蝶々結び

午後のオリエンテーションでは、医局長が新しい医師たちを紹介した。
 白衣の列の中で、医師の陽向碧は一歩下がって静かに立っていた。
 派手さはない。けれど、爽やかでどこか安心感を与える存在だった。

「陽向先生は、内科一般と循環器を担当してもらいます。若いけど優秀ですよ。」
 医局長の言葉に、周囲がどよめく。

 陽向は軽く頭を下げ、控えめに微笑んだ。
 結衣はその様子を見て、ふと心が温かくなるのを感じた。

 ――あの穏やかさと爽やかな感じ、なんだろう。

 気がつくと、目が彼を追っていた。







 翌日――。

 内科病棟の朝はいつもより賑やかだった。
 新人医師たちが挨拶に回り、看護師たちはそれを見てひそひそと話している。

「ねぇねぇ、陽向先生って、なんか爽やかで優しそうだよね!」
「わかるー! あの話し方、柔らかくて好き!」
「ね、あの人、結衣の担当チームになるんじゃない?」

「えっ?」
 思わず振り向くと、師長が書類を手にこちらを見ていた。

「橘さん、陽向先生のチームね。よろしく頼むわ。」

「……わかりました。」

 そう言いながらも、胸の鼓動が少しだけ早くなる。







 昼過ぎ、初めてのチーム回診。

 陽向先生は患者一人ひとりに優しく声をかけ、カルテを丁寧に読み込む。
 医師らしい落ち着きの中に、どこか人間味があった。

「どうですか、息苦しさは?」
「だいぶ楽になりました。先生のおかげです。」

「よかった。じゃあ、今日の午後もう一回検査して、様子見ましょう。」

 その笑顔に、患者だけでなく結衣も少し心が和らぐ。

 思わず口元がゆるんだのを、陽向が見逃さなかった。

「橘さんて、そんな優しい顔されるんですね。」

「え?……」

「僕、緊張してるから助かります。看護師さんが穏やかだと、安心するんですよ。」

 そう言って笑う彼の目がまっすぐで、少しだけ照れくさかった。







 回診のあと、ナースステーションで書類を整理していると、陽向先生がそっと声をかけてきた。

「橘さん、さっきの患者さん、呼吸状態安定してたけど、夜にもう一度確認お願いしていい?」

「はい、もちろんです。」

「ありがとう。……あ、そうだ。」

 陽向は少しだけ視線を落とし、窓の外を見た。

「桜、もう散っちゃいそうだね。」

「ええ……今年は、風が強いですから。」

「よかったら明日、少しだけ見に行きませんか? 病院の裏の遊歩道、夕方すごく綺麗ですよ。」

 一瞬、言葉が出なかった。
 胸の奥に、久しく感じていなかった“風”が吹いた気がした。

 けれど、結衣はすぐに笑って誤魔化した。

「ありがとうございます。でも、明日夜勤なんです。」

「あ、そっか。じゃあまた別の日に。無理しないでね。」

 そう言って去っていく背中を見つめながら、結衣は小さく息をついた。

 ――この人、なんでこんなに自然なんだろう。

 警戒も、遠慮も、優しさの押し付けもない。
 ただ、まっすぐに「一緒に見たい」と言われた。
 それだけなのに、胸が少し熱くなった。








 夜。

 ナースステーションの窓から外を見ると、風に乗って桜が舞っていた。
 街灯の下で、花びらが光の粒のように揺れている。

 ――春って、どうしてこんなに切なく感じるんだろうね。

 あのときの陽向の声が、頭の奥でやさしく響く。

 そして、心のどこかで何かが静かにほどけた気がした。

 恋なんて、もうしない。
 そう決めたはずなのに。

 ほんの少しだけ――春の風が、結衣の心に吹き込み始めていた。