三月三十一日。
映像のタイムスタンプは、二十一時四十二分を指している。
哲平の部屋は、六畳ほどのワンルームだった。壁は白いが、照明の色が少し黄ばんでいるせいで、全体が薄くくすんで見える。床にはローテーブル。コンビニ袋、缶ビール、スナック菓子。生活感はあるが、散らかりすぎてはいない。
いかにも「社会人三年目」の部屋だ。
カメラは固定されていない。トモノリが三脚を調整しながら、画角を探している。
「ちょっと待って、ピント合わん。あ、いけたかも」
その声に被せるように、哲平が笑う。
「なんでそんな本気なんだよ。今日、顔合わせだろ?」
「いやいや、こういうオフショットがエンドロールで効くんだって」
トモノリの声は軽い。冗談半分、本気半分。
夢乃が、テーブルの端に座り、スマホをいじりながら口を尖らせる。
「てか、なんで撮ってんの?私、ノーメイクなんだけど」
「リアル感ってやつだよ。ドキュメンタリー風にしたいんだろ、武蔵?」
ここで初めて、その名前が出る。
カメラの向こう、やや死角の位置から、低めの声がする。
「そうそう。最初から“作ってる感じ”出すより、自然に始めたいじゃん」
武蔵は画面の端に肩だけ映る。黒っぽい服。光を吸うみたいに、色味が沈んでいる。
ほかの三人は白や明るい色の服を着ているのに、彼だけが暗い。偶然だろうが、映像としては奇妙な対比だ。
哲平が缶ビールを掲げる。
「じゃあ、第一回呪霊苑打ち合わせってことで、とりあえず乾杯!」
「かんぱーい」
四人の缶が触れ合う。
金属音が、やけに乾いて響く。
その瞬間、映像が一瞬だけノイズを含む。
圧縮の乱れかもしれない。だが、私はそのノイズの中に、微かな“別の音”を感じた。
何かが、遠くで擦れる音。
夢乃が言う。
「台本とか、決まってるの?」
トモノリが肩をすくめる。
「全く」
哲平が笑いながら夢乃を見る。
「夢乃、なんかいいアイデアない?」
夢乃は少し考えて、首を傾げる。
「怖いの苦手だからなあ……。学校の怪談とか、小学生のとき流行ってたよね?」
「分かる。トイレの花子さんとか」
「コックリさんもあったよな」
その流れを受けて、武蔵が口を開く。
「あ、こっくりさんに似たやつでさ、うちの地元で流行ったのあるよ。“マンモ様”っていうんだけど」
空気が、ほんの少し変わる。
言葉自体は間抜けだ。マンモ様。
けれど武蔵の声は、ほんのわずかに低く、ゆっくりだ。
冗談を言うときの弾みがない。
哲平が笑う。
「え、なにそれ。ゾウ?」
「いやいや。まあ、こっくりさんみたいなもん。簡単だよ。紙に逆さ鳥居書いて、“天”って字を書いて、水の入ったコップ置いてさ。蝋燭灯して、電気消して。で、唱えるの。“まんも様、天くだりんせ”って」
夢乃が眉をひそめる。
「ちょっと待って、天くだりんせって何?」
「方言だよ。天下りんせ、って感じ」
武蔵は軽く笑う。
けれどその笑いが、どこか“説明のための笑い”に見える。
本当に思い出しながら話しているのか、それとも、あらかじめ用意していたのか。
哲平が身を乗り出す。
「それ、やってみる?」
「今?」
夢乃が戸惑うが、トモノリは嬉々としている。
「いいじゃん、テスト撮影にもなるし」
武蔵が立ち上がる。
カメラがわずかに揺れる。
「じゃあ、俺、道具揃えるわ。うろ覚えだけどな」
画面が一度切り替わる。
部屋は暗い。蝋燭の火が揺れている。
テーブルの上に、コップ一杯の水。紙。逆さ鳥居と「天」の字。
ライターの火が消え、部屋の照明が落ちる。
暗闇の中で、四人の顔が浮かぶ。
スマホのカメラは、暗所補正で白くノイズを含む。
武蔵は、フレームの外にいる。声だけがする。
「哲平、言ってみ」
哲平が、少し笑いながら唱える。
「まんも様、天くだりんせ」
二回目。
三回目。
息を吹き消す。
火が消える。
五秒ほどの沈黙。
誰も喋らない。
カメラがわずかに揺れる。トモノリの呼吸が入る。
夢乃が小さく笑う。
「……なんも起きないね」
武蔵の声が、暗闇の奥から届く。
「やり方、間違ってたかもな」
哲平が言う。
「電気つけるわ」
パチン、とスイッチの音。
部屋が明るくなる。
コップの水が、赤い。
トモノリが最初に声を上げる。
「うわっ!」
夢乃も叫ぶ。哲平も。
一瞬、本気の恐怖が映る。
次の瞬間、武蔵が笑いながら血糊を掲げる。
「ドッキリでした!」
三人の安堵と怒りが混ざる。
「おい、なんだよ!」
「びっくりした!」
笑い声が重なる。
緊張が一気に解ける。
――だが、私はここで巻き戻した。
赤い水のカットを、静止する。
コップの縁に、わずかに黒い影がある。
血糊を入れたにしては、色が濁っている。
底の方に、細い線が沈んでいるようにも見える。
気のせいかもしれない。
映像の圧縮ノイズかもしれない。
けれど、その黒い線は、最初に見た“呪符”の線と、どこか似ていた。
打ち合わせはそのまま続く。
「真面目に撮らないと間に合わない」
「また別日でやろう」
「次はちゃんと考えよう」
笑いながら、彼らは散会する。
ここで映像は終わる。
だが、データには続きがある。
同じ日の深夜、哲平の部屋を定点で映した、数分の無音映像だ。
部屋は暗い。
哲平はいない。
テーブルの上には、片付け忘れた紙がある。逆さ鳥居と「天」。
その紙が、ゆっくりと、ほんの数ミリ、動く。
風はない。窓も閉まっている。
そして、コップの底に残った水が、わずかに揺れる。
赤はもう消えている。透明だ。
だが、水面の中心に、黒い点が浮かんでいる。
カメラはそれを捉えたまま、何も起きずに終わる。
私は息を吐いた。
偶然だ。紙はエアコンの風かもしれない。黒い点はゴミだ。
そう自分に言い聞かせながら、次のLINEログを開く。
四月十日。
武蔵「うちの地元に幽霊屋敷って言われてる廃墟あるの思い出した。そこで探検するような撮影しない?」
この提案が、自然に見えなくなっている自分に気づく。
三月三十一日。
逆さ鳥居。
天。
赤い水。
そして四月十日、廃墟。
武蔵は“ネタ”を出しているだけかもしれない。
だが、順番が整いすぎている。
私は映像を止めた。
部屋が静かだ。
そのとき、机の上のコップが、カタ、と鳴った。
私は凍りつく。
触れていない。
振動もない。
コップの中の水が、わずかに揺れている。
水面に、赤い線が走ったように見えた。
一瞬だけ。
そして、消える。
私は立ち上がり、コップを持ち上げた。
透明だ。何もない。
だが、底に、小さな黒い点がある。
私はそれを流しに捨てた。
水で洗い流した。
それでも、排水口の奥から、かすかな音がした。
――コツ、コツ。
裏手拍子のように。
私は、まだこの時点では、はっきりとは思っていなかった。
けれど確実に、何かが始まっている。
三月三十一日。
打ち合わせ。
ドッキリ。
笑い。
その裏で、何かが“入った”。
それは偶然ではなく、呼ばれたのかもしれない。
「まんも様、天くだりんせ」
唱えたのは哲平だ。
提案したのは武蔵だ。
撮影したのはトモノリだ。
笑ったのは夢乃だ。
そして今、それを見ているのは――私だ。
私は、ふと気づく。
あの赤い呪符の映像は、まだ“完全には再生していない”。
最初の数秒で止めている。
もしかすると、最後に何か映っているのかもしれない。
私はカーソルを、再生ボタンの上に置いた。
部屋の空気が、わずかに冷たくなる。
押すべきか。
やめるべきか。
その逡巡のあいだ、背後で、小さな笑い声がした気がした。
映像のタイムスタンプは、二十一時四十二分を指している。
哲平の部屋は、六畳ほどのワンルームだった。壁は白いが、照明の色が少し黄ばんでいるせいで、全体が薄くくすんで見える。床にはローテーブル。コンビニ袋、缶ビール、スナック菓子。生活感はあるが、散らかりすぎてはいない。
いかにも「社会人三年目」の部屋だ。
カメラは固定されていない。トモノリが三脚を調整しながら、画角を探している。
「ちょっと待って、ピント合わん。あ、いけたかも」
その声に被せるように、哲平が笑う。
「なんでそんな本気なんだよ。今日、顔合わせだろ?」
「いやいや、こういうオフショットがエンドロールで効くんだって」
トモノリの声は軽い。冗談半分、本気半分。
夢乃が、テーブルの端に座り、スマホをいじりながら口を尖らせる。
「てか、なんで撮ってんの?私、ノーメイクなんだけど」
「リアル感ってやつだよ。ドキュメンタリー風にしたいんだろ、武蔵?」
ここで初めて、その名前が出る。
カメラの向こう、やや死角の位置から、低めの声がする。
「そうそう。最初から“作ってる感じ”出すより、自然に始めたいじゃん」
武蔵は画面の端に肩だけ映る。黒っぽい服。光を吸うみたいに、色味が沈んでいる。
ほかの三人は白や明るい色の服を着ているのに、彼だけが暗い。偶然だろうが、映像としては奇妙な対比だ。
哲平が缶ビールを掲げる。
「じゃあ、第一回呪霊苑打ち合わせってことで、とりあえず乾杯!」
「かんぱーい」
四人の缶が触れ合う。
金属音が、やけに乾いて響く。
その瞬間、映像が一瞬だけノイズを含む。
圧縮の乱れかもしれない。だが、私はそのノイズの中に、微かな“別の音”を感じた。
何かが、遠くで擦れる音。
夢乃が言う。
「台本とか、決まってるの?」
トモノリが肩をすくめる。
「全く」
哲平が笑いながら夢乃を見る。
「夢乃、なんかいいアイデアない?」
夢乃は少し考えて、首を傾げる。
「怖いの苦手だからなあ……。学校の怪談とか、小学生のとき流行ってたよね?」
「分かる。トイレの花子さんとか」
「コックリさんもあったよな」
その流れを受けて、武蔵が口を開く。
「あ、こっくりさんに似たやつでさ、うちの地元で流行ったのあるよ。“マンモ様”っていうんだけど」
空気が、ほんの少し変わる。
言葉自体は間抜けだ。マンモ様。
けれど武蔵の声は、ほんのわずかに低く、ゆっくりだ。
冗談を言うときの弾みがない。
哲平が笑う。
「え、なにそれ。ゾウ?」
「いやいや。まあ、こっくりさんみたいなもん。簡単だよ。紙に逆さ鳥居書いて、“天”って字を書いて、水の入ったコップ置いてさ。蝋燭灯して、電気消して。で、唱えるの。“まんも様、天くだりんせ”って」
夢乃が眉をひそめる。
「ちょっと待って、天くだりんせって何?」
「方言だよ。天下りんせ、って感じ」
武蔵は軽く笑う。
けれどその笑いが、どこか“説明のための笑い”に見える。
本当に思い出しながら話しているのか、それとも、あらかじめ用意していたのか。
哲平が身を乗り出す。
「それ、やってみる?」
「今?」
夢乃が戸惑うが、トモノリは嬉々としている。
「いいじゃん、テスト撮影にもなるし」
武蔵が立ち上がる。
カメラがわずかに揺れる。
「じゃあ、俺、道具揃えるわ。うろ覚えだけどな」
画面が一度切り替わる。
部屋は暗い。蝋燭の火が揺れている。
テーブルの上に、コップ一杯の水。紙。逆さ鳥居と「天」の字。
ライターの火が消え、部屋の照明が落ちる。
暗闇の中で、四人の顔が浮かぶ。
スマホのカメラは、暗所補正で白くノイズを含む。
武蔵は、フレームの外にいる。声だけがする。
「哲平、言ってみ」
哲平が、少し笑いながら唱える。
「まんも様、天くだりんせ」
二回目。
三回目。
息を吹き消す。
火が消える。
五秒ほどの沈黙。
誰も喋らない。
カメラがわずかに揺れる。トモノリの呼吸が入る。
夢乃が小さく笑う。
「……なんも起きないね」
武蔵の声が、暗闇の奥から届く。
「やり方、間違ってたかもな」
哲平が言う。
「電気つけるわ」
パチン、とスイッチの音。
部屋が明るくなる。
コップの水が、赤い。
トモノリが最初に声を上げる。
「うわっ!」
夢乃も叫ぶ。哲平も。
一瞬、本気の恐怖が映る。
次の瞬間、武蔵が笑いながら血糊を掲げる。
「ドッキリでした!」
三人の安堵と怒りが混ざる。
「おい、なんだよ!」
「びっくりした!」
笑い声が重なる。
緊張が一気に解ける。
――だが、私はここで巻き戻した。
赤い水のカットを、静止する。
コップの縁に、わずかに黒い影がある。
血糊を入れたにしては、色が濁っている。
底の方に、細い線が沈んでいるようにも見える。
気のせいかもしれない。
映像の圧縮ノイズかもしれない。
けれど、その黒い線は、最初に見た“呪符”の線と、どこか似ていた。
打ち合わせはそのまま続く。
「真面目に撮らないと間に合わない」
「また別日でやろう」
「次はちゃんと考えよう」
笑いながら、彼らは散会する。
ここで映像は終わる。
だが、データには続きがある。
同じ日の深夜、哲平の部屋を定点で映した、数分の無音映像だ。
部屋は暗い。
哲平はいない。
テーブルの上には、片付け忘れた紙がある。逆さ鳥居と「天」。
その紙が、ゆっくりと、ほんの数ミリ、動く。
風はない。窓も閉まっている。
そして、コップの底に残った水が、わずかに揺れる。
赤はもう消えている。透明だ。
だが、水面の中心に、黒い点が浮かんでいる。
カメラはそれを捉えたまま、何も起きずに終わる。
私は息を吐いた。
偶然だ。紙はエアコンの風かもしれない。黒い点はゴミだ。
そう自分に言い聞かせながら、次のLINEログを開く。
四月十日。
武蔵「うちの地元に幽霊屋敷って言われてる廃墟あるの思い出した。そこで探検するような撮影しない?」
この提案が、自然に見えなくなっている自分に気づく。
三月三十一日。
逆さ鳥居。
天。
赤い水。
そして四月十日、廃墟。
武蔵は“ネタ”を出しているだけかもしれない。
だが、順番が整いすぎている。
私は映像を止めた。
部屋が静かだ。
そのとき、机の上のコップが、カタ、と鳴った。
私は凍りつく。
触れていない。
振動もない。
コップの中の水が、わずかに揺れている。
水面に、赤い線が走ったように見えた。
一瞬だけ。
そして、消える。
私は立ち上がり、コップを持ち上げた。
透明だ。何もない。
だが、底に、小さな黒い点がある。
私はそれを流しに捨てた。
水で洗い流した。
それでも、排水口の奥から、かすかな音がした。
――コツ、コツ。
裏手拍子のように。
私は、まだこの時点では、はっきりとは思っていなかった。
けれど確実に、何かが始まっている。
三月三十一日。
打ち合わせ。
ドッキリ。
笑い。
その裏で、何かが“入った”。
それは偶然ではなく、呼ばれたのかもしれない。
「まんも様、天くだりんせ」
唱えたのは哲平だ。
提案したのは武蔵だ。
撮影したのはトモノリだ。
笑ったのは夢乃だ。
そして今、それを見ているのは――私だ。
私は、ふと気づく。
あの赤い呪符の映像は、まだ“完全には再生していない”。
最初の数秒で止めている。
もしかすると、最後に何か映っているのかもしれない。
私はカーソルを、再生ボタンの上に置いた。
部屋の空気が、わずかに冷たくなる。
押すべきか。
やめるべきか。
その逡巡のあいだ、背後で、小さな笑い声がした気がした。



