『名前と声を伏せたまま、私たちは繋がっている』

 七月中旬、学校の昼休み。
 昼休みを告げるチャイムが鳴った。

 クラスの中では、友達同士が寄り添い、お弁当を食べる準備をしている。教室はガヤガヤと騒がしく、楽しそうな声で満ちていた。

 杏瑞は一人、周囲に目も向けず、お弁当箱を取り出していた。

 高校に入るまで『いじめ』にあっていたこともあり、自分から声をかけて友達を作ろうとはしなかった。
 その結果、彼女は自ら『孤立』を選んでいた。
 自分が話すと『周囲の空気が悪くなる』と感じていたこともあり、クラスでは一切しゃべらなかった。

 ただ、不思議なことに、高校に入ってからは『いじめ』られることはなくなったが、いままで通り『孤立』はしていた。
『私には[MMモバイル]の繋がりがある』――それだけが、今の杏瑞の支えだった。

 お弁当箱の包みを開け、食べようとした、その時。
 廊下側のドアの方から、大きな声が聞こえてきた。

「安房《あわ》、いる?」

 他のクラスから来た男子生徒が、目の前にいた女子生徒に声をかけていた。
 だが、その声はクラス中に響くほど大きく、数人の生徒が振り返った。

 杏瑞も、その声の大きさに反応して、ちらりと視線を向けたが、すぐに視線を戻し、食べる準備を続けた。

 男子生徒は「あ、いたいた。ありがとう」と、自分で見つけたにもかかわらず、目の前の女子生徒に礼を言い、教室に入ってきた。

「ちょろぎ隊長、言文の教科書、貸して」

 彼は、杏瑞の後ろの席にいる安房に話しかけた。


『!!!!』


 杏瑞は、心臓が止まるかと思うほど、激しく驚いた。

「その呼び方、やめろって」

 安房が、冷たい口調で釘を刺す。

「いいじゃん、隊長〜。貸してよ。カバンに入れたつもりだったんだけど、なくてさー」

「だから、やめろって」

 文句を言いながらも、安房は言文の教科書を差し出した。

「サンキュー! これ、返すの明日でもいい?」

 杏瑞には、それ以降の会話が、一切耳に入ってこなかった。

(え……!? 安房くんが『ちょろぎさん』!?)

(まさか……そんな偶然、あるわけ……)

(でも……はっきり『ちょろぎ隊長』って言ってた……)

 自分でも分かるほど、心臓がバクバクと音を立てていた。

 あまりの衝撃に、箸を落としてしまった。

「あっ、……は、はし……」

(落としちゃった……)

 席を立ち、震えながら箸を拾う。その流れで、思わず安房の顔を見てしまった。

 視線が合った。杏瑞は、さらに動揺する。

 安房は「ん?」と、不思議そうな顔で杏瑞を見ていた。

 杏瑞は「何でもない」と言うように、ぶんぶんと首を振った。

 椅子に腰を下ろし、必死に呼吸を整える。

「ふぅ……ふぅ……」

 肩を大きく上下させていた、その時。

「奈々原《ななはら》……これ」

 不意に背後から声がして、杏瑞はびくりと肩を跳ねさせた。
 おそるおそる振り返る。

「これ……箸、落としただろ。余ってるから」

 安房は、袋に入った割り箸を、杏瑞に差し出していた。

「あ、あ……あ、あり、がっ、とう……」

 差し出した杏瑞の両手は、震えていた。

「大丈夫か? 手、震えてるけど」

 その様子を見て、安房は『余計なことをしたかな』と一瞬、後悔したが
「嫌なら、自分の箸を洗ってきてもいいけど」

 そう言って、半ば押し付けるように、箸を渡した。

 杏瑞は、安房との短いやり取りだけで、パニック寸前だった。

 受け取った箸を、両手で胸に押し当て、何度も深く頭を下げる。

 震える手のまま、お弁当を口に運んだ。


 …………味は、まったく分からなかった。