蝶々結び

日勤終了後の病院の玄関――。

西日がガラス越しに差し込む廊下。
勤務を終えて帰ろうとした結衣は、玄関の自動ドアの前で誰かに名前を呼ばれた。

「――結衣。」

足が止まる。
その声を、耳が覚えていた。

振り向くと、そこには白衣を脱ぎ、スーツ姿の早瀬隼人が立っていた。
陽光が彼の横顔を柔らかく照らしている。
かつて恋をしていた頃と、何も変わらない笑み。

「……早瀬先生。」

できるだけ感情を抑えて、冷静に返す。
けれど声の奥が震えていた。

「ごめん。こんなところで。
どうしても、結衣と話したかったんだ。少しだけ時間、もらえないかな。」

真っ直ぐな目。
逃げ場をなくすような静かなまなざしに、結衣は息をのんだ。
心のどこかで――向き合わなければいけないと、わかっていた。

「……わかりました。」







早瀬先生と結衣は喫茶店に来ていた。

カップの中で氷が静かに音を立てる。
店内は少し薄暗く、窓から射す夕日が、テーブルに淡い橙色を落としていた。

重い沈黙を破ったのは、早瀬先生だった。

「結衣。……俺、あの日のこと、ずっと謝りたかったんだ。」

その声は、昔よりも落ち着いて聞こえた。

「俺、あのとき自分の行動に責任を持てていなかった。
仕事の忙しさとか、人間関係とか……色んな言い訳をして、結果的に結衣を傷つけてしまった。
若い看護師に揺らいだのも事実だ。
あんなの、本当の恋じゃなかった。
ただ逃げてたんだ。……本当に、ごめん。」

誠意のこもった声だった。
嘘もごまかしもない、真っ直ぐな謝罪。

結衣はしばらく黙っていた。
心の奥に、当時の痛みがふわりと浮かび上がる。
夜勤明けの病棟で、彼の背中を見送ったときのあの虚しさ。
“好き”という言葉が、まるで消耗品みたいに軽く聞こえたあの瞬間。

でも――今の彼の表情は違っていた。
少し皺が増え、目の奥に穏やかな影を宿していた。

「早瀬先生……。」

口を開こうとしても、言葉が続かない。
胸の奥で、絡まっていた糸がほどけていくような感覚。
それは悲しみでも憎しみでもなく、ただ静かな“終わり”の予感。

「けど…、あのときは本当に、結衣が好きだったよ。」
早瀬先生は苦笑いを浮かべながら言った。
「こんなこと言っても信じてもらえないと思うけど……
今もって聞かれたら、まあ…、実際そうなんだけどさ。
もう一度君に伝える権利は、僕にはもうないってわかってる。
だけど――」

「……ごめんなさい。」

結衣の言葉が、その告白をやわらかく遮った。
早瀬先生の目が、驚きに少しだけ見開かれる。

「今の早瀬先生の気持ちには、答えられません。
でも……私も。あの頃は、本当に早瀬先生が好きでしたよ。」

静かに、でも確かに。
その言葉を口にした瞬間、結衣の表情にふわりと微笑みが浮かんだ。

窓から差し込む夕日が、結衣の髪を淡く照らし、
その光の中で彼女の笑顔はどこまでも優しく見えた。

「……そっか。」
早瀬先生は少しうつむいて、微笑んだ。
「結衣、変わったね。
あ、いい意味で、だけど。」

「ありがとうございます。」

その短い会話の中で、確かにひとつの季節が終わった。
もう戻らない、でも確かにあった二人の時間。
蝶々結びのように結ばれていた想いは、
いま、静かにほどけて――ふわりと風に溶けていく。

店の外には、夜の気配が少しずつ広がっていた。