知らないふりをした君へ

春風が吹き抜けたあと、私はしばらくその場から動けなかった。
階段の上から聞こえてくる足音が遠ざかって、完全に消えてから、ようやく息を吐く。

胸の奥に溜まっていたものが、一気に重くのしかかってきた。どうして、あんな言い方しかできないの。
どうして、私を突き放すの。答えの出ない問いばかりが、頭の中をぐるぐる回る。

放課後、教室に戻ると、窓から差し込む夕方の光が机の上に長く伸びていた。朝とは違って、桜の色も少しだけ影を帯びて見える。

みんな帰り支度をしていて、教室はざわざわしていた。私は鞄を手に取ったまま、ぼんやり立ち尽くしていた。

「ひなの?」

突然、名前を呼ばれて、はっとする。
振り向くと、肩までの髪を揺らしながら、女の子が立っていた。ぱっちりした目で、心配そうに私を見ている。

「大丈夫? 今日一日、ずっと顔死んでたよ」

それが、月島 乃愛(つきしま のあ)だった。
同じクラスで、入学初日に席が近くて少し話した子。明るくて、誰とでもすぐ仲良くなれるタイプ。

「……そんなことないよ」

そう答えたつもりだったけど、声に力が入らなかった。
乃愛は少しだけ眉を下げて、私の隣に立つ。

「絶対なんかあったでしょ。無理して笑うの、下手だよ」

図星だった。
私は視線を落として、窓の外を見る。風に吹かれて、桜の花びらが校庭に散っていくのが見えた。

「……幼なじみに、再会したの」
小さくそう言うと、乃愛の目が少しだけ大きくなる。
「え、なにそれ。ドラマ?」
「でもね……覚えてないって、言われた」
一瞬、空気が止まった。
「……は?」

乃愛は言葉を失ったみたいに、口を半開きにしてから、ぎゅっと唇を結んだ。
「それ、最低じゃん」
強い口調だった。私の代わりに怒ってくれているのが、わかる。

「でも……本当に覚えてないわけじゃなさそうで」
そう言うと、乃愛は私の顔をじっと見つめる。
「なにそれ。めんどくさいやつ?」
思わず、少しだけ笑ってしまった。
「うん……めんどくさい」
「ひなのさ」

乃愛は、少しだけ真剣な声になった。
「まだ、その人のこと好きでしょ」
心臓が、跳ねた。
否定しようとした。でも、できなかった。

「……わかんない」
嘘だった。本当は、わかってる。
乃愛は、ふっと息を吐いてから、私の腕を引いた。

「帰ろ。今日は話聞く日」
校舎を出ると、夕焼けに染まった空の下で、桜が静かに揺れていた。
誰にも言えなかった気持ちを、初めて口にできる相手ができた気がした。
そして私はまだ、この春の中で、朔から目を逸らすことができずにいた。

乃愛と並んで校門を出ると、夕方の風が少しだけ冷たく感じた。朝とは違って、桜の花びらもどこか静かで、空気に一日の終わりが混じっている。

「で、その幼なじみって、同じクラスの人?」
歩きながら、乃愛が何気ない調子で聞いてきた。
「……うん」
「もしかして」
乃愛は少しだけ声を落として、私の顔を覗き込む。

「神谷くん?」
心臓が跳ねた。
「……どうして」
「今日さ、ひなのが屋上の階段から戻ってきたとき、神谷くんも同じ方向から来てた」

全部、見られてたんだ。
「なんか、ただ事じゃない空気だったから」
乃愛はそれ以上踏み込まず、でも確信したみたいに頷いた。

「そっか……それは、しんどいね」
その一言で、胸の奥がじんわり熱くなる。
帰り道は、駅まで続く桜並木を通る。花びらが歩道に積もって、踏むたびにかすかな音がした。

「小学生の頃はね」
気づいたら、私は話し始めていた。
「毎日一緒に帰ってた。雨の日も、風の日も」
乃愛は黙って聞いてくれる。
「転校する前の日、絶対また会えるって言われたんだ」
声が、少しだけ震えた。

「なのに、今日は知らない人みたいで」
乃愛は立ち止まって、私の方を向いた。
「ひなの」
真っ直ぐな目。
「それ、忘れてるんじゃないと思う」
「……私も、そう思う」

だからこそ、苦しい。
「覚えてるのに、知らないふりする理由があるってことでしょ」
乃愛は腕を組んで、少し考える。

「それってさ、本人なりの事情があるか、ひなのを避けたいか、どっちかだよね」
避けたい。
その言葉が、胸に刺さる。

「でもさ」
乃愛は、ふっと表情を緩めた。
「避けたいなら、階段で話さないと思う」
私は、その言葉に救われた気がした。
家に着く直前、乃愛がスマホを取り出す。
「連絡先、交換しよ」
「いいの?」
「当たり前。ひなの、今一人にしたらダメなやつだもん」
少し笑って、私のスマホに連絡先が表示される。
その夜、ベッドに横になっても、眠れなかった。
目を閉じると、朔の声が浮かぶ。

「お前、誰?」
冷たいはずなのに、どこか震えていた声。
知らないふりをしていた目。
どうして、あんな顔をしてたの。
スマホが震えて、画面を見る。

乃愛からのメッセージだった。
『明日も一緒に行こ。ひなのは一人じゃないから』
その言葉に、胸が少しだけ軽くなる。

だけど同時に、別の名前が頭をよぎった。
神谷 朔。
桜が咲くこの春は、まだ始まったばかりなのに。
私の初恋は、もう一度、動き出してしまっていた。