知らないふりをした君へ

春の風は、少しだけ冷たくて、それでも確かに、暖かさを含んでいた。
校門へ続く坂道の両脇には、満開の桜が並んでいる。
淡いピンクの花びらが、ひらひらと舞い落ちて、新しい制服の肩にそっと触れては滑り落ちていった。

——高校に入学したんだ。

胸の奥で、実感が少し遅れてやってくる。
期待と不安。知らない場所、知らない人たち。
全部が混ざり合って、春の空気みたいに落ち着かない。

教室に入ると、まだ誰もいない席が多くて、机と椅子だけが整然と並んでいた。
後ろの壁に貼り出された座席表を、何気なく見上げた、その瞬間。
心臓が、跳ねた。

——嘘。

視線を戻して、もう一度、名前を追う。
それでも、そこに書かれている文字は変わらなかった。
神谷 朔(かみや さく)
小学校二年生の春。
桜が咲き始めたころに、突然いなくなった幼なじみ。
私の、初恋。息を吸うのも忘れて、ただ名前を見つめる。
桜の花びらが舞うみたいに、記憶が一気に溢れ出した。手を繋いで帰った下校道。転ぶたびに差し出された手。「ずっと一緒だよ」って、笑った顔。

——また、会えるの?
胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
そのとき、教室の扉が開いた。
春風が入り込んで、カーテンが揺れる。

入ってきたのは、背の高い男の子だった。知らない制服。知らない雰囲気。
なのに、視線が吸い寄せられる。

神谷 朔。
名前と現実が、重なる。
でも——彼は、私の知っている朔じゃなかった。 表情は硬くて、笑わない。
誰かと話していても、距離を感じる。
それでも、私は前に出た。
「……朔、だよね?」
春風に声がさらわれそうになる。
「私のこと、覚えてるかな……?」

返事は、きっと——名前を呼んでくれるはずだった。「は?」
彼は一度だけ私を見て、冷たく言った。
「お前、誰?」
舞っていた桜の花びらが、一斉に地面へ落ちた気がした。

『お前、誰?』
その一言が、頭の中で何度も反響していた。チャイムが鳴り、担任の先生が入ってきても、私はしばらく動けなかった。
自分の席に座りながら、視界の端で朔の姿を追ってしまう。彼は窓際の後ろから二番目。小学生の頃、いつも私の前の席に座っていた場所と、どこか重なって見えた。偶然だってわかっているのに、胸がざわつく。

先生の自己紹介、クラスの説明、これから始まる高校生活の話。全部が遠くで鳴っているみたいだった。
ノートを開いても、文字が頭に入ってこない。代わりに浮かぶのは、あの冷たい視線と、信じられない言葉だけだった。
——本当に、覚えてないの?
そんなはずない。だって、あんなにも近くにいたのに。

休み時間になると、教室は一気に騒がしくなった。周りでは、同じ中学だった子たちが集まって笑っている。私は席を立てずに、ただ机に手を置いたまま、心を落ち着かせようとしていた。

そのとき、後ろから男子の声が聞こえた。
「朔、昼どうする?」
「適当でいい」
短く、感情のない声。その響きが、また胸を刺す。

私はゆっくり振り返った。朔は、数人の男子に囲まれて立っていた。視線は合わない。まるで、私なんて存在しないみたいだった。
——それでも。

足が、勝手に動いた。怖かった。拒絶されるかもしれないって分かってた。でも、このまま何もしなかったら、きっと一生後悔する。

「あの……」

声をかけると、周りの男子が一斉にこちらを見る。朔も、少し遅れて顔を上げた。目が合った、その一瞬。
確かに、揺れた。ほんの一瞬だけ。でも、すぐに無表情に戻る。

「何」

冷たい声。心臓が締めつけられる。
「同じクラスだし……よろしく、ね」

精一杯の笑顔を作った。小学生の頃みたいに、名前を呼びたかった。でも、できなかった。

朔は少しだけ黙って、それから視線を逸らした。
「……ああ」

それだけだった。それ以上、何も言わず、彼は友達の輪に戻っていく。
置いていかれたみたいに、その場に立ち尽くす私。笑い声が遠ざかっていく。
胸の奥が、じわじわと痛んだ。

昼休み、屋上へ続く階段の途中で、私は一人で座り込んでいた。窓の外には、まだ桜が残っている。
風に揺れて、花びらがくるくると舞っていた。

小学校の頃も、こんな春の日だった。
転校する前日、朔は私に言った。
「また会えるよ。絶対」

あのときの笑顔は、嘘だったの?
ぎゅっと膝を抱える。涙が出そうになって、慌てて瞬きを繰り返した。

そのとき、足音が聞こえた。誰かが階段を上ってくる。逃げ場はない。顔を伏せたまま、息を潜める。 でも、立ち止まる気配がした。

「……こんなとこで何してんだ」

聞き覚えのある声。顔を上げると、そこには朔が立っていた。驚きと動揺で、言葉が出てこない。

「別になにも……」

そう言うと、彼は視線を外す。沈黙が落ちる。
風の音だけが、二人の間を通り抜ける。

「……さっきの」
勇気を振り絞って、口を開いた。
「本当に、覚えてないの?」

一瞬、時間が止まったみたいだった。朔の指先が、ぎゅっと握られる。
「知らないって言っただろ」

低い声。その言葉に、胸が痛む。
それでも、私は引かなかった。
「じゃあ、どうして名前を呼ばれたとき、そんな顔したの?」

彼は何も答えない。ただ、遠くを見るような目をしていた。
「私は……忘れられるほうが、嫌だよ」

絞り出すように言うと、朔の肩がわずかに揺れた。でも、振り返らない。
「……関わらないほうがいい」

そう言い残して、彼は階段を上っていった。取り残された私は、その背中を見つめることしかできなかった。

春風が強く吹いて、桜の花びらが視界を埋め尽くす。
知らないふりをされた初恋は、まだ終わっていなかった。
むしろ、ここから始まってしまったんだと、そのときの私は、まだ気づいていなかった。