蝶々結び

陽向先生side――。



「うーん、橘さんって、なんだか面白い人だな。」

 夜勤明けのナースステーションを出て、廊下に一人残った彼は、コツコツと廊下に響く靴の音を弾ませて小さくつぶやいた。
 真面目で、冷静で、いつも周囲に流されない。
 でも――ときどき、あの穏やかな瞳の奥に、誰にも近づけさせないように火が灯る。

 正直わりと叱られたのに、何故だか不思議と心地がよかった。
 誰かにあんなふうに真っすぐ言われたのは、いつ以来だろうか。

 「(……ああいう人、いいな。)」

 そう思った瞬間から"橘 結衣"という、ひとりの女性のことが頭の隅から離れなくなっていた。







 翌日。
 いつも通りの朝の申し送りが終わり、
 看護師たちの軽快な声が飛び交う中、陽向はカルテを片手に病棟を巡っていた。

 ふと視線を上げると、ナースステーションの奥で彼女が黙々とデータを打ち込んでいるのが見えた。
 時折、さらりと頬にかかる髪を耳にかけ、キーボードを打ちながら集中しているその横顔に惹き付けられる。
凛とした瞳に、綺麗に整えられたまつげが伸びている。
伏せ目がちの目が、何だか憂いを帯びていて…
素直に、"綺麗だな。"と感じた。
 少しの隙もないように見えて、それがまた気になって目がはなせないくらいに、自然と心を動かして、惹きつけられていく。
ふわふわとなにも考えずに飛んでいた一匹の蝶が、あるとき道端に凛と咲いていた美しい花に引き寄せられてとまるなんて…そんなことがあるのだろうか。

 「おはようございます、橘さん。」

 声をかけると、彼女は軽く振り向き、いつもの落ち着いた声で返した。

 「おはようございます。」

 たったそれだけ。
 けれど、その短い会話が妙に嬉しかった。

 彼女の視界に映る自分が、なんだか特別な存在になったような気がして…声を聞くたびに、胸の奥で小さな火が灯っていく。







 「……あれ?橘さん、朝から真面目ちゃんモード?」

 なんて、軽口を叩いてみたりして。
気を引きたいなんて、中学生みたいな発想でも、
ただ純粋に彼女の反応が見たかっただけで。
 彼女は頭にはてなが浮かんでいるのか、少し不思議そうな表情をした後、眉を寄せてため息をひとつはいた。

 「…いつも真面目ですけど。」

 「へえ?僕の知ってる橘さんは、もうちょっと清々しい!The クール!なイメージだけどなぁ。」

 「それって…、結局の所褒めてるんですか?」

彼女は、ちらっとパソコンの電子カルテに視線を移し、器用に記録の作業を進めている。
時折聞こえるタイピングの音が、穏やかな音楽を奏でているようだった。

 「もちろん。……でも、そのクールさが崩れるところ、ちょっと見てみたくなるけどね。」

彼女にしか聞こえない声の大きさで、こっそりからかって囁いてみる。
 その瞬間、彼女の掴んでいるマウス手がぴたりと止まった。
 キーボードを打つ指先がほんの一瞬だけぴくりと揺れる。


 ――あ、動揺してる。


( 意外とわかりやすい性格なのか…。)

 「……っ、何ですかそれ。」

直ぐにこちらを振り向いた彼女の、微かに揺れ動いた瞳をみて、ドキリとしてしまっている自分の心臓の音に気付かないふりをして。

 「ははっ、冗談。」

 そんな些細な心の音を、彼女に気付かれないようにいつもみたく軽く笑いながら、カルテに視線を戻すふりをして。

 彼女がうっすらと頬を染めているのを、見逃さないように視界に入れる、そんな自分はなんて"狡い人間"なのだろうか。
美しい花に引き寄せられた一匹の蝶も、そんな狡さを持ち合わせていたりして。

(あぁ、でも…。)
(可愛いな…なんて。)







 それから数日。

 結衣は相変わらず冷静沈着だった。
 でも、少しずつ慣れてきたのか時々こちらの冗談に少しだけ頬が緩むこともあった。
 それが妙に嬉しくて、つい話しかける回数が増える。

 気づけば、彼女の笑顔を引き出すことが、毎日のちいさな目標になっていた。







 昼休み。

 廊下を歩いていた結衣の前に、突然、紙コップが差し出された。

 「はい。ミルクティー、糖分補給。」

 「えっ…、私に、ですか?」

 「昨日、夜勤明けで顔色悪かったから。ちょっと休憩しなよ。」

 「…陽向先生、"意外と"気が利く人なんですね。」

 「“意外と”って何。」

 「だって、患者さんには“優しい爽やかドクター”なのに、私にはちょっと意地悪ですから。」

 その言葉に、陽向は思わず口角を上げる。

 「だって、橘さんには"優しい"、“爽やか”だけじゃ通じなさそうだから。」

 「……どういう意味ですか?」

 「そのまんま。君には、少し意地悪なくらいがちょうどいい気がする。」

 「……っ!」

 彼女は視線を逸らし、ミルクティーを両手で包み込んだ。
 カップの中の揺れるミルクティーを見つめながら、頬がほんのり赤く染まっている。

 (ああ、このまま、ずっと見ていたい――。)








 その日の午後、回診中。

 ナースステーションに戻ると、彼女の同僚の柚希が陽向の前に飛び出してきた。

 「お疲れさまですっ、陽向先生~!今日も爽やかご馳走さまです~!そういえば、さっき橘さんがすっごく真剣な顔で患者さんにインスリンの指導してて、もうこれがまた“できる女”って感じで超女前だったんですよ~!」

 「へぇ、そうなんだ。橘さんて、本当に患者さん思いだよね。頼もしいな。」

そう適当に、さらっと終わらす会話だと思っていた筈なのに。
柚希は少しニヤリとしながら、ゆっくりとわざとらしく口角をあげている。

 「そうそう!でも陽向先生って、橘さんと話す時だけ声が柔らかいですよね~?」


ドキリ。

 「ははっ……気のせいだよ。」

 とっさに笑って誤魔化すが、胸の奥がずっとざわざわしている。

 ――自分でも気が付いている。

 病棟の看護師たちは仕事上、観察力もながけている為か人の些細な変化に敏感で、特に勘も鋭い。
 けれど、それを気にするよりも、彼女の存在が自分の中でどんどん大きくなっていくことの方が怖かった。