あれから三年が経った。
時間というのは、残酷でもあり、優しくもある。
あの日、泣きながら髪を切った自分が、今ではもう遠い誰かのことのように思える。
鏡の中の自分は、少し大人びていた。
頬の線がわずかに引き締まり、短い髪が動くたびに光を反射する。
泣き虫で臆病だった新人看護師は、もういない。
橘 結衣。
今は都内の総合病院に勤務している。
内科病棟での勤務にも慣れ、ナースステーションの雰囲気にも溶け込んでいた。
朝の申し送りを終えると、端末を片手に病室を回る。
電子カルテの光が頬に反射し、患者の体温やバイタルを確認する。
ベッドサイドでは、消毒液の匂いとモニターの規則正しい電子音。
どれも、彼女の日常に溶け込んでいる音だった。
かつてはひとつひとつに緊張していた。
でも今では、自然と体が動く。
看護師として、ようやく「仕事」と呼べるようになった。
それでも、夜勤明けの静かな病棟で、窓の外を眺めていると、時々胸の奥がひやりとする瞬間がある。
――あの人の背中を、ふと思い出してしまうのだ。
"恋愛"
それはもう、遠い出来事。
結衣はもう三年間、恋というものをしていなかった。
いや――"しない"と決めたのだ。
仕事に集中していれば、誰かを想う時間も、心が揺れる瞬間もない。
恋は、心に風を吹き込むようなもの。
でもその風は、時に冷たく、痛くて深い爪痕を残していく。
だから、もう必要ない。
そう思っていた。
休憩室――。
「結衣ー! 聞いてる? またボーっとしてたでしょ?」
明るい声が飛んできた。
顔を上げると、同期の神谷 柚希(カミヤ ユズキ)が立っていた。
黒髪を高めに結い上げ、いつも元気いっぱい。
同じ病棟で働く彼女は、明るくて、面倒見のいい人気者だった。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた。」
「また? どうせ“人生とは”とかわけわかんない哲学でもしてたんでしょ。」
「……まあ、そんな感じ。」
柚希はため息をつきながら、紙コップのお茶を差し出す。
湯気がふわりと結衣の頬に触れた。
「もうさ、結衣ってほんと真面目なんだから。いい加減、誰か紹介しようか?」
「この前も紹介してもらったじゃん。優しい人だったけど……なんか違うなって思って。」
「“なんか違う”って便利な言葉よね〜。でもメール途絶えてたじゃん、あの人。」
「そうだね。自然消滅。ごめんね、せっかく紹介してくれたのに。」
「いいのいいの。結衣が幸せならそれで。ていうか、恋愛しない宣言ってまだ続行中?」
結衣は苦笑いして、カップの縁を指でなぞった。
「うん。たぶん、今の自分が楽なの。恋愛って、心が忙しくなるじゃない?」
「ふーん、でも結衣の“恋してる顔”も見てみたいけどなー。」
「なにそれ、やめてよー。」
柚希はにやにや笑いながら、肘で結衣をつついた。
「ま、いいけどさ。春だし、出会いの季節ってやつだよ? 新人の先生たちとか、内科医でけっこうイケメンいるらしいよ。」
「先生達……?」
「そう。今日の午後、オリエンテーションあるでしょ。楽しみにしときなって!」
その時はただの冗談だと思っていた。
――まさか、その中に“あんな人”がいるなんて。
結衣はまだ、想像もしていなかった。
午後の外来が終わる頃――。
ナースステーションに、穏やかなざわめきが広がっていた。
新人医師の配属が正式に発表される日。
内科・外科・小児科……それぞれの部署に新しい顔ぶれが加わる春は、毎年どこかお祭りのような空気に包まれる。
結衣は仕事を終え、カルテを整理しながら、ふと窓の外に目を向けた。
病院の裏手には小さな川が流れ、両岸には満開の桜。
風に乗って花びらが舞い、陽の光を受けてきらめいていた。
「綺麗……」
思わずつぶやく。
その瞬間、背後から静かな声が返った。
「春って、どうしてこんなに切なく感じるんだろうね。」
驚いて振り向くと、そこに一人の男性が立っていた。
白衣を身にまとい、黒髪をやや無造作に整えた青年。
穏やかな目元と柔らかな微笑み。
背が高く、どこか落ち着いた空気を纏っていた。
「すみません、驚かせました? 僕、今日から内科病棟に配属された医師の陽向 碧(ヒナタ アオイ)です。」
その声は、柔らかく心に染み込むようだった。
結衣は思わず姿勢を正し、軽く会釈する。
「橘 結衣です。内科病棟の看護師です。よろしくお願いします。」
「橘さん、よろしくお願いします。……ここの桜、すごく綺麗ですね。」
「はい。毎年この時期になると、川沿いがピンクでいっぱいになるんです。患者さんたちもこの窓から眺めるのを楽しみにしてて。」
「へぇ、そうなんですか。なんか、いいな。病院って無機質な印象があるけど、ここは少し優しい感じがする。」
そう言って笑う彼の横顔に、光が跳ねた気がした。
名前の通り――“陽”のような人。
その明るさに、胸の奥が少しだけざわめく。
時間というのは、残酷でもあり、優しくもある。
あの日、泣きながら髪を切った自分が、今ではもう遠い誰かのことのように思える。
鏡の中の自分は、少し大人びていた。
頬の線がわずかに引き締まり、短い髪が動くたびに光を反射する。
泣き虫で臆病だった新人看護師は、もういない。
橘 結衣。
今は都内の総合病院に勤務している。
内科病棟での勤務にも慣れ、ナースステーションの雰囲気にも溶け込んでいた。
朝の申し送りを終えると、端末を片手に病室を回る。
電子カルテの光が頬に反射し、患者の体温やバイタルを確認する。
ベッドサイドでは、消毒液の匂いとモニターの規則正しい電子音。
どれも、彼女の日常に溶け込んでいる音だった。
かつてはひとつひとつに緊張していた。
でも今では、自然と体が動く。
看護師として、ようやく「仕事」と呼べるようになった。
それでも、夜勤明けの静かな病棟で、窓の外を眺めていると、時々胸の奥がひやりとする瞬間がある。
――あの人の背中を、ふと思い出してしまうのだ。
"恋愛"
それはもう、遠い出来事。
結衣はもう三年間、恋というものをしていなかった。
いや――"しない"と決めたのだ。
仕事に集中していれば、誰かを想う時間も、心が揺れる瞬間もない。
恋は、心に風を吹き込むようなもの。
でもその風は、時に冷たく、痛くて深い爪痕を残していく。
だから、もう必要ない。
そう思っていた。
休憩室――。
「結衣ー! 聞いてる? またボーっとしてたでしょ?」
明るい声が飛んできた。
顔を上げると、同期の神谷 柚希(カミヤ ユズキ)が立っていた。
黒髪を高めに結い上げ、いつも元気いっぱい。
同じ病棟で働く彼女は、明るくて、面倒見のいい人気者だった。
「ごめん、ちょっと考えごとしてた。」
「また? どうせ“人生とは”とかわけわかんない哲学でもしてたんでしょ。」
「……まあ、そんな感じ。」
柚希はため息をつきながら、紙コップのお茶を差し出す。
湯気がふわりと結衣の頬に触れた。
「もうさ、結衣ってほんと真面目なんだから。いい加減、誰か紹介しようか?」
「この前も紹介してもらったじゃん。優しい人だったけど……なんか違うなって思って。」
「“なんか違う”って便利な言葉よね〜。でもメール途絶えてたじゃん、あの人。」
「そうだね。自然消滅。ごめんね、せっかく紹介してくれたのに。」
「いいのいいの。結衣が幸せならそれで。ていうか、恋愛しない宣言ってまだ続行中?」
結衣は苦笑いして、カップの縁を指でなぞった。
「うん。たぶん、今の自分が楽なの。恋愛って、心が忙しくなるじゃない?」
「ふーん、でも結衣の“恋してる顔”も見てみたいけどなー。」
「なにそれ、やめてよー。」
柚希はにやにや笑いながら、肘で結衣をつついた。
「ま、いいけどさ。春だし、出会いの季節ってやつだよ? 新人の先生たちとか、内科医でけっこうイケメンいるらしいよ。」
「先生達……?」
「そう。今日の午後、オリエンテーションあるでしょ。楽しみにしときなって!」
その時はただの冗談だと思っていた。
――まさか、その中に“あんな人”がいるなんて。
結衣はまだ、想像もしていなかった。
午後の外来が終わる頃――。
ナースステーションに、穏やかなざわめきが広がっていた。
新人医師の配属が正式に発表される日。
内科・外科・小児科……それぞれの部署に新しい顔ぶれが加わる春は、毎年どこかお祭りのような空気に包まれる。
結衣は仕事を終え、カルテを整理しながら、ふと窓の外に目を向けた。
病院の裏手には小さな川が流れ、両岸には満開の桜。
風に乗って花びらが舞い、陽の光を受けてきらめいていた。
「綺麗……」
思わずつぶやく。
その瞬間、背後から静かな声が返った。
「春って、どうしてこんなに切なく感じるんだろうね。」
驚いて振り向くと、そこに一人の男性が立っていた。
白衣を身にまとい、黒髪をやや無造作に整えた青年。
穏やかな目元と柔らかな微笑み。
背が高く、どこか落ち着いた空気を纏っていた。
「すみません、驚かせました? 僕、今日から内科病棟に配属された医師の陽向 碧(ヒナタ アオイ)です。」
その声は、柔らかく心に染み込むようだった。
結衣は思わず姿勢を正し、軽く会釈する。
「橘 結衣です。内科病棟の看護師です。よろしくお願いします。」
「橘さん、よろしくお願いします。……ここの桜、すごく綺麗ですね。」
「はい。毎年この時期になると、川沿いがピンクでいっぱいになるんです。患者さんたちもこの窓から眺めるのを楽しみにしてて。」
「へぇ、そうなんですか。なんか、いいな。病院って無機質な印象があるけど、ここは少し優しい感じがする。」
そう言って笑う彼の横顔に、光が跳ねた気がした。
名前の通り――“陽”のような人。
その明るさに、胸の奥が少しだけざわめく。



