マンモ

――最初に断っておく。
この文章は「小説」ではない。少なくとも、私にとっては。
私は編集者でも脚本家でもなく、映像制作の専門家でもない。ただ、ある出来事の“後始末”をする羽目になった人間だ。

手元にあるのは、映像データが二つ、音声が三つ、スクリーンショットが十数枚。加えて、紙束――地方紙の切り抜き、役所のコピー、古びたノートの断片。
そして、赤い字で書かれた呪符の画像が、ひとつ。

この資料群は、四月末、匿名で私の郵便受けに投げ込まれていた。
封筒は湿っていて、角が黒ずんでいた。差出人不明。宛名は私の本名を正確に書き、妙に丁寧な楷書だった。
同封されていたSDカードには、ファイル名も更新日時もバラバラなデータが入っていた。まともな人間が整理した形跡がない。けれど逆に言えば、誰かが慌てて“手近にあったものを全部”突っ込んだようにも見える。

最初に再生したのは、黒い画面だった。
画面いっぱいに、赤い字。インクが乾く前に塗りつぶしたみたいに滲み、線が太い。
文字――いや、文字に見えるものが、何かの規則で並んでいる。
見た瞬間に、私は息を止めた。意味が分かったわけではない。むしろ意味が分からないのに、身体が先に反応した。
胸の奥が、ひやりと沈む。

その映像は数秒で終わる。
しかし、終わったあともしばらく、目の奥に赤が残った。瞼の裏で、赤い線がじっとしている。
私は気味が悪くなって、椅子から立ち上がり、部屋の電気を全部つけた。昼間だったのに。

……今思えば、その時点でやめるべきだった。
けれど、やめられなかった。
「これは何だ」という好奇心より、「これは誰かがわざわざ私に送った」という事実の方が重かった。関係ないはずがない、という感覚が、喉の奥に刺さって抜けなかった。

次に出てきたのは、LINEの画面を録ったスクリーンショットだった。
四人のグループ。
名前は、哲平、夢乃、トモノリ、武蔵。年齢は二十代半ば。友人関係と会社の同期が混ざっているらしい。やり取りは軽い。冗談交じりの、よくある会話。

武蔵「3年目社員研修疲れたな笑」
哲平「それな。この会社研修多すぎだよな笑」
武蔵「全然話変わるんだけど、呪霊苑っていう短編映画イベントに応募したくて、いいツテないかな?」
哲平「大学時代の友達にトモノリっていう映像作れるやついる!声かけてみる。」
武蔵「ありがとう!」

ここまでなら、普通だ。
“呪霊苑”というイベント名が妙に引っかかるが、ホラーイベントならそういう名前もある。
ただ、次の画面を見た瞬間、私は指が冷たくなった。

哲平「トモノリOKだって。あと、大学時代の後輩が演者手伝ってくれるって!」
武蔵「まじか!めっちゃ豪華になったな笑」
哲平「3月31日に俺の家で顔合わせ兼打ち合わせでどう?」
武蔵「OK!じゃあまた当日!」
哲平「(スタンプ)」

日付がある。
三月三十一日。

その数字が、黒い画面の白文字と結びつく。
映像の中に挟まっていた“黒幕”のカット――黒い背景に、白字で「3月31日」と表示される数秒の画面。
まるで番組のテロップだ。
この資料が、誰かに「編集された」形跡を持っていること。
そして、その編集が、“あとから作った作品”ではなく、“起きたことを作品の体裁に整えようとしている”ように見えること。
私は、それが一番怖かった。

さらに読み進めると、四月十日。

武蔵「そういえば、うちの地元に昔から幽霊屋敷って言われてる廃墟あるの思い出した。そこで探検するような撮影しない?」
トモノリ「いいね、そっちの方が良い絵が取れそう。」
夢乃「おっけー!あとでスケジュール決めよ!」
哲平「分かった~。てかあれから、家の中のあちこちで変な音がするんだけど。」
トモノリ「ネタにするから、動画回しといて笑」
哲平「ふざけんな笑」

“あれから”。
三月三十一日の「何か」の後から、哲平の家では変な音がする。
軽口のまま流されているが、ここに、裂け目がある。

私はSDカードに戻り、三月三十一日の映像を探した。
ファイル名は「meeting_0331」だった。
再生すると、部屋の中。テーブル。酒。笑い声。
画面の端に、カメラをいじる男――トモノリ。
哲平の家らしい。
そして、奇妙なことに、武蔵の姿だけが“映らない位置”に座っている。声はするのに、姿が定まらない。
偶然だろうか。
撮影の都合だろうか。
それでも私は、最初から“武蔵が中心にいながら中心から外れている”構図に、ぞくりとした。

彼らは乾杯し、雑談をし、ホラーのネタを探す。
夢乃は怖いのが苦手と言い、トモノリは撮影の締切を笑って心配する。
その中で、武蔵が言う。
「うちの地元で流行った、マンモ様ってのがあった」

――マンモ様。
音だけ聞けば、間抜けな響きだ。
だがその言葉を聞いた瞬間、映像の空気がわずかに変わる。
笑い声が一拍遅れ、哲平が「なにそれ」と聞き返す声のトーンが落ちる。
武蔵が“うろ覚えだけど”と言いながら、遊びの手順を説明する。
コップの水。逆さ鳥居。「天」の文字。蝋燭。電気を消す。
唱える言葉は「まんも様、天くだりんせ」。

ファイルは途中で一度切れ、次のファイルに続く。
部屋は暗い。蝋燭だけが揺れる。
スマホで撮っているのか、画質が荒く、明暗が暴れている。
哲平が唱える。三回。
息を吹き消す。
沈黙。
数秒、何も起きない――ように見える。

そして電気がつく。
コップの水が赤い。
一番に驚くのはトモノリ。
夢乃が声を上げ、哲平が固まる。
武蔵だけが、遠くに置いていた血糊に手を伸ばし、笑う。

「実はドッキリでした!!」

彼らは怒り、笑い、安心する。
「脅かすなよ」
「真面目に撮らないと間に合わん」
「また別日で」

――ここまで見れば、ただの悪ふざけだ。
問題は、私が見た“最初の呪符”と、この悪ふざけが、一本の線でつながってしまうことだ。

ドッキリは、何かを“信じる”気持ちの緩みを作る。
笑いと恐怖が隣り合う場で、心の防壁が薄くなる。
その薄くなった場所に、赤い字が差し込まれる。

私は呪符の静止画を拡大した。
線は、文字のようで、文字でない。
図形のようで、図形でない。
逆さ鳥居にも似ている。
「天」の字のような交差もある。
なのに、見ていると、視線が勝手に“読む”方向へ引っ張られる。

読めないのに、読んでしまう。

その瞬間、背後で、コツ、と小さな音がした。
私は振り返る。何もない。
机の下かと思い、視線を落とす。何も落ちていない。
けれど音だけが、確かに“そこにあった”。

私は耳を澄ませる。
静かだ。
窓の外の車の音も、遠い。
なのに、部屋のどこかで、もう一度、コツ、と鳴る。
今度は、少し湿った音に聞こえる。木と木が触れるというより、骨と骨がぶつかる音に近い。

不意に、哲平のLINEの文面が頭に浮かぶ。
「家の中のあちこちで変な音がするんだけど。」

私は思わず、SDカードを抜こうとして手を止めた。
馬鹿げている。偶然だ。
たまたま家鳴りがしただけだ。
そう思うのに、指が震えている。

もう一度、最初の黒い映像を再生する。
赤い呪符が、画面いっぱいに現れる。
今度は、さっきより長く見える。
時間は同じはずなのに。

赤い線の隙間に、何かがいる。
そう感じた瞬間、胃がきゅっと縮んだ。
見てはいけない、という直感が遅れてやってくる。
私は慌てて停止ボタンを押した。

黒い画面に戻る。
しばらく、私は動けなかった。
そして、気づく。

停止したはずなのに、ノイズが微かに鳴っている。
PCのスピーカーからではない。
部屋のどこかから。
蝋燭の火が消える直前の、あの、空気が吸い込まれる音に似ている。

私は、机の上のコップを見た。
入れていた水が、揺れていない。
なのに、水面に、ほんのわずか赤い影が映った気がした。

……ここまで書けば、私は自分が取り憑かれた人間みたいに見えるだろう。
けれど、この資料を受け取った瞬間から、私は“見てしまった側”になった。
見てしまった以上、もう、元には戻れない。

四人は、短編映画を作るために集まった。
最初は冗談で、遊びで、笑いながら。
その入口が、三月三十一日。
コップの水。逆さ鳥居。「天」。蝋燭。
そして、「まんも様、天くだりんせ」。

これは、導入だ。
呪いの本体は、まだ姿を見せていない。
けれど、もう“触れている”。
触れたまま、笑っている。

――次の映像には、黒い画面に白字で、別の日付が出る。
四月十七日。
そして、廃墟。

私は、その先を再生する前に、部屋の電気をもう一度つけ直した。
さっきから、何度も点けているのに。
点け直さずにはいられない。

その時、スマホが震えた。
通知。
知らない番号からの着信ではない。
ただ、画面に表示されていたのは、受信でも送信でもない、“未分類の音声ファイル”だった。

保存元は、SDカード。
今、私がPCに挿しているカードから、勝手にスマホに飛んでいる。

ファイル名は一文字だけ。
「天」

私は、その場で再生しなかった。
再生できなかった。
だが耳は、すでに聞いてしまっていた。
スマホの小さなスピーカーから漏れる、再生前のプレビュー音。
風の音。木が揺れる音。
そして、誰かが、裏手拍子を打つ音。

――コツ、コツ、コツ。

私は、SDカードを引き抜き、封筒に戻した。
封筒は湿っていた。
最初から。
それとも、今、湿ったのか。

それでも、私は書く。
なぜなら、これは“誰かに見せるための資料”として、最初からこちらへ投げ込まれたものだからだ。
誰かが、私に続きを見せたい。
私を通して、誰かに続きを渡したい。

そして、その誰かの名前は、最初から映っていない男――武蔵、なのだと。
私は、もう、そう思い始めている。