蝶々結び

 空がすっかり秋色に染まっていた。
 高く澄んだ空に、金木犀の香りがふわりと流れる。
 結衣は白衣の袖をたたみながら、ひとつ小さく息をついた。
"今日も一日おつかれさま。"
 誰もいないナースステーションで、自分にそう言い聞かせる。

 あれから――外来で抱きついた“あの日”の噂は、ようやく落ち着いてきた。
 それでも時々、患者さんにからかわれる。
「橘さん、彼氏陽向先生なんでしょ~?ドラマみたいねぇ?」
「ち、ちがっ……いえ、その……」
 声を上げると、同僚たちがくすっと笑う。

 でも、恥ずかしいのに――心の奥があたたかい。
 誰かに“好きな人がいる”って知られることが、こんなにも胸をくすぐるなんて。

 陽向先生もよくからかわれていた。
「陽向先生~、橘さんと結婚はいつですか?」
「ははっ、そんなに急かさないでくださいよ。」
 彼はいつもの穏やかな笑顔で答えていたけれど、
 その時だけ、ほんの少し照れて目をそらす――その仕草がたまらなく愛おしかった。

 そんな穏やかな秋の日。
 勤務が終わるころ、陽向先生が白衣の襟を整えながら結衣に言った。

「ねぇ、橘さん。今度の休み、空いてる?」
「え? あ、はい……。特に予定は……」
「よかった。結衣の誕生日、ちゃんとお祝いしたい。僕と出かけよう?」

「……えっ、誕生日……」
 すっかり忘れていた言葉に、心臓が跳ねた。

「え、でも……そんな、大げさにしなくても……。」
「大げさじゃないよ。僕にとっては特別な日だから。」
「え……どうして……?」
「だって、結衣がこの世界に生まれてきて、僕にとっても特別で大切な日だから。」

 ――その瞬間、時間が止まったようだった。
 心臓が、ゆっくり、でも確かに熱を帯びていく。

「……っ……そ、そんなこと、言って……」
「言うよ。だって本当のことだからね。」
 彼の声は低く、優しく笑った。
 まるで秋の夕方の光そのものだった。