車庫では昼間の勤務を終えた同僚たちが乗務したタクシーを洗っていた。照度の低い蛍光灯でも車体が黒光りしているのがわかる。会社の洗車機を使わず、丁寧に手拭きをしている者がほとんどだ。感心しながら事務所へと歩を進める。
ドアを開くと、夜間勤務のドライバーらがパチンコ、スロット、競馬などギャンブルの話題で歓談していた。今日は月曜日だから迎車の客が少ないのだろう。五時にも関わらず、一同に焦りの表情は微塵もない。夜間専門の勤務形態はよくわからない。私は、朝から夕方まで、夕方から深夜まで、夕方から翌朝まで走ったあとは休み、翌日も休みを繰り返す、「交番」と呼ばれる勤務形態だ。ほぼ三勤二休なので、週に一日しか休みのない昼と夜のドライバーよりは健康的な働き方だ。ギャンブル狂たちに適当に挨拶しながら、日付と運転者名、安全運転目標を運転日報に書き込む。逃げるようにその場を離れ、アルコールチェックと体温測定をし、運行管理者に提出した。
「えーと、ケンサク君ね。体調はいいね。競馬のほうはどう?」
「複勝転がしでチビチビ稼いでますよ」
運転日報に押印してもらうと、タクシーのエンジンをかけ、ガスの残量、ライト、ブレーキランプ、左右ウインカー、ハザードランプ、エンジンオイル、ラジエーター液を確認した。入社五年目だが、まだオンボロ車しか乗せてもらえない。総走行距離一二〇万キロ、コラム式マニュアルトランスミッションという旧車だ。早く自由になりたかったので、個別無線を手に取った。
「えー、一〇七、開局お願いします」
『一〇七、了解。行ってらっしゃい』
出庫して公道に出ると、亜細亜駅には向かわず、亜細亜県庁のほうへと車を走らせた。夜間専門のドライバーは個人で客を抱えている者が多く、配車指示に従わない傾向がある。駅に行ってしまえば、五分もせずに配車指示があるだろう。「交番」ドライバーは配車室に忠実な者がやるものだが、私はそうではない。私が逃げるのを配車室も知っているので、すぐに指示を飛ばしてくるかと不安だった。が、月曜日の夕刻ということもあってか、無事に県庁に到着した。
県庁の待機所は、亜細亜市内の全社共通ルールがある。それは必ずエンジンを切ること。県が立て看板まで設置して呼びかけているのだから仕方がない。エンジンを切ってしまえば、配車指示はない。それに、夕方の県庁からタクシーに乗る客は皆無だ。庁舎からぞろぞろと出てくる無能な職員たちを眺めながら、ノンアルコールビールで抗不安薬を三錠飲んだ。かなり強い薬だが、長年の使用で耐性がついてしまっている。二〇錠くらい飲んでも平気ではある。が、節約しなければすぐになくなる。昼間は服用せずともよいが、薬なしで夜の客を相手にしていては精神が崩壊してしまう。
日が暮れて亜細亜城がライトアップされた。気分もまずまずよくなった。センターコンソールに後付けされたドリンクホルダーへノンアルコールビールを置くと、今年で三十九歳になる同い年の相棒に架電した。
「よう、ヒナタ。今日は全然だめだろ?」
『は? おまえのせいで、もう六本も走ったぞ! 俺はこれからビール飲んでどっか逃げるからな。月曜なのに多すぎるわ。亜細亜県民はマジでゴミだぜ』
「僕もゴミは早く滅亡しろと切に願ってる。まあ、任せろ。どっかで一杯やっとけ」
我が社では、「交番」ドライバーは二人一組と決まっている。夜間専門が配車室の言うことを聞かないということもあるが、平日は一時や二時で切り上げるドライバーが多い。それ以降の時間は、よほどの頑張り屋でないかぎり入庫してしまう。配車室にとっては、三時が終業時間の私たちが頼みの綱だ。とはいえ、私たちのほかに翌朝七時まで勤務する二人組がいる。いわば、最後の砦だ。明日はヒナタとともに砦を守らねばならない。憂鬱になった。抗不安薬を追加服用して亜細亜駅に向かった。
まだ八時だったので、駅構内の待機所ではタクシーの行列ができていた。酔っ払いよりシラフのサラリーマンを乗せたかった。最後尾に並び、レジスター横のタッチパネルに触れ、「待機」を押した。前方を確認すると、我が社の行灯が六つ見えた。配車指示は待機順に出されるから、のんびりできそうだった。駅から乗る客もいないらしく、車列が動かない時間が四〇分続いた。車から降りて、ストレッチをしていると、前のドライバーが降車して煙草を吸いだした。退屈だったので、私も煙草に火を付けると話しかけた。
「お疲れさんです。動かないですね」
「動かんなあ。でも、おたくの会社は配車があるでしょ?」
「ありますけど、ワンメーターばっかりですよ。さっきまで県庁に逃げてましたし」
「あんた、そんなにサボるもんじゃないぞ。魔の霧が終わってもこの有り様だからな」
「そうですよね。あっ、乗った!」
私たちは煙草を足で踏み潰すと、車を一台分、前進させた。また待機地獄が続くのかとシートを倒した。すると、我が社の車が次々と車列から抜けていった。配車で抜けたのだろう。これはまずいとシートを戻して前方を見た。我が社の行灯は見えなかった。観念して駅周辺の行人を見ていたら、ピコンピコンという音とともにタッチパネルに配車指示が表示された。パネルに触れ、客の確認をした。
『東横イン前 イサム様』
マスクを着けると、ギアを一速に入れ、ゆっくりと車列から離れた。イサムは、ワンメーターなうえに電子決済で領収書を要求するゴミだった。行き先は決まって亜細亜イオン。歩いていけと何度も憤慨したこと数知れない。捨て鉢な気分で東横インに横付けし、イサムを乗せた。わざと大きなため息をつきながら、急発進した。いつも急かしてくるので、今日はかなり速度を出した。従業員入口前で車を停め、料金メーターを切った。
「ペイペイで。あと、領収書」
「すみません。領収書は現金じゃないと出せませんので。未収書を出しますね。経理の方に渡せば大丈夫です」
「領収書は出せるでしょ。スーパーとか出してるでしょ」
スーパーやコンビニはレシートと一緒に「お客さま控え」という名の証書を発行する。レシートと控えのどちらが未収書の役割を果たしているのかはわからない。原則的に現金払いでなければ領収書を発行することはできない。なかなか理解してくれる客はいないが、受け取ってない金銭の証明はできない。それをすると発行者が罪に問われる。これまで見逃してきてやったが、今日こそはゴミに天誅を下す。私は事情をイサムに丁寧に説明したが、ゴミの脳みそには理解できなかったようだった。
「では、私が罪を犯すところを警察に見てもらいますので、110番しますね。イサムさんも警察から話を訊かれると思います」
私はスマホを制服のポケットから取り出すと、「110」とタップしてイサムの眼前に近づけた。
「じゃ、押しますね」
「いいよ。遅刻する。つーか、もう遅刻だよ。早く紙くれ」
「安心してください。罪に問われるのは私ですから」
「もういいって言ってんだろうが!」
イサムは未収書をひったくると物凄い速さで従業員入口へと消えていった。
その後、私は八本走った。酔っ払いばかりだったが、全員現金で支払った。日付が変わり、二時五〇分になっていた。駅に戻ると、構外待機所でヒナタが煙草を吸っていた。ヒナタの車の後ろに停め、彼にイサムに裁きを下したと話した。
「あいつか。舐めてるよな。クレカ使うサラリーマンも無知だからな」
「それな。ゴミばっかりだぜ。亜細亜はいちど滅びたほうがいい。それより、酒は抜けたか?」
「完全に抜けてる。さっさと帰ろうぜ」
ヒナタはすでに運転日報を書き終えたらしく、すぐに帰って行った。たった九本では体裁が悪いため、すべての客の乗車時間と降車時間を改ざんした。運転日報の改ざんは当たり前に行われているので問題ない。よく働く人ほど改ざんしている。なぜなら、法律で定められている休憩時間を必ず入れないといけないからだ。もう退社した先輩だが、一日に四〇本走ったと言うので、運転日報を見せてもらった。十五キロはあるだろう距離を八分で移動していた。残りの三十九本もおよそ車では考えられない所要時間ばかりだった。改ざんを終わらせ、時刻を確認すると、すでに三時を過ぎていた。駅構内に若い男女らしき姿が見えた。こっちに来られて乗車となると面倒だ。急いで個別無線を口元に近づけた。
「えー、一〇七、閉局お願いします」
『一〇七、了解。お疲れさまでした』
ほとんど仕事をしていないつもりだったが、目がチカチカしていた。ドリンクホルダーからノンアルコールビールを手に取り、残りを一気に飲み干した。
ドアを開くと、夜間勤務のドライバーらがパチンコ、スロット、競馬などギャンブルの話題で歓談していた。今日は月曜日だから迎車の客が少ないのだろう。五時にも関わらず、一同に焦りの表情は微塵もない。夜間専門の勤務形態はよくわからない。私は、朝から夕方まで、夕方から深夜まで、夕方から翌朝まで走ったあとは休み、翌日も休みを繰り返す、「交番」と呼ばれる勤務形態だ。ほぼ三勤二休なので、週に一日しか休みのない昼と夜のドライバーよりは健康的な働き方だ。ギャンブル狂たちに適当に挨拶しながら、日付と運転者名、安全運転目標を運転日報に書き込む。逃げるようにその場を離れ、アルコールチェックと体温測定をし、運行管理者に提出した。
「えーと、ケンサク君ね。体調はいいね。競馬のほうはどう?」
「複勝転がしでチビチビ稼いでますよ」
運転日報に押印してもらうと、タクシーのエンジンをかけ、ガスの残量、ライト、ブレーキランプ、左右ウインカー、ハザードランプ、エンジンオイル、ラジエーター液を確認した。入社五年目だが、まだオンボロ車しか乗せてもらえない。総走行距離一二〇万キロ、コラム式マニュアルトランスミッションという旧車だ。早く自由になりたかったので、個別無線を手に取った。
「えー、一〇七、開局お願いします」
『一〇七、了解。行ってらっしゃい』
出庫して公道に出ると、亜細亜駅には向かわず、亜細亜県庁のほうへと車を走らせた。夜間専門のドライバーは個人で客を抱えている者が多く、配車指示に従わない傾向がある。駅に行ってしまえば、五分もせずに配車指示があるだろう。「交番」ドライバーは配車室に忠実な者がやるものだが、私はそうではない。私が逃げるのを配車室も知っているので、すぐに指示を飛ばしてくるかと不安だった。が、月曜日の夕刻ということもあってか、無事に県庁に到着した。
県庁の待機所は、亜細亜市内の全社共通ルールがある。それは必ずエンジンを切ること。県が立て看板まで設置して呼びかけているのだから仕方がない。エンジンを切ってしまえば、配車指示はない。それに、夕方の県庁からタクシーに乗る客は皆無だ。庁舎からぞろぞろと出てくる無能な職員たちを眺めながら、ノンアルコールビールで抗不安薬を三錠飲んだ。かなり強い薬だが、長年の使用で耐性がついてしまっている。二〇錠くらい飲んでも平気ではある。が、節約しなければすぐになくなる。昼間は服用せずともよいが、薬なしで夜の客を相手にしていては精神が崩壊してしまう。
日が暮れて亜細亜城がライトアップされた。気分もまずまずよくなった。センターコンソールに後付けされたドリンクホルダーへノンアルコールビールを置くと、今年で三十九歳になる同い年の相棒に架電した。
「よう、ヒナタ。今日は全然だめだろ?」
『は? おまえのせいで、もう六本も走ったぞ! 俺はこれからビール飲んでどっか逃げるからな。月曜なのに多すぎるわ。亜細亜県民はマジでゴミだぜ』
「僕もゴミは早く滅亡しろと切に願ってる。まあ、任せろ。どっかで一杯やっとけ」
我が社では、「交番」ドライバーは二人一組と決まっている。夜間専門が配車室の言うことを聞かないということもあるが、平日は一時や二時で切り上げるドライバーが多い。それ以降の時間は、よほどの頑張り屋でないかぎり入庫してしまう。配車室にとっては、三時が終業時間の私たちが頼みの綱だ。とはいえ、私たちのほかに翌朝七時まで勤務する二人組がいる。いわば、最後の砦だ。明日はヒナタとともに砦を守らねばならない。憂鬱になった。抗不安薬を追加服用して亜細亜駅に向かった。
まだ八時だったので、駅構内の待機所ではタクシーの行列ができていた。酔っ払いよりシラフのサラリーマンを乗せたかった。最後尾に並び、レジスター横のタッチパネルに触れ、「待機」を押した。前方を確認すると、我が社の行灯が六つ見えた。配車指示は待機順に出されるから、のんびりできそうだった。駅から乗る客もいないらしく、車列が動かない時間が四〇分続いた。車から降りて、ストレッチをしていると、前のドライバーが降車して煙草を吸いだした。退屈だったので、私も煙草に火を付けると話しかけた。
「お疲れさんです。動かないですね」
「動かんなあ。でも、おたくの会社は配車があるでしょ?」
「ありますけど、ワンメーターばっかりですよ。さっきまで県庁に逃げてましたし」
「あんた、そんなにサボるもんじゃないぞ。魔の霧が終わってもこの有り様だからな」
「そうですよね。あっ、乗った!」
私たちは煙草を足で踏み潰すと、車を一台分、前進させた。また待機地獄が続くのかとシートを倒した。すると、我が社の車が次々と車列から抜けていった。配車で抜けたのだろう。これはまずいとシートを戻して前方を見た。我が社の行灯は見えなかった。観念して駅周辺の行人を見ていたら、ピコンピコンという音とともにタッチパネルに配車指示が表示された。パネルに触れ、客の確認をした。
『東横イン前 イサム様』
マスクを着けると、ギアを一速に入れ、ゆっくりと車列から離れた。イサムは、ワンメーターなうえに電子決済で領収書を要求するゴミだった。行き先は決まって亜細亜イオン。歩いていけと何度も憤慨したこと数知れない。捨て鉢な気分で東横インに横付けし、イサムを乗せた。わざと大きなため息をつきながら、急発進した。いつも急かしてくるので、今日はかなり速度を出した。従業員入口前で車を停め、料金メーターを切った。
「ペイペイで。あと、領収書」
「すみません。領収書は現金じゃないと出せませんので。未収書を出しますね。経理の方に渡せば大丈夫です」
「領収書は出せるでしょ。スーパーとか出してるでしょ」
スーパーやコンビニはレシートと一緒に「お客さま控え」という名の証書を発行する。レシートと控えのどちらが未収書の役割を果たしているのかはわからない。原則的に現金払いでなければ領収書を発行することはできない。なかなか理解してくれる客はいないが、受け取ってない金銭の証明はできない。それをすると発行者が罪に問われる。これまで見逃してきてやったが、今日こそはゴミに天誅を下す。私は事情をイサムに丁寧に説明したが、ゴミの脳みそには理解できなかったようだった。
「では、私が罪を犯すところを警察に見てもらいますので、110番しますね。イサムさんも警察から話を訊かれると思います」
私はスマホを制服のポケットから取り出すと、「110」とタップしてイサムの眼前に近づけた。
「じゃ、押しますね」
「いいよ。遅刻する。つーか、もう遅刻だよ。早く紙くれ」
「安心してください。罪に問われるのは私ですから」
「もういいって言ってんだろうが!」
イサムは未収書をひったくると物凄い速さで従業員入口へと消えていった。
その後、私は八本走った。酔っ払いばかりだったが、全員現金で支払った。日付が変わり、二時五〇分になっていた。駅に戻ると、構外待機所でヒナタが煙草を吸っていた。ヒナタの車の後ろに停め、彼にイサムに裁きを下したと話した。
「あいつか。舐めてるよな。クレカ使うサラリーマンも無知だからな」
「それな。ゴミばっかりだぜ。亜細亜はいちど滅びたほうがいい。それより、酒は抜けたか?」
「完全に抜けてる。さっさと帰ろうぜ」
ヒナタはすでに運転日報を書き終えたらしく、すぐに帰って行った。たった九本では体裁が悪いため、すべての客の乗車時間と降車時間を改ざんした。運転日報の改ざんは当たり前に行われているので問題ない。よく働く人ほど改ざんしている。なぜなら、法律で定められている休憩時間を必ず入れないといけないからだ。もう退社した先輩だが、一日に四〇本走ったと言うので、運転日報を見せてもらった。十五キロはあるだろう距離を八分で移動していた。残りの三十九本もおよそ車では考えられない所要時間ばかりだった。改ざんを終わらせ、時刻を確認すると、すでに三時を過ぎていた。駅構内に若い男女らしき姿が見えた。こっちに来られて乗車となると面倒だ。急いで個別無線を口元に近づけた。
「えー、一〇七、閉局お願いします」
『一〇七、了解。お疲れさまでした』
ほとんど仕事をしていないつもりだったが、目がチカチカしていた。ドリンクホルダーからノンアルコールビールを手に取り、残りを一気に飲み干した。



