梅雨が明けたばかりの病院は、むっとする熱気に包まれていた。
外の空は白く霞み、照りつける陽射しがアスファルトを歪ませている。
建物の中でも、エアコンの風が追いつかないほどの湿度。
白衣の下のブラウスが背中に張りつき、額に滲む汗を指先で拭うたび、橘結衣は夏の訪れを実感していた。
(今年の夏も、暑くなりそうね……)
ナースステーションでは、点滴の交換や電子カルテの入力に追われる看護師たちの声が絶えない。
モニターの青白い光と、無機質な機械音。
その中に混じる笑い声や患者との会話が、この病棟の日常を形づくっていた。
結衣はいつものようにナースキャップを整え、スケジュール表を確認する。
新しい外科医が今日から赴任してくると聞いてはいた。
だが、それがどんな人物なのか、詳しい情報は知らない。
(……どんな先生なんだろう。陽向先生みたいに優しい人だといいけど)
ふと頭に浮かんだ彼――陽向碧。
その名を思い出すだけで、胸の奥がほんのり熱を帯びる。
昼休みのたびに何気ない会話を交わし、帰り際にはこっそり笑い合うような関係。
正式に“恋人”という言葉を交わしたのは、まだ最近のことだ。
けれど、この病院では公にしていない。
どちらかが忙しい日には、ただの“同僚”としてすれ違うだけ。
それでも十分に幸せだと思っていた。
――この夏が訪れるまでは。
その日の午前。
外科病棟では、新任医師の着任挨拶が行われていた。
「今日からこの病院の外科に赴任することになりました、早瀬隼人です。よろしくお願いします。」
その声はよく通る低音で、穏やかでありながらもどこか人を惹きつける響きを持っていた。
白衣の襟元からのぞく喉元が涼しげで、栗色の髪が柔らかく光を受けている。
少し長めの前髪が、優しげな目元を隠すように揺れた。
看護師たちは思わず顔を見合わせ、ざわりと小さなささやきが広がる。
「イケメンすぎない……?」
「ねぇ、外科の若手であんな先生入るのずるい……!」
「ちょっと俳優みたいだよね……!」
そんな中、彼――早瀬隼人は、にこやかに微笑んだ。
その笑顔は人懐っこく、それでいてどこか寂しげでもある。
それが、余計に周囲を惹きつけていた。
(……まさか、彼がここにいるなんて、この時は誰も知らなかった…)
午前の回診がひと段落したころ。
早瀬は、担当病棟を確認するため、ふとナースステーションの前を通りかかった。
カルテボードが壁にずらりと並び、その横には“担当ナース”の名前札。
整然と並ぶプレートの中に、ひとつの名前が目に入った瞬間――彼の足が止まった。
「……"橘 結衣"……?」
かすかに息を呑む。
胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。
まさか、同じ病院で再会するなんて――思ってもいなかった。
あの夜、彼女が去ってから二年。
互いに別々の道を歩くはずだった。
過去の記憶が、一瞬で鮮やかに蘇る。
泣きながら背を向けた彼女の後ろ姿。
何も言い返せず、ただその背を見送った自分。
(……神様って、意地が悪いな)
と、思わず口の端で笑う。
けれど、その笑みの裏に隠された感情は、誰にも見えない。
「あの、先生…?どうかされましたか?」
若い看護師が不思議そうに声をかける。
早瀬ははっと我に返り、微笑みを整えた。
「いや、何でもないよ。……あ、挨拶がまだだったね。」
そして柔らかな笑顔で言葉を続ける。
「今日から外科に配属になった早瀬 隼人です。よろしくね?」
その瞬間、周囲の空気が一気に華やいだ。
看護師たちの目が輝き、声が弾む。
「え、外科の新しく入った先生ってこの人だったの!? めっちゃ優しそう!」
「きゃー、あの笑顔反則……!」
まるで春の嵐のように、ナースステーションがざわめく。
だが、早瀬の心だけは静かだった。
表情の裏で、ある“名前”が何度もこだましている。
(結衣……。もしかしてこの病院に、いるのか?)
外の空は白く霞み、照りつける陽射しがアスファルトを歪ませている。
建物の中でも、エアコンの風が追いつかないほどの湿度。
白衣の下のブラウスが背中に張りつき、額に滲む汗を指先で拭うたび、橘結衣は夏の訪れを実感していた。
(今年の夏も、暑くなりそうね……)
ナースステーションでは、点滴の交換や電子カルテの入力に追われる看護師たちの声が絶えない。
モニターの青白い光と、無機質な機械音。
その中に混じる笑い声や患者との会話が、この病棟の日常を形づくっていた。
結衣はいつものようにナースキャップを整え、スケジュール表を確認する。
新しい外科医が今日から赴任してくると聞いてはいた。
だが、それがどんな人物なのか、詳しい情報は知らない。
(……どんな先生なんだろう。陽向先生みたいに優しい人だといいけど)
ふと頭に浮かんだ彼――陽向碧。
その名を思い出すだけで、胸の奥がほんのり熱を帯びる。
昼休みのたびに何気ない会話を交わし、帰り際にはこっそり笑い合うような関係。
正式に“恋人”という言葉を交わしたのは、まだ最近のことだ。
けれど、この病院では公にしていない。
どちらかが忙しい日には、ただの“同僚”としてすれ違うだけ。
それでも十分に幸せだと思っていた。
――この夏が訪れるまでは。
その日の午前。
外科病棟では、新任医師の着任挨拶が行われていた。
「今日からこの病院の外科に赴任することになりました、早瀬隼人です。よろしくお願いします。」
その声はよく通る低音で、穏やかでありながらもどこか人を惹きつける響きを持っていた。
白衣の襟元からのぞく喉元が涼しげで、栗色の髪が柔らかく光を受けている。
少し長めの前髪が、優しげな目元を隠すように揺れた。
看護師たちは思わず顔を見合わせ、ざわりと小さなささやきが広がる。
「イケメンすぎない……?」
「ねぇ、外科の若手であんな先生入るのずるい……!」
「ちょっと俳優みたいだよね……!」
そんな中、彼――早瀬隼人は、にこやかに微笑んだ。
その笑顔は人懐っこく、それでいてどこか寂しげでもある。
それが、余計に周囲を惹きつけていた。
(……まさか、彼がここにいるなんて、この時は誰も知らなかった…)
午前の回診がひと段落したころ。
早瀬は、担当病棟を確認するため、ふとナースステーションの前を通りかかった。
カルテボードが壁にずらりと並び、その横には“担当ナース”の名前札。
整然と並ぶプレートの中に、ひとつの名前が目に入った瞬間――彼の足が止まった。
「……"橘 結衣"……?」
かすかに息を呑む。
胸の奥が、ぎゅうっと痛んだ。
まさか、同じ病院で再会するなんて――思ってもいなかった。
あの夜、彼女が去ってから二年。
互いに別々の道を歩くはずだった。
過去の記憶が、一瞬で鮮やかに蘇る。
泣きながら背を向けた彼女の後ろ姿。
何も言い返せず、ただその背を見送った自分。
(……神様って、意地が悪いな)
と、思わず口の端で笑う。
けれど、その笑みの裏に隠された感情は、誰にも見えない。
「あの、先生…?どうかされましたか?」
若い看護師が不思議そうに声をかける。
早瀬ははっと我に返り、微笑みを整えた。
「いや、何でもないよ。……あ、挨拶がまだだったね。」
そして柔らかな笑顔で言葉を続ける。
「今日から外科に配属になった早瀬 隼人です。よろしくね?」
その瞬間、周囲の空気が一気に華やいだ。
看護師たちの目が輝き、声が弾む。
「え、外科の新しく入った先生ってこの人だったの!? めっちゃ優しそう!」
「きゃー、あの笑顔反則……!」
まるで春の嵐のように、ナースステーションがざわめく。
だが、早瀬の心だけは静かだった。
表情の裏で、ある“名前”が何度もこだましている。
(結衣……。もしかしてこの病院に、いるのか?)



