「えーっと、ここかな。」
誕生日から4日後。私はあの怪しげなバイトに来ていた。
「このビルに会議室なんてあったんだ。」
指定された会議室は、バ先の目の前にあるビルの7階にあった。いつもこのビルの前を通る時、こんな薄暗い所使う人いるのかなって思いながら見ていたがまさか自分が足を踏み入れるとは。人生とはなにが起こるかわからないものだ。
「小林さんですよね。お待ちしておりました。」
エレベーターで7階に上がり、着いた事をアプリ内のチャットで知らせるとすぐ会議室から優しそうな感じの男性が出てきた。入口で待っていたのではないかと思ってしまう程のスピードだった。
「小林です。本日はよろしくお願いします。」
「一次面接を担当します、上野と申します。こちらこそ本日はよろしくお願いします。」
丁寧に名刺まで渡されて、お金が貰えるから行くかーって適当な気分で来たのが申し訳なくなった。
「面接の前に、当社のホームページってご覧になりましたか?」
席に着くなり上野さんに聞かれた。
なにホームページって。ただ1時間話を聞くだけだと思って来たから見る訳ないじゃん。
「...はい!!」
けれどそう言えるはずもなく。元気よく返事した。これでなにか会社の事聞かれたら終わるなぁ。
「ありがとうございます!!なら仕事内容から話しますね。」
良かった、難を逃れた。こういう運だけはピカイチなのだ。
「求人にも記載がある通り、このバイトが採用された際には携帯会社のキャッチをしてもらいます。」
「あのショッピングモールとかでやってるやつですよね?」
「そうです!我々の会社の間に派遣会社が入り、場所は皆さんのご希望に添えるように割り振ります。」
あのショッピングモールでやってるイベントって、その携帯会社から来てる人だけじゃないんだ。
「最初はキャッチで頑張ってもらいますが、希望があればクローザーと言って商品説明をする人を目指す事も出来ます。そうすれば時給がキャッチより上がります。」
「おぉ、結構上がる。」
その金額をパソコンの画面で見せてくれたが、キャッチより500円も上がる。かなり魅力的だが、私は商品説明を出来る程口が回らない。キャッチで頑張ろう。
「結構キャッチからクローザーを目指す人多いんですよ。時給が上がりますからね。でもこれは自分の気が向いたらでいいので今はあまり考えなくて大丈夫です。」
「わかりました。」
「基本的にうちの会社はダブルワーク禁止とかはないんですけど、1つだけダメって言っている事があって。」
「なんでしょう。」
「この仕事と似たような仕事を現在しているかです。例えば携帯会社で働いているとか、他の派遣会社で働いているとか。大丈夫でしょうか。」
「働いてないです!ここの近くのレストランで働いてるだけなんで。」
言ってから聞かれてもない事を話してしまったと気づいた。どうしてもっと頭を使って発言しないのか。
「それなら大丈夫です!ちなみにこの近くのレストランってどこのですか?」
1人脳内反省会をしていると上野さんが聞いてきた。こんなポンコツな私の話を広げさせてしまった事を申し訳なく思う。
「駅ビルの中にある少しお高めのレストランです。」
「あそこですね。この前行きました!とても美味しかったです。」
「そうだったんですか!ありがとうございます。」
まさかお客さんだったとは。世間というのは広いようで狭い。
「レストランで働いてるって事は接客が得意そうですね。受け答えも明るくてしっかりしてますし。」
「いえいえそんな。」
ただノリと勢いで生きているだけなのにこんなに褒められていいのだろうか。
一瞬自惚れたがすぐに我に返った。
この人は私を褒めないといけないのだ。そうではないと働いてもらえないから。やはり私自身を褒めてくれる人などこの世に居ない。
「お世辞抜きでこの年代でこんなに受け答えしっかりしてる子出会った事ないです。」
「それは言い過ぎな気が...」
こんなに褒めちぎられると反応に困ってしまう。仕方ない、適当に笑っておこう。
「言い過ぎじゃないです。ぜひ小林さんみたいな方に働いてもらいたいと思うのですがどうですか?お返事はいつでも...」
「私でよければお願いします!」
上野さんの言葉を遮って承諾した。元々、ダブルワークをしようとしていたのだ。それが見つかり、しかも時給も高いなんて。いい事しかない。
「凄いやる気でこちらとしても推薦しやすいです。」
「推薦...?」
上野さんは首を傾げる私を見ながら優しく笑った。
「説明してなかったですね。今日の面接は一次面接なので、私の他に上の人とも面接をして欲しいのですが大丈夫でしょうか。」
「そこで最終的な採用が決まるのですが、私から小林さんをかなり推しておきます。なのでそんなに心配する必要はないかと。その際の交通費は支給します。」
「...わかりました!よろしくお願いします。」
また似たような話を聞くのは面倒臭いが、ほぼ確実に採用されるだろうし交通費も出るなら喜んで行く。
「上の者に伝えておきますね。面接の日程が決まり次第ご連絡します。LINE交換しても大丈夫でしょうか。」
「あ、はい、大丈夫です。」
連絡ってLINEでいいんだ。この会社、羽振りもいいし良い意味で色々適当だなぁ。
「もしなにかの都合で自体する場合もこちらにご連絡お願いします。」
「かしこまりました!」
「以上で終わりとなりますが質問等ありますか?」
「大丈夫です!」
質問等と言われて質問する人なんているのだろうか。いたらどんな質問をするのだろう。
「30分ぐらい時間余っちゃいましたね。今日この後の予定ってなにかあるんですか?」
「物件見に行く予約入れてます。」
「あ、そうだったんですね!大事な日に面接に来ていただきありがとうございます。」
「いえいえそんな!見に行ってもまだ借りるかわからないですし...」
私の気持ちだけで言うといい物件だったらすぐにでも借りたい。けれど借りるだけで終わりではない。そこで暮らしていかなければならないのだ。母親の事とか金銭的な事も解決しないといけない。
「そうだったとしてもその歳で自立しようと考えているのは立派です。」
「ありがとうございます...」
褒められてないからお礼が小さくなってしまった。お世辞だったとしても褒められて悪い気はしない。
「いい物件が見つかるといいですね。それじゃあ、早く終わりにしましょうか。勤怠はこちらの方で調整しますので安心してください。」
「わかりました!今日は色々ありがとうございました。これからよろしくお願いします。」
「こちらこそありがとうございます!帰り、お気を付けてくださいね。」
上野さんはエレベーター前まで見送ってくれた。
こんなに丁寧で優しい人の上にまだ人がいるなんて。下がこんなに人がいいって事は上もいい人なのだろう。
いやでも逆パターンもありえるか。優しくなくて厳しい。だから下は反面教師で優しいとか。そうだとしたら働くの怖いなぁ。
物事をすぐ悪い方向に考えるのは私の悪い癖だ。
でも仕方ないのだ。こうやって悪い方向に考えてないと本当にその出来事が悪い事だった時に立ち直れないから。最初から悪い事を想像しておけば被害も最小限で済む。
こんな風に物事を皮肉して考えないと生きられないなんて、我ながら悲しい人生だ。
次の面接を少し憂鬱に思っている間に不動産屋に着いた。
一旦面接の事を考えるのをやめ、家を見る事に集中しよう。これはこれで私の人生がかかっているのだから。
「こんにちは、本日はご予約されてますか?」
軽く深呼吸をしてからドアを開けると、感じの良さそうな女性が出迎えてくれた。
「はい、12時半で予約してます。小林です。」
「小林様...、はい、予約の確認が取れましたのでこちらのお席でお待ちください。ただいま担当の物を呼びます。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
案内された席に座り店内を見渡す。そんなに広くはないが全体が白を基調としており、机なども3個しかないからせまここしく感じない。それに今は私の他にお客さんがいないから尚更広く感じる。
土曜のお昼時なのに私以外にお客さんがいなくて大丈夫なのかと本気で心配に思ったのは内緒にしておこう。
「お待たせしました、本日はよろしくお願いします。」
ぼーっと壁に貼ってあるポスターを見ていると先程の感じの良さそうな女性とは一転、怖そうな男性がやってきた。
「よろしくお願いします。小林です。」
「早速ですけど小林さん、物件見に行きましょうか。」
「あ、はい!」
頭を下げると同時にそう言われ内心かなり驚いたが、持ち前の元気な返事で乗り切った。
「本日って何で来られました?」
「電車とバスです。」
「あ、なら駐車場の場所知らないんですね。案内するんで外出て待っててください。」
「はい。」
なんなのこの人。すっごく感じ悪。こんなんでよく不動産屋務まるな。そんな嫌な顔してお客さんの相手するなら辞めちまえよ。
心の中で罵詈雑言を並べた。これが本人に伝わなければ別にいいだろう。
「お待たせしました。行きましょう。」
裏口から出てきた男性は先を歩き始めた。歩くのが早いから少し走らないとついていけない。
そして一度もこちらを振り返らないが、私がちゃんとついてきてるか気にならないのか。なんでこんなに気遣いがない人がこの仕事やっているのだろう。
「ここが駐車場です。私の車で行くので後ろ乗ってください。」
「は、はい...」
久しぶりに激しく動いたから呼吸が辛い。飲み物持ってくれば良かった。でもまあ車に乗れば少し楽になるだろう。
そう思い車に乗り込むと、紙タバコの匂いが酷くて尚更体調が悪化した。人を乗せる予定があるなら車でタバコを吸うな。
「着きました。物件の近くに駐車場がないので少し歩きます。」
「わかりました。」
車から降りて歩く事2分。目的の物件に着いた。ほんとに少し歩くだけだった。
「小林さんが希望した物件、104号室なのですが大丈夫ですか。」
「特に数字などは気にしてないので大丈夫です。」
「そうですか。なら良かったです。」
4がつく部屋だから聞いてくれたのだろうが、そんな素っ気なく返事するなら聞いてくれなくてもいいのに。この人なんなの。
「中はこんな感じですね。」
「うわぁ...綺麗。」
とてもイライラしていたが、家の中を見たらそんなイライラは吹き飛んだ。
家の中は写真で見てた通り...いや、それ以上に綺麗で私が小さい頃から想像していた色味と配置の家だ。
ここに住みたい。ここで私だけの世界を作りたい。
「...ここって借りるとしたら初期費用、大体いくらぐらいかかりそうですか?」
そう思ったら考えるよりも先に口が動いていた。
「そうですね、色々計算しないと詳しい数字はわかりませんが多分20万前後だと思います。」
「私ここを借りたいって思うんですけど、18になったばかりじゃ審査通らないですかね。」
「正直厳しい所があると思います。バイトの勤務歴ってどれぐらいですか?」
「2年近かった気がします。」
「それならもしかしたら可能性があるかもしれないですね。それならもう戻って金額の計算や必要な書類を用意しましょうか。」
「はい、お願いします。」
この人のせっかちで心配りがない性格に腹が立っていたが、この時ばかりはこの人が私の担当で良かったと思えた。話が早い。
再び紙タバコの匂いがする車に乗り込んだが、興奮しているからか帰りはなんとも思わなかった。
「それでは、金額の計算をしてきますのでお掛けになってお待ちください。」
「はい。」
座って待っている間、緊張と誰にも相談せず家の契約をしようとしている事に対して罪悪感で胸の鼓動が脈打っていた。まだ暑い時期じゃないのに手汗が酷い。今この状況で誰かに手をとられたら確実に引かれそう。
「お待たせしました。金額の計算と必要な書類用意できました。」
「ありがとうございます。あの、料金ってどれぐらいでしょうか...?」
待ちきれなくて男性が座る前に聞いてしまった。すごく嫌な顔をされた気がしたがあんなに人に嫌な思いをさせたのだ。これぐらい許してくれ。
「敷金礼金なしで1ヶ月のフリーレントがつきますし、正直この物件早く埋めたいので端数はつけません。そんな感じの内訳で総額19万ですね。」
金額表を指さしながら説明してくれた。思っていたより安くて良かった。これならこの間作ったクレジットカードが届き次第、分割で払えそうだ。
それよりも気になる事がある。
「なんで早く埋めたいんですか?」
男性はこの物件を早く埋めたいと確かに言った。もしかして事故物件なのか?そういうの何も調べないでここいいなという直感で来てしまったからな。
まあだとしても見えない物は信じないタイプだから気にしないのだけれど。
「この物件、色んな不動産屋が出してるんですけどこの部屋だけずっと埋まらないんです。他の部屋は全部埋まっててこの部屋だけ埋まってないのは見栄えが良くないからと、内見に来た人が居たら絶対借りさせるようにしろと上司から圧をかけられてまして...」
まさかの見栄えが理由だった。事故物件より全然良いが、こんな丸裸に話してしまってこの人の今後は大丈夫なのだろうか。
「じゃあ私でも借りれますかね。」
「もうこの金額からはお安くなりませんが大丈夫でしょうか?」
遠回しに私に払えるのかって聞いてるのが伝わってきた。払えなかったらこんな野暮な質問しないのに。こういう一言余計な事言うからこの部屋だけ埋まらなかったのではないか。
「はい、金額はこれで大丈夫です。でも金額を払う前に借りる審査をしますよね?それが通るか不安です。」
腹が立ってはっきり金額は大丈夫と言ってやった。この人の態度には感謝したり腹が立ったりと感情が忙しい。
「やってみないとわからないとしか言えないです。」
「なら1回やってみてください。」
まだ色んな問題が山積みで審査を通すのはかなりリスクがある。もし審査に通ってしまえば、当たり前だがそこに引っ越して住まなければいけない。
けれど私の問題が解決するまでにこの家が誰かに借りられてしまうかもしれない。だったら1回やるだけやってみて、その後の事はその時の私が考えてくれる事を信じてやってみよう。やらないで後悔するよりやって後悔したい。私の座右の銘だ。
「わかりました、1回やってみます。でしたらここに名前と現住所等を書いてもらっていいですか?」
「わかりました。」
渡された紙とペンで自分の名前と現住所を記入していく。この現住所を覚えるのに時間かかったなぁ。次の所は早く覚えられるといいな。
まだ審査すら通してないのに感慨深くなっていると、ある欄で手が止まった。そしてまた鼓動が脈打って手汗が吹き出ている。
「あの、ここの連帯保証人の欄って書かないといけないですか?」
「そうですね、どなたか親族を1名お願いしています。」
どうしよう。これに名前を書いてしまえば私が家を借りる審査をしたってバレてしまうかもしれない。
確か家を借りる時に、審査会社から保証人に一報がいくってなにかで聞いた気がする。
やはり親に内緒で家を借りるなんて非道な事、するなって事かな。育ててもらった恩をあだで返すなって事かな。
「あれ、でもこの家保証会社通しますよね?それなのに保証人って要らなくないですか?」
心が悲しみで押しつぶされそうになっている時、突如思い出した。神なんてものは見えないから信じていないが、この時ばかりは神が思い出させてくれたと思った。
「あー、それは確かに...ちょっと確認してみます。」
「お願いします。」
保証会社の分も費用に含まれているのに保証人も必要なんて馬鹿な話、あってたまるか。危ない、騙される所だった。
「ちょっと本日、相手側がお休みを頂いておりまして...わかり次第ご連絡でも大丈夫でしょうか。」
裏に引っ込んだ男性が申し訳なさそうに言ってきた。この人にも申し訳ないという感情あるんだ。
「はい、大丈夫です。もしかしたら昼間はバイトしててすぐ出れないかもなんですけど、そうしたら折り返しします。」
「かしこまりました。では本日はありがとうございました。引き続きよろしくお願いします。」
「こちらこそありがとうございます。色々お手数をおかけしますがよろしくお願いします。」
丁寧に頭を下げて不動産屋をあとにした。
只今の時刻は14時。このまま家に帰ったら家の事をやらなければいけない。どこかで夕方ぐらいまで時間を潰したいが、時間を潰す程お金も持ってないし...。
「ただいまぁー」
考えた末に行き着いた答えは家に帰る事だった。
確定した訳ではないからまだ言わないが、一人暮らしをするというのを話さなければいけない日がくる。
絶対に反対されるしなんなら生きて引っ越せるかわからないからこそ、今は言う通りに動いて恩を売る作戦を実行する事にした。
「おかえりー、どうだった?」
手洗いうがいを済ませて今日の夕飯どうしようかなと冷蔵庫と睨めっこしていると、母親が話しかけにきた。母親には今日、スキマバイトに行くとだけ言っていた。
「なんか今日のは一次面接でさ、後日違う場所でもっと上の人と面接するんだって。」
「そんな会社あるんだ。なんの仕事だっけ。」
「ショッピングモールとかで携帯の勧誘してるじゃん?それをやる仕事。日給がめちゃくちゃ高い。」
「あぁ、私が引っかかりそうになるやつね。瑠奈にぴったりなんじゃない?」
「そう?」
私は別にこの仕事がやりたい訳ではない。お金が欲しいの一心で行って、たまたま一次面接が通っただけ。だから向いてると言われてもピンと来ない。
「瑠奈の接客はお客さんを第一に考えてるのが伝わってくるもの。出来るわよ。」
嬉しそうに目を細める母親を見て、こういう顔を私にも向けてくれる時があるから嫌いになりきれないのだろうなと思った。
ちなみに母親がこう言い切るのは多分私の接客を見ているから。たまに私の働いてる日にレストランに食事をしに来るのだ。値段が高いのに来るものだから心の中でだからお金ないんだよと思っているのは絶対にバレてはいけない。
「私よりもっと接客が上手な人はいるよ〜私なんてそういう人に比べたらまだまだ足元にも及ばないよ。」
私はせっかくの褒め言葉を素直に受け取れなかった。ここで受け取ってしまえば、なにかで口論して酷い言葉を浴びせられた時に立ち直れなくなってしまうから。私はそれで一度ダメになっている。同じ轍は踏まない。
「瑠奈はまだ18になったばかりなんだから大人と比べちゃダメよ。大人は人生経験が長いんだから出来て当たり前な部分もあるんだからね。」
「大人と比べたらそうかもしれないけどさ、同い年でも私より接客は上手な子もいるし。」
「大丈夫よ、瑠奈の接客も凄く上手だから。もっと自信持ちなさい。」
今日の母親は珍しく私を褒める。普段も否定ばかりではないが、ここまで私を褒めるのは半年に1回あるかないかなのに。
母親の顔をバレない程度にじっと見る。なんだか少しハイになっているような...。
「なんかいい事...」
なんかいい事あったのと聞こうとしてやめた。その理由が聞かずともわかってしまったから。
「んー?どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。あ、今日の夕飯ブリの照り焼きでもいい?」
「いいよ、よろしくね。その間私は洗濯物でも畳もうかな。」
「ありがとー」
母親がキッチンを出て行き、私は再び冷蔵庫を開けてブリを手に取る。
多分母親がハイになっている理由は4日前に私がお金を渡したからだ。今月の支払いの心配がなくなったから人に優しくする余裕が出来たのだろう。
父親や弟が母親の機嫌を損ねなければ、来月の支払いまでは調子が良いだろう。
今現在この家が安定しているのは自分で言うのもなんだが、私がお金等の事も含めて上手く取り繕ってるからだ。
もし私が家を出たら、母親の機嫌取りを誰がするのだろうか。あの二人が上手に出来るとは思えない。
「考える事が多すぎる...」
家庭の事や自分の将来の事。考える事が多すぎて頭がパンクしそうだ。
けれど人間は考える動物だ。考えるのをやめたら人間ではなくなってしまうと勝手に思っている。だからみんなにとっての最適解を考えなければ。
私さえ頑張れば全部上手くいく。他の人にはこんな胸が張り裂けそうな辛い思い、させたくない。
だから私が死ぬ気で頑張らないと。学もなくなにか秀でた才能もない私にはそれぐらいしか出来る事がないのだから。
そう自分を蔑む事を怒ってくれる人が現れるのを、この時の私はまだ知らない。
誕生日から4日後。私はあの怪しげなバイトに来ていた。
「このビルに会議室なんてあったんだ。」
指定された会議室は、バ先の目の前にあるビルの7階にあった。いつもこのビルの前を通る時、こんな薄暗い所使う人いるのかなって思いながら見ていたがまさか自分が足を踏み入れるとは。人生とはなにが起こるかわからないものだ。
「小林さんですよね。お待ちしておりました。」
エレベーターで7階に上がり、着いた事をアプリ内のチャットで知らせるとすぐ会議室から優しそうな感じの男性が出てきた。入口で待っていたのではないかと思ってしまう程のスピードだった。
「小林です。本日はよろしくお願いします。」
「一次面接を担当します、上野と申します。こちらこそ本日はよろしくお願いします。」
丁寧に名刺まで渡されて、お金が貰えるから行くかーって適当な気分で来たのが申し訳なくなった。
「面接の前に、当社のホームページってご覧になりましたか?」
席に着くなり上野さんに聞かれた。
なにホームページって。ただ1時間話を聞くだけだと思って来たから見る訳ないじゃん。
「...はい!!」
けれどそう言えるはずもなく。元気よく返事した。これでなにか会社の事聞かれたら終わるなぁ。
「ありがとうございます!!なら仕事内容から話しますね。」
良かった、難を逃れた。こういう運だけはピカイチなのだ。
「求人にも記載がある通り、このバイトが採用された際には携帯会社のキャッチをしてもらいます。」
「あのショッピングモールとかでやってるやつですよね?」
「そうです!我々の会社の間に派遣会社が入り、場所は皆さんのご希望に添えるように割り振ります。」
あのショッピングモールでやってるイベントって、その携帯会社から来てる人だけじゃないんだ。
「最初はキャッチで頑張ってもらいますが、希望があればクローザーと言って商品説明をする人を目指す事も出来ます。そうすれば時給がキャッチより上がります。」
「おぉ、結構上がる。」
その金額をパソコンの画面で見せてくれたが、キャッチより500円も上がる。かなり魅力的だが、私は商品説明を出来る程口が回らない。キャッチで頑張ろう。
「結構キャッチからクローザーを目指す人多いんですよ。時給が上がりますからね。でもこれは自分の気が向いたらでいいので今はあまり考えなくて大丈夫です。」
「わかりました。」
「基本的にうちの会社はダブルワーク禁止とかはないんですけど、1つだけダメって言っている事があって。」
「なんでしょう。」
「この仕事と似たような仕事を現在しているかです。例えば携帯会社で働いているとか、他の派遣会社で働いているとか。大丈夫でしょうか。」
「働いてないです!ここの近くのレストランで働いてるだけなんで。」
言ってから聞かれてもない事を話してしまったと気づいた。どうしてもっと頭を使って発言しないのか。
「それなら大丈夫です!ちなみにこの近くのレストランってどこのですか?」
1人脳内反省会をしていると上野さんが聞いてきた。こんなポンコツな私の話を広げさせてしまった事を申し訳なく思う。
「駅ビルの中にある少しお高めのレストランです。」
「あそこですね。この前行きました!とても美味しかったです。」
「そうだったんですか!ありがとうございます。」
まさかお客さんだったとは。世間というのは広いようで狭い。
「レストランで働いてるって事は接客が得意そうですね。受け答えも明るくてしっかりしてますし。」
「いえいえそんな。」
ただノリと勢いで生きているだけなのにこんなに褒められていいのだろうか。
一瞬自惚れたがすぐに我に返った。
この人は私を褒めないといけないのだ。そうではないと働いてもらえないから。やはり私自身を褒めてくれる人などこの世に居ない。
「お世辞抜きでこの年代でこんなに受け答えしっかりしてる子出会った事ないです。」
「それは言い過ぎな気が...」
こんなに褒めちぎられると反応に困ってしまう。仕方ない、適当に笑っておこう。
「言い過ぎじゃないです。ぜひ小林さんみたいな方に働いてもらいたいと思うのですがどうですか?お返事はいつでも...」
「私でよければお願いします!」
上野さんの言葉を遮って承諾した。元々、ダブルワークをしようとしていたのだ。それが見つかり、しかも時給も高いなんて。いい事しかない。
「凄いやる気でこちらとしても推薦しやすいです。」
「推薦...?」
上野さんは首を傾げる私を見ながら優しく笑った。
「説明してなかったですね。今日の面接は一次面接なので、私の他に上の人とも面接をして欲しいのですが大丈夫でしょうか。」
「そこで最終的な採用が決まるのですが、私から小林さんをかなり推しておきます。なのでそんなに心配する必要はないかと。その際の交通費は支給します。」
「...わかりました!よろしくお願いします。」
また似たような話を聞くのは面倒臭いが、ほぼ確実に採用されるだろうし交通費も出るなら喜んで行く。
「上の者に伝えておきますね。面接の日程が決まり次第ご連絡します。LINE交換しても大丈夫でしょうか。」
「あ、はい、大丈夫です。」
連絡ってLINEでいいんだ。この会社、羽振りもいいし良い意味で色々適当だなぁ。
「もしなにかの都合で自体する場合もこちらにご連絡お願いします。」
「かしこまりました!」
「以上で終わりとなりますが質問等ありますか?」
「大丈夫です!」
質問等と言われて質問する人なんているのだろうか。いたらどんな質問をするのだろう。
「30分ぐらい時間余っちゃいましたね。今日この後の予定ってなにかあるんですか?」
「物件見に行く予約入れてます。」
「あ、そうだったんですね!大事な日に面接に来ていただきありがとうございます。」
「いえいえそんな!見に行ってもまだ借りるかわからないですし...」
私の気持ちだけで言うといい物件だったらすぐにでも借りたい。けれど借りるだけで終わりではない。そこで暮らしていかなければならないのだ。母親の事とか金銭的な事も解決しないといけない。
「そうだったとしてもその歳で自立しようと考えているのは立派です。」
「ありがとうございます...」
褒められてないからお礼が小さくなってしまった。お世辞だったとしても褒められて悪い気はしない。
「いい物件が見つかるといいですね。それじゃあ、早く終わりにしましょうか。勤怠はこちらの方で調整しますので安心してください。」
「わかりました!今日は色々ありがとうございました。これからよろしくお願いします。」
「こちらこそありがとうございます!帰り、お気を付けてくださいね。」
上野さんはエレベーター前まで見送ってくれた。
こんなに丁寧で優しい人の上にまだ人がいるなんて。下がこんなに人がいいって事は上もいい人なのだろう。
いやでも逆パターンもありえるか。優しくなくて厳しい。だから下は反面教師で優しいとか。そうだとしたら働くの怖いなぁ。
物事をすぐ悪い方向に考えるのは私の悪い癖だ。
でも仕方ないのだ。こうやって悪い方向に考えてないと本当にその出来事が悪い事だった時に立ち直れないから。最初から悪い事を想像しておけば被害も最小限で済む。
こんな風に物事を皮肉して考えないと生きられないなんて、我ながら悲しい人生だ。
次の面接を少し憂鬱に思っている間に不動産屋に着いた。
一旦面接の事を考えるのをやめ、家を見る事に集中しよう。これはこれで私の人生がかかっているのだから。
「こんにちは、本日はご予約されてますか?」
軽く深呼吸をしてからドアを開けると、感じの良さそうな女性が出迎えてくれた。
「はい、12時半で予約してます。小林です。」
「小林様...、はい、予約の確認が取れましたのでこちらのお席でお待ちください。ただいま担当の物を呼びます。」
「あ、はい。ありがとうございます。」
案内された席に座り店内を見渡す。そんなに広くはないが全体が白を基調としており、机なども3個しかないからせまここしく感じない。それに今は私の他にお客さんがいないから尚更広く感じる。
土曜のお昼時なのに私以外にお客さんがいなくて大丈夫なのかと本気で心配に思ったのは内緒にしておこう。
「お待たせしました、本日はよろしくお願いします。」
ぼーっと壁に貼ってあるポスターを見ていると先程の感じの良さそうな女性とは一転、怖そうな男性がやってきた。
「よろしくお願いします。小林です。」
「早速ですけど小林さん、物件見に行きましょうか。」
「あ、はい!」
頭を下げると同時にそう言われ内心かなり驚いたが、持ち前の元気な返事で乗り切った。
「本日って何で来られました?」
「電車とバスです。」
「あ、なら駐車場の場所知らないんですね。案内するんで外出て待っててください。」
「はい。」
なんなのこの人。すっごく感じ悪。こんなんでよく不動産屋務まるな。そんな嫌な顔してお客さんの相手するなら辞めちまえよ。
心の中で罵詈雑言を並べた。これが本人に伝わなければ別にいいだろう。
「お待たせしました。行きましょう。」
裏口から出てきた男性は先を歩き始めた。歩くのが早いから少し走らないとついていけない。
そして一度もこちらを振り返らないが、私がちゃんとついてきてるか気にならないのか。なんでこんなに気遣いがない人がこの仕事やっているのだろう。
「ここが駐車場です。私の車で行くので後ろ乗ってください。」
「は、はい...」
久しぶりに激しく動いたから呼吸が辛い。飲み物持ってくれば良かった。でもまあ車に乗れば少し楽になるだろう。
そう思い車に乗り込むと、紙タバコの匂いが酷くて尚更体調が悪化した。人を乗せる予定があるなら車でタバコを吸うな。
「着きました。物件の近くに駐車場がないので少し歩きます。」
「わかりました。」
車から降りて歩く事2分。目的の物件に着いた。ほんとに少し歩くだけだった。
「小林さんが希望した物件、104号室なのですが大丈夫ですか。」
「特に数字などは気にしてないので大丈夫です。」
「そうですか。なら良かったです。」
4がつく部屋だから聞いてくれたのだろうが、そんな素っ気なく返事するなら聞いてくれなくてもいいのに。この人なんなの。
「中はこんな感じですね。」
「うわぁ...綺麗。」
とてもイライラしていたが、家の中を見たらそんなイライラは吹き飛んだ。
家の中は写真で見てた通り...いや、それ以上に綺麗で私が小さい頃から想像していた色味と配置の家だ。
ここに住みたい。ここで私だけの世界を作りたい。
「...ここって借りるとしたら初期費用、大体いくらぐらいかかりそうですか?」
そう思ったら考えるよりも先に口が動いていた。
「そうですね、色々計算しないと詳しい数字はわかりませんが多分20万前後だと思います。」
「私ここを借りたいって思うんですけど、18になったばかりじゃ審査通らないですかね。」
「正直厳しい所があると思います。バイトの勤務歴ってどれぐらいですか?」
「2年近かった気がします。」
「それならもしかしたら可能性があるかもしれないですね。それならもう戻って金額の計算や必要な書類を用意しましょうか。」
「はい、お願いします。」
この人のせっかちで心配りがない性格に腹が立っていたが、この時ばかりはこの人が私の担当で良かったと思えた。話が早い。
再び紙タバコの匂いがする車に乗り込んだが、興奮しているからか帰りはなんとも思わなかった。
「それでは、金額の計算をしてきますのでお掛けになってお待ちください。」
「はい。」
座って待っている間、緊張と誰にも相談せず家の契約をしようとしている事に対して罪悪感で胸の鼓動が脈打っていた。まだ暑い時期じゃないのに手汗が酷い。今この状況で誰かに手をとられたら確実に引かれそう。
「お待たせしました。金額の計算と必要な書類用意できました。」
「ありがとうございます。あの、料金ってどれぐらいでしょうか...?」
待ちきれなくて男性が座る前に聞いてしまった。すごく嫌な顔をされた気がしたがあんなに人に嫌な思いをさせたのだ。これぐらい許してくれ。
「敷金礼金なしで1ヶ月のフリーレントがつきますし、正直この物件早く埋めたいので端数はつけません。そんな感じの内訳で総額19万ですね。」
金額表を指さしながら説明してくれた。思っていたより安くて良かった。これならこの間作ったクレジットカードが届き次第、分割で払えそうだ。
それよりも気になる事がある。
「なんで早く埋めたいんですか?」
男性はこの物件を早く埋めたいと確かに言った。もしかして事故物件なのか?そういうの何も調べないでここいいなという直感で来てしまったからな。
まあだとしても見えない物は信じないタイプだから気にしないのだけれど。
「この物件、色んな不動産屋が出してるんですけどこの部屋だけずっと埋まらないんです。他の部屋は全部埋まっててこの部屋だけ埋まってないのは見栄えが良くないからと、内見に来た人が居たら絶対借りさせるようにしろと上司から圧をかけられてまして...」
まさかの見栄えが理由だった。事故物件より全然良いが、こんな丸裸に話してしまってこの人の今後は大丈夫なのだろうか。
「じゃあ私でも借りれますかね。」
「もうこの金額からはお安くなりませんが大丈夫でしょうか?」
遠回しに私に払えるのかって聞いてるのが伝わってきた。払えなかったらこんな野暮な質問しないのに。こういう一言余計な事言うからこの部屋だけ埋まらなかったのではないか。
「はい、金額はこれで大丈夫です。でも金額を払う前に借りる審査をしますよね?それが通るか不安です。」
腹が立ってはっきり金額は大丈夫と言ってやった。この人の態度には感謝したり腹が立ったりと感情が忙しい。
「やってみないとわからないとしか言えないです。」
「なら1回やってみてください。」
まだ色んな問題が山積みで審査を通すのはかなりリスクがある。もし審査に通ってしまえば、当たり前だがそこに引っ越して住まなければいけない。
けれど私の問題が解決するまでにこの家が誰かに借りられてしまうかもしれない。だったら1回やるだけやってみて、その後の事はその時の私が考えてくれる事を信じてやってみよう。やらないで後悔するよりやって後悔したい。私の座右の銘だ。
「わかりました、1回やってみます。でしたらここに名前と現住所等を書いてもらっていいですか?」
「わかりました。」
渡された紙とペンで自分の名前と現住所を記入していく。この現住所を覚えるのに時間かかったなぁ。次の所は早く覚えられるといいな。
まだ審査すら通してないのに感慨深くなっていると、ある欄で手が止まった。そしてまた鼓動が脈打って手汗が吹き出ている。
「あの、ここの連帯保証人の欄って書かないといけないですか?」
「そうですね、どなたか親族を1名お願いしています。」
どうしよう。これに名前を書いてしまえば私が家を借りる審査をしたってバレてしまうかもしれない。
確か家を借りる時に、審査会社から保証人に一報がいくってなにかで聞いた気がする。
やはり親に内緒で家を借りるなんて非道な事、するなって事かな。育ててもらった恩をあだで返すなって事かな。
「あれ、でもこの家保証会社通しますよね?それなのに保証人って要らなくないですか?」
心が悲しみで押しつぶされそうになっている時、突如思い出した。神なんてものは見えないから信じていないが、この時ばかりは神が思い出させてくれたと思った。
「あー、それは確かに...ちょっと確認してみます。」
「お願いします。」
保証会社の分も費用に含まれているのに保証人も必要なんて馬鹿な話、あってたまるか。危ない、騙される所だった。
「ちょっと本日、相手側がお休みを頂いておりまして...わかり次第ご連絡でも大丈夫でしょうか。」
裏に引っ込んだ男性が申し訳なさそうに言ってきた。この人にも申し訳ないという感情あるんだ。
「はい、大丈夫です。もしかしたら昼間はバイトしててすぐ出れないかもなんですけど、そうしたら折り返しします。」
「かしこまりました。では本日はありがとうございました。引き続きよろしくお願いします。」
「こちらこそありがとうございます。色々お手数をおかけしますがよろしくお願いします。」
丁寧に頭を下げて不動産屋をあとにした。
只今の時刻は14時。このまま家に帰ったら家の事をやらなければいけない。どこかで夕方ぐらいまで時間を潰したいが、時間を潰す程お金も持ってないし...。
「ただいまぁー」
考えた末に行き着いた答えは家に帰る事だった。
確定した訳ではないからまだ言わないが、一人暮らしをするというのを話さなければいけない日がくる。
絶対に反対されるしなんなら生きて引っ越せるかわからないからこそ、今は言う通りに動いて恩を売る作戦を実行する事にした。
「おかえりー、どうだった?」
手洗いうがいを済ませて今日の夕飯どうしようかなと冷蔵庫と睨めっこしていると、母親が話しかけにきた。母親には今日、スキマバイトに行くとだけ言っていた。
「なんか今日のは一次面接でさ、後日違う場所でもっと上の人と面接するんだって。」
「そんな会社あるんだ。なんの仕事だっけ。」
「ショッピングモールとかで携帯の勧誘してるじゃん?それをやる仕事。日給がめちゃくちゃ高い。」
「あぁ、私が引っかかりそうになるやつね。瑠奈にぴったりなんじゃない?」
「そう?」
私は別にこの仕事がやりたい訳ではない。お金が欲しいの一心で行って、たまたま一次面接が通っただけ。だから向いてると言われてもピンと来ない。
「瑠奈の接客はお客さんを第一に考えてるのが伝わってくるもの。出来るわよ。」
嬉しそうに目を細める母親を見て、こういう顔を私にも向けてくれる時があるから嫌いになりきれないのだろうなと思った。
ちなみに母親がこう言い切るのは多分私の接客を見ているから。たまに私の働いてる日にレストランに食事をしに来るのだ。値段が高いのに来るものだから心の中でだからお金ないんだよと思っているのは絶対にバレてはいけない。
「私よりもっと接客が上手な人はいるよ〜私なんてそういう人に比べたらまだまだ足元にも及ばないよ。」
私はせっかくの褒め言葉を素直に受け取れなかった。ここで受け取ってしまえば、なにかで口論して酷い言葉を浴びせられた時に立ち直れなくなってしまうから。私はそれで一度ダメになっている。同じ轍は踏まない。
「瑠奈はまだ18になったばかりなんだから大人と比べちゃダメよ。大人は人生経験が長いんだから出来て当たり前な部分もあるんだからね。」
「大人と比べたらそうかもしれないけどさ、同い年でも私より接客は上手な子もいるし。」
「大丈夫よ、瑠奈の接客も凄く上手だから。もっと自信持ちなさい。」
今日の母親は珍しく私を褒める。普段も否定ばかりではないが、ここまで私を褒めるのは半年に1回あるかないかなのに。
母親の顔をバレない程度にじっと見る。なんだか少しハイになっているような...。
「なんかいい事...」
なんかいい事あったのと聞こうとしてやめた。その理由が聞かずともわかってしまったから。
「んー?どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。あ、今日の夕飯ブリの照り焼きでもいい?」
「いいよ、よろしくね。その間私は洗濯物でも畳もうかな。」
「ありがとー」
母親がキッチンを出て行き、私は再び冷蔵庫を開けてブリを手に取る。
多分母親がハイになっている理由は4日前に私がお金を渡したからだ。今月の支払いの心配がなくなったから人に優しくする余裕が出来たのだろう。
父親や弟が母親の機嫌を損ねなければ、来月の支払いまでは調子が良いだろう。
今現在この家が安定しているのは自分で言うのもなんだが、私がお金等の事も含めて上手く取り繕ってるからだ。
もし私が家を出たら、母親の機嫌取りを誰がするのだろうか。あの二人が上手に出来るとは思えない。
「考える事が多すぎる...」
家庭の事や自分の将来の事。考える事が多すぎて頭がパンクしそうだ。
けれど人間は考える動物だ。考えるのをやめたら人間ではなくなってしまうと勝手に思っている。だからみんなにとっての最適解を考えなければ。
私さえ頑張れば全部上手くいく。他の人にはこんな胸が張り裂けそうな辛い思い、させたくない。
だから私が死ぬ気で頑張らないと。学もなくなにか秀でた才能もない私にはそれぐらいしか出来る事がないのだから。
そう自分を蔑む事を怒ってくれる人が現れるのを、この時の私はまだ知らない。



