勝手に覗いて幻滅すんなよ

 「……こっわ」

 沈黙が龍之介の一言で破られる。

 「これ、あたしだ……。カプチーノとレモンケーキ頼んだ……。えっ? でも、一人で行ったんだけど……」

 タブ一覧で並んだメモの最新の日付は三日前。みんなでファミレスに行った前日。つまり、まだ凪の端末が壊れる前の日付だ。

 これは所謂、尾行――悪い言い方をするなら、ストーカーというやつだろう。

 「ほとんど、確定ですね……」

 燿が真実をぼかして呟く。やけに悲しそうに、苦しそうに。その表情を、胡桃は素直に受け止められない。

 「な、何かの間違いだよ……。だって、凪だよ?」

 織音の頬をそっと一筋の涙が伝う。その涙が何を示すのか、どういう感情で流れたものなのか胡桃には分からなかった。

 それに、まだ開けられていない箱が存在していた。

 織音の震える指先が、一つのフォルダをタップする。テンキーとパスワードの入力欄が浮かび上がった。

 「……染井さん、いいの?」

 思わず、口を()いていた。

 だって、織音がこんなにも苦しそうで、これ以上彼女が何かを知ってしまえば、二人の関係が壊れて、もう一生戻らないような気がした。

 ストーカーをする理由なんて、大体予想が付く。というか、もうほとんどメモ帳に真実が書いてあった。そして、何より織音に向けての行為だと思うと、より一層、彼女が()(びん)に思える。

 私も大概(たいがい)だ。

 止めなかったり、止めようとしたり。もう、自分でもどうするのが正しいのか分からなかった。でも、きっとそれはここにいるみんな一緒のことで、多分、正解なんて存在しない。

 ゆっくりと、織音が数字を打ち込む。〝0710〟。凪の誕生日の7月10日から推測したのだろう。

 でも、それは違うんじゃないかな。何となく、そう思った。

 織音が決定ボタンを押すが、胡桃の予想通りフォルダは開かなかった。

 パスワードは織音に関係したものだと、誰もが真っ先に考えるはずだ。きっと、彼女もそれを分かっている。それでも、最初に凪に関連する数字を打ち込んだのは、織音が最後まで凪のことを信じたかったからだろう。

 「……き、もち、わるい……」

 (かす)れた声が織音から漏れる。意図せず溢れ出したであろうその言葉に、彼女の苦しみと葛藤が内包されていた。

 織音の強く噛みしめた唇から、鮮血が(したた)る。(あご)を伝い、涙と混ざり合って彼女の腕――凪とお揃いのブレスレットを濡らした。

 「気持ち、悪い……。き……もち悪い……」

 織音は何度も繰り返し呟き、そして、再びパスワードを打ち込む。〝1021〟。つまり、10月21日。織音の誕生日だ。

 決定ボタンが押される。瞬間、フォルダが開いた。無数の写真が画面いっぱいに整列して(あら)わになる。

 「っ、は、ははっ……」

 織音の乾いた笑いが胡桃の耳を撫でる。

 一人歩く織音を背中から写した写真。様々な角度から撮られた彼女の家の外観。部屋で(たたず)む窓ガラス越しの織音の姿。空の紙パックのゴミの写真。カプチーノとレモンケーキの写真。

 画面端に浮かぶ2025枚という文字を見て、眩暈(めまい)がした。この全てが織音に関する凪が撮影した写真。空の紙パックのゴミは、織音がいつも好んで飲んでいるものだ。もしかして織音が捨てたものを……? なんて、気味の悪い想像をしてしまう。

 それにこのカプチーノとレモンケーキを間近から撮った写真。もしかして、織音が喫茶店で頼んでいた品を、凪が注文して撮影したのだろうか……。

 そんなことまでするって、普通じゃない。ストーカー自体が異常なことだけど、この写真の数々からは織音への想像以上の執着が見て取れる。

 「ふんっ」

 龍之介が嫌なものを見たとでも言いたげに鼻を鳴らし、いつもの後方の席に戻っていく。

 フォルダ内には、写真の他にも何か月にも渡る織音の行動をこと細かに記したメモや、ストーリーズのスクショがあった。きっと、定期的にこのロックをかけたフォルダに移していたのだろう。

 不機嫌そうな龍之介、今の胡桃にはこの状況を悦んでいるように見える燿、放心状態の織音。

 外から、野球部の溌剌(はつらつ)としたかけ声。天井から、吹奏楽部の奏でる重厚で(きら)びやかな楽器の音色。間違いなく、昨日までと同じ夏休みの一日。学生生活に刻まれるはずだった、青春の一ページ。

 静まり返った美術室で、何かが壊れる音がした。

 誰にも見られることはないだろうから。スマホに対する根拠のないその(ぜい)(じゃく)な信頼が、(ほころ)びを生んだ結果だった。

 盗撮された写真に紛れて、音声ファイルがあった。

 再生された音声ファイルのシークバーが、ゆっくりと右に向かっていく。

 『――……っぅ……すぅー…………』

 微かに何かが聞こえた。肌を撫でるような穏やかさで、規則正しいくすぐったいそれが、誰かの――いや、織音の寝息だと胡桃が気が付いたのはしばらくしてのことだった。

 音声ファイルからLINEの着信音が鳴り響く。

 『……んぁ、胡桃? どしたん? ……あー、いや、ちょっと寝てた。うん、大丈夫』

 きゅっと(のど)が締まる。覚えている……これはちょっと前に、胡桃が織音へと電話をかけた時の会話だ。

 思わず()(えつ)が込み上がる。(あわ)()った肌を無意識にきつく掴んでいた。

 その時、凪が戻って来た。全員が押し黙る。

 一様に視線を向けられた凪は、疑問符を浮かべて五人分の飲み物を抱えていた。誰も、買って来てくれなんて頼んでいないのに。

 静寂に染まる空間に薄ら響くスマホからの柔らかな声が、ようやく凪にも届いたのだろう。彼の腕からペットボトルが転がり落ちる。

 「…………ぁ」

 凪の口から本当に小さく漏れ出た絶望の一言と共に、音声ファイルの再生が終わった。

 誰も、何も言わない。まるで、この空間から音が消失してしまったかのように、外から聞こえてくる(せみ)の鳴き声が大きく、大きく胡桃の鼓膜を揺らす。

 「親友だと思っていたのって、あたしだけなの……?」

 織音の静かで悲痛な叫びに、胡桃は(たま)らず目を閉じた。