蝶々結び【完結】


 “知り合い”――その響きが胸に刺さる。
 結衣は唇を噛みしめ、ほんの少し視線を落とした。

 嘘をつけば簡単だ。
 「はい、前の病院の先生です」と言えば済む。
 でも――陽向先生の前では、それができない。
 彼の目は、いつも真っ直ぐで、優しくて、嘘を許さないほど透明だから。

 静かな沈黙が数秒続く。
 そして、結衣は小さく息を吸い込んだ。

「……実は……前に陽向先生に話していた、
 私が前の病院で一緒に働いていた“元恋人”なんです。」

 その言葉を口にした瞬間、
 空気が少しだけ重くなった気がした。
 陽向先生の手が一瞬止まり、
 そして――驚いたように目を見開く。

「えぇ!? あの人が、そうなの?!」

 思っていたより大きな声に、結衣は少し肩をすくめた。
 けれど、彼の反応はどこか素直で、少し可笑しかった。

「そ、そんなに驚かなくても……」

「いや、だってさ……あんな人だったなんて、想像してなかったよ!」

 陽向先生は、しばらく考えるように天井を見上げ、
 腕を組んでうなずいた。

「うーん……まあ、顔が良いのは認めるとして……。
 僕と全然タイプ似てないね!」

「え!? そっちですか!?」
 思わずツッコミを入れる結衣。
 真剣な空気になると思っていたから、
 肩の力が抜けて、拍子抜けしてしまった。

 陽向先生は、くすっと笑って顎に指を当て、
 まるで推理でもするように考え込んだ。

「そうかそうか……橘さんは、その時好きになった人がタイプなんだねぇ~。」

「な、何の分析ですか……!」

「いやぁ、勉強になるなって。」

「誰のですか……!」

 そんな軽妙なやり取りの中、
 いつの間にか結衣の頬に笑みが戻っていた。
 緊張がほどけ、処置室の空気が少し柔らかくなる。

 陽向先生はその笑顔を見て、静かに言った。

「――やっと笑った。」

「え?」

 結衣が首を傾げると、陽向先生は少し照れたように目を細めた。

「さっきから、元気なかったから。
 本当に心配したんだ。」

 その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
 その優しさが、心の奥の不安を溶かしていく。
 彼の視線が、まっすぐで、優しくて。
 それだけで、涙が出そうになった。

「……すみません。心配かけて。」

「ううん。謝らなくていいよ。
 誰だって驚くよ、昔の恋人にいきなり再会したら。」

 柔らかな声。
 その包み込むような言葉に、結衣は少しだけ笑った。

「……陽向先生は、
 私が元恋人と鉢合わせしても……焼きもちとか、妬いたりしないんですか?」

 気づけば、口からぽろりと出ていた。
 自分でも驚くほど自然に。

 陽向先生は、ほんの少し目を丸くしてから、
 口の端を上げた。

「んー……?」

 わざと考えるように顎に手を当て、
 結衣をちらりと見つめる。

「まぁ、状況によるけど――
 僕に見せてくれる結衣の表情は、いつも“大好き”って伝わってるから。
 今は妬かないかな。」

 さらりと、当たり前のように言ってのけた。
 結衣の心臓が跳ねる。
 耳まで熱くなって、顔が一気に赤く染まる。

「そ、そんなこと……!」

「ほんとだよ。」
 陽向先生は、少しだけいたずらっぽく笑う。
 その笑顔が、あまりにも優しくて、
 結衣は視線を逸らせなかった。

 外では、夏の蝉が鳴いている。
 処置室の中、冷たい風と二人の息が混ざり合う。

 ほんの短い沈黙のあと、
 陽向先生が静かに言った。

「橘さん。」

「……はい。」

「大丈夫。過去は過去だよ。
 僕は、今の結衣が好きだから。」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけていく。
 不安も、後ろめたさも、すべてを包み込むような優しさ。
 彼の声が、まるで穏やかな夏の風のように心に吹き抜けた。

 結衣は小さくうなずき、微笑んだ。
 その笑顔を見て、陽向先生もまた、ほっと息をついた。

 ――その瞬間。
 ドアの外を通る足音がした。
 聞き覚えのある、規則的な足音。
 結衣の心が一瞬だけ強く脈打つ。

(……早瀬先生……?)

 けれど、結衣はそっと息を吐いて、
 陽向先生の方へ視線を戻した。

 いまは、目の前の温もりを感じていたかった。
 あの日置いてきた過去よりも、
 いま隣にいる“現在”の彼の優しさを。