四月一日以降の映像は、断片的だ。
三月三十一日の打ち合わせが終わった翌日から、哲平は、ほとんど無意識のうちにスマホを回している。
トモノリに「ネタになるから動画回しといて笑」と言われた、その軽口を本気にしたのか、それとも自分でも説明できない不安があったのかは分からない。
最初の映像は、四月二日、午前二時十三分。
部屋は暗い。スマホのインカメラが哲平の顔を照らしている。
「……なんかさ、変な音すんだよな」
声は小さい。酔ってはいない。
打ち合わせのときの軽さは消え、少し神経質な響きが混じっている。
「気のせいだと思うけどさ。ほら」
カメラを反転させ、部屋を映す。
ローテーブル、ベッド、クローゼット。
何も変わらない。
「壁の向こうかな。隣の人、夜型だし」
そう言いながらも、哲平はしばらく部屋を映し続ける。
十秒ほど、何も起きない。
そのとき、かすかに、コツ、と音がする。
映像では分かりにくい。
けれどイヤホンで聞くと、確かに入っている。
木を叩く音に似ているが、乾いていない。湿り気がある。
哲平の呼吸が止まる。
「……ほら」
小声でそう言うが、誰に向けてなのか分からない。
トモノリに送るつもりなのか、自分への確認なのか。
音はそれきり鳴らない。
哲平はカメラを止める。
次の映像は、四月四日。
昼間。窓から光が入っている。
テーブルの上に、あの紙が置かれている。
逆さ鳥居と「天」の字。
「これ、まだ捨ててなかったわ」
哲平が苦笑する。
「なんかさ、昨日夢見たんだよ。これ出てきてさ」
カメラを紙に近づける。
ペンの跡が滲んでいる。
墨ではなく、普通のボールペンだ。
「逆さ鳥居ってさ、あんま縁起よくないらしいよな。ネットで見た」
紙を持ち上げ、裏を見せる。何も書いていない。
そのとき、紙の端がわずかに揺れる。
窓は閉まっている。
カーテンも動いていない。
哲平は気づかない。
「まあいいや」と言って、紙をテーブルに戻す。
映像はそこで終わる。
――私は何度もその部分を巻き戻した。
紙が揺れた瞬間。
フレームの端、ほんの一瞬、黒い影が横切る。
圧縮ノイズの可能性は高い。
だが影は、紙の上ではなく、紙の“下”から現れているように見える。
四月七日。
映像は夜だ。
哲平は布団の中から撮影している。
部屋の電気は消えているが、スマホの明かりで天井が白く浮かぶ。
「……また鳴ってる」
音は、今度ははっきりしている。
コツ、コツ、コツ。
一定の間隔ではない。
二回、少し間が空き、また一回。
まるで誰かが、壁の向こうで手の甲を打ち合わせているような。
哲平は小声で笑おうとする。
「トモノリ、これ絶対お前来てんだろ」
だが笑いは続かない。
音は、壁から天井へ、天井から床へ、移動しているように聞こえる。
コツ。
今度は、ベッドの下から。
哲平の呼吸が荒くなる。
カメラが揺れ、布団の端が映る。
「……やめろって」
冗談の声ではない。
ゆっくりと、カメラがベッドの下を向く。
暗闇。
スマホのライトが点く。
埃。段ボール箱。
何もない。
だが、ライトの光が、ほんの一瞬、床板の隙間に赤いものを反射する。
哲平は気づいていない。
カメラは、その赤を確かに捉えている。
四月九日。
映像は短い。
哲平が、洗面所に向かっている。
風呂場の扉が半開きだ。
「これ、俺閉めたよな……?」
声が震えている。
扉を押し開ける。
中は暗い。
水滴の音がする。
ポタ、ポタ。
蛇口は閉まっている。
浴槽も空だ。
それでも、水音は続く。
カメラが浴槽の底を映す。
排水口の周囲に、黒い筋がある。
泥のようにも、墨のようにも見える。
哲平はそれを指で触ろうとする。
触れた瞬間、音が止む。
無音。
哲平は息を飲む。
そのとき、背後で、はっきりと裏手拍子の音がする。
コツ、コツ。
今度は、乾いた音だ。
哲平が振り向く。
カメラがぶれる。
廊下の暗闇。
誰もいない。
だが、廊下の奥の壁に、黒い縦線が一本走っている。
哲平は近づく。
「……なにこれ」
壁紙が裂けているわけではない。
墨が滲んだような線。
それは、逆さ鳥居の片側の線と、形が似ている。
哲平はスマホを近づける。
線は、じわり、と広がる。
一瞬だけ。
そして、消える。
壁は白いままだ。
「……気のせいだ」
哲平はそう呟く。
その夜、彼はトモノリにLINEを送っている。
哲平「家の中のあちこちで変な音するんだけど」
トモノリ「ネタにするから動画回しといて笑」
哲平「ふざけんな笑」
軽い会話だ。
だが映像を見ると、その“笑”が空虚に見える。
四月十日。
武蔵からの提案が届く。
武蔵「うちの地元に幽霊屋敷って言われてる廃墟あるの思い出した。そこで探検するような撮影しない?」
侵入は、もう始まっている。
廃墟に行く前から。
マンモ様を呼んだあの日から。
四月十一日の映像がある。
哲平が机に向かい、パソコンを開いている。
「……これ、やっぱ捨てよ」
逆さ鳥居の紙を丸め、ゴミ箱に入れる。
その瞬間、部屋の電気が一瞬だけ落ちる。
パチン、と小さな音。
真っ暗になる。
三秒。
電気が戻る。
哲平は凍りついている。
ゴミ箱の中を、カメラが映す。
紙がない。
空だ。
「……は?」
哲平は立ち上がる。
机の上。床。
紙はどこにもない。
そのとき、カメラが偶然、天井を映す。
そこに、薄く、赤い線が浮かんでいる。
逆さ鳥居の形。
一瞬だけ。
次の瞬間、何もない。
哲平はそれを見ていない。
カメラだけが見ている。
私は再生を止めた。
ここまでが、四月十日以前。
廃墟へ向かう前。
侵入は、外からではない。
内側から。
唱えた言葉。
描いた形。
撮影した映像。
それらが、部屋の中に“通路”を作った。
私はふと、最初の呪符を思い出す。
赤い線。
交差。
縦と横。
あれは、何かの“地図”なのかもしれない。
侵入経路の。
そのとき、私の部屋で、コツ、と音がした。
思わず振り向く。
机の上に置いたはずのSDカードが、ほんの少し、位置を変えている。
気のせいだ。
そう思う。
だが、PCの画面には、再生していないはずの新しいファイルが表示されていた。
ファイル名は、
「侵入_0410」
私は、まだそれを開いていない。
だが、開かなくても分かる。
四月十日。
廃墟に行くと決めた日。
その時点で、何かが“決まった”。
侵入は、終わっていない。
むしろ、これからだ。
三月三十一日の打ち合わせが終わった翌日から、哲平は、ほとんど無意識のうちにスマホを回している。
トモノリに「ネタになるから動画回しといて笑」と言われた、その軽口を本気にしたのか、それとも自分でも説明できない不安があったのかは分からない。
最初の映像は、四月二日、午前二時十三分。
部屋は暗い。スマホのインカメラが哲平の顔を照らしている。
「……なんかさ、変な音すんだよな」
声は小さい。酔ってはいない。
打ち合わせのときの軽さは消え、少し神経質な響きが混じっている。
「気のせいだと思うけどさ。ほら」
カメラを反転させ、部屋を映す。
ローテーブル、ベッド、クローゼット。
何も変わらない。
「壁の向こうかな。隣の人、夜型だし」
そう言いながらも、哲平はしばらく部屋を映し続ける。
十秒ほど、何も起きない。
そのとき、かすかに、コツ、と音がする。
映像では分かりにくい。
けれどイヤホンで聞くと、確かに入っている。
木を叩く音に似ているが、乾いていない。湿り気がある。
哲平の呼吸が止まる。
「……ほら」
小声でそう言うが、誰に向けてなのか分からない。
トモノリに送るつもりなのか、自分への確認なのか。
音はそれきり鳴らない。
哲平はカメラを止める。
次の映像は、四月四日。
昼間。窓から光が入っている。
テーブルの上に、あの紙が置かれている。
逆さ鳥居と「天」の字。
「これ、まだ捨ててなかったわ」
哲平が苦笑する。
「なんかさ、昨日夢見たんだよ。これ出てきてさ」
カメラを紙に近づける。
ペンの跡が滲んでいる。
墨ではなく、普通のボールペンだ。
「逆さ鳥居ってさ、あんま縁起よくないらしいよな。ネットで見た」
紙を持ち上げ、裏を見せる。何も書いていない。
そのとき、紙の端がわずかに揺れる。
窓は閉まっている。
カーテンも動いていない。
哲平は気づかない。
「まあいいや」と言って、紙をテーブルに戻す。
映像はそこで終わる。
――私は何度もその部分を巻き戻した。
紙が揺れた瞬間。
フレームの端、ほんの一瞬、黒い影が横切る。
圧縮ノイズの可能性は高い。
だが影は、紙の上ではなく、紙の“下”から現れているように見える。
四月七日。
映像は夜だ。
哲平は布団の中から撮影している。
部屋の電気は消えているが、スマホの明かりで天井が白く浮かぶ。
「……また鳴ってる」
音は、今度ははっきりしている。
コツ、コツ、コツ。
一定の間隔ではない。
二回、少し間が空き、また一回。
まるで誰かが、壁の向こうで手の甲を打ち合わせているような。
哲平は小声で笑おうとする。
「トモノリ、これ絶対お前来てんだろ」
だが笑いは続かない。
音は、壁から天井へ、天井から床へ、移動しているように聞こえる。
コツ。
今度は、ベッドの下から。
哲平の呼吸が荒くなる。
カメラが揺れ、布団の端が映る。
「……やめろって」
冗談の声ではない。
ゆっくりと、カメラがベッドの下を向く。
暗闇。
スマホのライトが点く。
埃。段ボール箱。
何もない。
だが、ライトの光が、ほんの一瞬、床板の隙間に赤いものを反射する。
哲平は気づいていない。
カメラは、その赤を確かに捉えている。
四月九日。
映像は短い。
哲平が、洗面所に向かっている。
風呂場の扉が半開きだ。
「これ、俺閉めたよな……?」
声が震えている。
扉を押し開ける。
中は暗い。
水滴の音がする。
ポタ、ポタ。
蛇口は閉まっている。
浴槽も空だ。
それでも、水音は続く。
カメラが浴槽の底を映す。
排水口の周囲に、黒い筋がある。
泥のようにも、墨のようにも見える。
哲平はそれを指で触ろうとする。
触れた瞬間、音が止む。
無音。
哲平は息を飲む。
そのとき、背後で、はっきりと裏手拍子の音がする。
コツ、コツ。
今度は、乾いた音だ。
哲平が振り向く。
カメラがぶれる。
廊下の暗闇。
誰もいない。
だが、廊下の奥の壁に、黒い縦線が一本走っている。
哲平は近づく。
「……なにこれ」
壁紙が裂けているわけではない。
墨が滲んだような線。
それは、逆さ鳥居の片側の線と、形が似ている。
哲平はスマホを近づける。
線は、じわり、と広がる。
一瞬だけ。
そして、消える。
壁は白いままだ。
「……気のせいだ」
哲平はそう呟く。
その夜、彼はトモノリにLINEを送っている。
哲平「家の中のあちこちで変な音するんだけど」
トモノリ「ネタにするから動画回しといて笑」
哲平「ふざけんな笑」
軽い会話だ。
だが映像を見ると、その“笑”が空虚に見える。
四月十日。
武蔵からの提案が届く。
武蔵「うちの地元に幽霊屋敷って言われてる廃墟あるの思い出した。そこで探検するような撮影しない?」
侵入は、もう始まっている。
廃墟に行く前から。
マンモ様を呼んだあの日から。
四月十一日の映像がある。
哲平が机に向かい、パソコンを開いている。
「……これ、やっぱ捨てよ」
逆さ鳥居の紙を丸め、ゴミ箱に入れる。
その瞬間、部屋の電気が一瞬だけ落ちる。
パチン、と小さな音。
真っ暗になる。
三秒。
電気が戻る。
哲平は凍りついている。
ゴミ箱の中を、カメラが映す。
紙がない。
空だ。
「……は?」
哲平は立ち上がる。
机の上。床。
紙はどこにもない。
そのとき、カメラが偶然、天井を映す。
そこに、薄く、赤い線が浮かんでいる。
逆さ鳥居の形。
一瞬だけ。
次の瞬間、何もない。
哲平はそれを見ていない。
カメラだけが見ている。
私は再生を止めた。
ここまでが、四月十日以前。
廃墟へ向かう前。
侵入は、外からではない。
内側から。
唱えた言葉。
描いた形。
撮影した映像。
それらが、部屋の中に“通路”を作った。
私はふと、最初の呪符を思い出す。
赤い線。
交差。
縦と横。
あれは、何かの“地図”なのかもしれない。
侵入経路の。
そのとき、私の部屋で、コツ、と音がした。
思わず振り向く。
机の上に置いたはずのSDカードが、ほんの少し、位置を変えている。
気のせいだ。
そう思う。
だが、PCの画面には、再生していないはずの新しいファイルが表示されていた。
ファイル名は、
「侵入_0410」
私は、まだそれを開いていない。
だが、開かなくても分かる。
四月十日。
廃墟に行くと決めた日。
その時点で、何かが“決まった”。
侵入は、終わっていない。
むしろ、これからだ。



