ナースステーションに戻った結衣は、静かに息を吐いた。
背中に疲労が重くのしかかる。
陽向先生がカルテを書きながら、ぽつりと呟いた。
「……焦ったな。あんなに痛がるとは。」
「早い対応でした。助かりました。」
「いや、橘さんのおかげだよ。コールも的確だったし。」
「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
他の病棟で何かあったんですか?」
声のトーンは冷静。けれど、胸の奥には小さな苛立ち。
陽向先生は一瞬目を瞬かせ、それから少し照れ笑いを浮かべた。
「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」
――は?
――寝落ち?
その一言が、思いのほか強く響いた。
「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
当直の間は、気を引き締めてくださいね。」
口調が少し強くなってしまう。
だが、陽向先生は怒ることもなく、柔らかい目で結衣を見つめた。
「うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。気をつけるよ。」
その優しい声に、怒る気持ちはどこかへ消えてしまう。
――憎めない人。まるで太陽みたいに、すべてを溶かしていく。
「……お疲れ様でした。」
そう言って背を向けた瞬間。
「――あ、ちょっと待って。」
手首を軽く掴まれた。
驚いて振り向くと、陽向先生が少し真剣な顔をしていた。
「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」
その言葉に、息が詰まる。
手のひらから伝わる温もり。心臓の鼓動がうるさく響く。
「いえ……仕事ですので。」
努めて冷静に返すと、彼はすぐに手を離した。
「あ、ごめん。引き止めちゃったね。」
笑顔。
いつもの柔らかい笑顔なのに――なぜだろう。
今夜は少しだけ、違って見えた。
ナースステーションに戻る途中、掴まれていた腕をそっと押さえる。
まだ熱い。
――なんで、こんなに熱いの。
夜が明けた。
窓の外は、淡いオレンジの光で満たされていた。
休憩室では、柚希がカフェオレを両手に持って欠伸をしている。
「ねえ結衣、陽向先生ってさ、なんか天然っぽくない?」
「そうかもね。」
「でも、あの笑顔反則だよ。つい許しちゃう感じ?」
「はは……そうかもね。」
“つい許しちゃう”――その言葉が胸に残る。
まさに、そうだった。
「でもさ、結衣があんな真剣に注意してたの、ちょっと新鮮だったよ。
陽向先生、結衣のこと気にしてたよ?」
「……気のせいでしょ。」
「ほんとに?名前もちゃんと覚えてたし。」
「業務上、当然じゃない。」
少し語気が強くなった。
それ以上話すと、何かが溢れ出してしまいそうで。
柚希はにやりと笑いながらカフェオレをすすった。
「ま、今に見てなって。春は恋の季節だよ~?」
「……そういうの、もういいってば。」
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。
風に流されて、ひとひらがガラスに貼り付き、すぐに離れていく。
――この気持ちは、何なんだろう。
もう恋なんてしないって、あの日決めたのに。
陽向先生の笑顔を思い出すたび、
胸の奥の糸が、少しずつほどけていく。
でも、結んではいけない。もう二度と。
――なのに。
その糸は、彼の声ひとつで、また静かに動き出してしまう。
春の夜の病院。
白い廊下の先で、結衣は立ち止まる。
ガラス越しに見える外の桜が、街灯の下で淡く光っていた。
「……陽向先生って…なんだか眩しい人だな。」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。
まっすぐで、爽やかで、誰からも愛される人。
そんな人に、自分は縁がない――そう思っていたのに。
気づけば、また目で追ってしまっている。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
それなのに、人生の糸はいつだって思い通りには結べない。
桜の花びらが一枚、風に乗って夜空へ舞い上がる。
――それはまるで、ほどけた糸が再び結び直されようとしているようだった。
背中に疲労が重くのしかかる。
陽向先生がカルテを書きながら、ぽつりと呟いた。
「……焦ったな。あんなに痛がるとは。」
「早い対応でした。助かりました。」
「いや、橘さんのおかげだよ。コールも的確だったし。」
「……でも、陽向先生、電話出るの遅かったですよね。
他の病棟で何かあったんですか?」
声のトーンは冷静。けれど、胸の奥には小さな苛立ち。
陽向先生は一瞬目を瞬かせ、それから少し照れ笑いを浮かべた。
「ああ、ごめん。ちょっと仮眠室で寝落ちしてて……気づかなかったんだ。」
――は?
――寝落ち?
その一言が、思いのほか強く響いた。
「陽向先生、お疲れなのはわかりますけど、いつ急変してもおかしくない患者さんもいるんです。
当直の間は、気を引き締めてくださいね。」
口調が少し強くなってしまう。
だが、陽向先生は怒ることもなく、柔らかい目で結衣を見つめた。
「うん。ごめんね。橘さんにも迷惑かけた。気をつけるよ。」
その優しい声に、怒る気持ちはどこかへ消えてしまう。
――憎めない人。まるで太陽みたいに、すべてを溶かしていく。
「……お疲れ様でした。」
そう言って背を向けた瞬間。
「――あ、ちょっと待って。」
手首を軽く掴まれた。
驚いて振り向くと、陽向先生が少し真剣な顔をしていた。
「橘さんがいてくれて助かった。本当に、ありがとう。」
その言葉に、息が詰まる。
手のひらから伝わる温もり。心臓の鼓動がうるさく響く。
「いえ……仕事ですので。」
努めて冷静に返すと、彼はすぐに手を離した。
「あ、ごめん。引き止めちゃったね。」
笑顔。
いつもの柔らかい笑顔なのに――なぜだろう。
今夜は少しだけ、違って見えた。
ナースステーションに戻る途中、掴まれていた腕をそっと押さえる。
まだ熱い。
――なんで、こんなに熱いの。
夜が明けた。
窓の外は、淡いオレンジの光で満たされていた。
休憩室では、柚希がカフェオレを両手に持って欠伸をしている。
「ねえ結衣、陽向先生ってさ、なんか天然っぽくない?」
「そうかもね。」
「でも、あの笑顔反則だよ。つい許しちゃう感じ?」
「はは……そうかもね。」
“つい許しちゃう”――その言葉が胸に残る。
まさに、そうだった。
「でもさ、結衣があんな真剣に注意してたの、ちょっと新鮮だったよ。
陽向先生、結衣のこと気にしてたよ?」
「……気のせいでしょ。」
「ほんとに?名前もちゃんと覚えてたし。」
「業務上、当然じゃない。」
少し語気が強くなった。
それ以上話すと、何かが溢れ出してしまいそうで。
柚希はにやりと笑いながらカフェオレをすすった。
「ま、今に見てなって。春は恋の季節だよ~?」
「……そういうの、もういいってば。」
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。
風に流されて、ひとひらがガラスに貼り付き、すぐに離れていく。
――この気持ちは、何なんだろう。
もう恋なんてしないって、あの日決めたのに。
陽向先生の笑顔を思い出すたび、
胸の奥の糸が、少しずつほどけていく。
でも、結んではいけない。もう二度と。
――なのに。
その糸は、彼の声ひとつで、また静かに動き出してしまう。
春の夜の病院。
白い廊下の先で、結衣は立ち止まる。
ガラス越しに見える外の桜が、街灯の下で淡く光っていた。
「……陽向先生って…なんだか眩しい人だな。」
誰にも聞こえない小さな声で呟く。
まっすぐで、爽やかで、誰からも愛される人。
そんな人に、自分は縁がない――そう思っていたのに。
気づけば、また目で追ってしまっている。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
それなのに、人生の糸はいつだって思い通りには結べない。
桜の花びらが一枚、風に乗って夜空へ舞い上がる。
――それはまるで、ほどけた糸が再び結び直されようとしているようだった。



