら、あたしは勉強が苦手。あんたは得意?」

 「と、得意かは分からないけど、多分解けると思う……」

 初めてだった。

 織音は小さく相好(そうごう)を崩し、向かいの椅子(いす)をペンでコツンと叩く。

 「ラッキー。これ終わらせないと部活行っちゃ駄目って言われてさ、ぜつぼーしてた」

 初めて、人に魅入られた。

 今まで凪を助けてくれた良い人たちと、織音は全然違う。優しさを押し付けられないのって、こんなにも嬉しいことだったんだ。

 きっと、勇気を出すなら今だ。織音と親しくなりたいという気持ちにだけは、嘘を吐いちゃいけない気がした。

 意を決して椅子に腰を降ろす。凪にとってはこれしきの行動ですら、一念発起してのことだった。

 「と、解き方じゃなくて、答えでいいの?」

 「もちろん。一次関数が出来なくったって、あたしは困らないし。あっ、あたしのことは染井で。下の名前は好きじゃないから呼ばないでね」

 曖昧(あいまい)に頷く。元々、名前で呼ぶ勇気なんてないから、特に気にすることでもなかった。

 「染井さん、今この問題が解けなくて困ってたんじゃないの?」

 織音は目を丸くして凪を見る。そして、可笑しそうに声を上げた。

 「なんだ、ちゃんと思ったこと言えるじゃん」

 「あっ……」

 そう言われ、自分がめんどくさい発言をしたことに今さら気が付く。でも、織音はそんなこと歯牙(しが)にもかけないで笑って受け流した。

 凪が問題を解いている最中、手持ち無沙汰(ぶさた)な織音はぼんやりと空を眺めていた。ついそんな彼女を目で追ってしまい、慌てて立ち上がる。

 「さ、参考書取って来る」

 「おーけー、なるはやね~」

 自分の席に参考書を取りに行く最中、

 「人にやらせて、その態度って」

 教室に残っていたクラスメートがぽつりと(ささや)く。それは織音に聞こえないで、凪にだけ聞こえるようにすれ違い様にわざとらしく言ったものだった。

 もちろん、凪に何かを言う勇気なんてない。そんなに人はすぐに変われない。自分は物語のキャラクターじゃない。それでも――

 凪がペンを走らせる。織音がそれを待って空を眺める。緩やかに流れる時間と、彼女を取り巻く空気に溶けるような感覚。

 陽だまりのようなこの空気が、凪にはとても心地よいものだった。