蝶々結び

木曜日。
 春の雨が静かに降り始めた昼下がり。

 ナースステーションの空気は少し冷たく、外の灰色の光が窓を濡らしていた。
 結衣は書類を整理していたが、妙な予感に眉を寄せた。

(……静かすぎる。)

 すると、背後からバタバタと駆け足の音。

「橘っ、先輩っ!」

 息を弾ませて現れたのは――やっぱり、佐々木桃だった。

「ど、どうしたの?そんな慌てて。」

「わ、私……決めました!」

「な、何を?」

「陽向先生に、告白しようと思いますっ!!」

「――――は?」

 ペンが指から滑り落ち、机にカシャンと音を立てて転がる。

 その音よりも先に、心臓の鼓動が響いた。

「佐々木さん?!い、いきなり何を言ってるの!?」

「だって、陽向先生すごく優しいし……患者さんにもスタッフにも丁寧で……素敵だなって思って……。」

「そ、それはわかるけどっ!」

 必死に笑顔を作ろうとしたけれど、声が裏返った。
 そして胸の奥に広がるのは、まるで春の嵐のような動揺。

「で、でもやめといた方がいいわよ?」

「え?なんでですか?」

 桃の無垢な瞳。
 それを見つめると、嘘なんてつけなかった――けれど。

 あたふたとする結衣の口から、出てしまったのは思いがけない言葉だった。

「じ、実はね……陽向先生、恋愛とか興味ないみたいなの。それはそれは、たくさんの綺麗で、若くて、可愛い看護師さんを振ってて……。」

「えぇぇ!?そ、そんなぁ……。」

 桃がショックを受け、今にも泣きそうな顔をする。
 その瞬間、結衣の胸がズキッと痛んだ。
 (なに言ってるの、私……。最低じゃない……。)

 けれど、もう遅かった。

 ――背後から、低く落ち着いた声。

「僕がなんだって?橘さん?」

 その声を聞いた瞬間、血の気が引いた。

「ひゃっ……!? 陽向先生!?」

 いつの間にか、結衣のすぐ真後ろに。
 陽向先生が腕を組み、穏やかに――けれど確実に“面白がっている”顔で立っていた。

「やだなぁ、橘さん。僕のことが"好き"だからって、佐々木さんにそんな、あることないこと吹き込んだらだめだよ?ねぇ、佐々木さん?」

「えぇぇ!?そ、そうだったんですか、橘先輩!?わ、私……なんてことを……!」

「ち、違うのよ!?これはその、誤解で――!!」

 必死の弁解もむなしく、佐々木さんはすでに顔を真っ赤にしてキャッキャと大騒ぎだ。

「なーんだ、橘先輩っ、陽向先生とお似合いですよっ♡ ファイトです!」

 両手でハートを作って、佐々木さんは全力疾走でナースステーションを飛び出していった。

 残されたのは、気まずい沈黙と、控えめに笑う陽向先生。

「…………。」

「…………。」

 沈黙を破ったのは、結衣の方だった。

「っていうか、陽向先生!よりにもよってなんで私が“片思い設定”なんですかっ!」

 声が裏返るほどの勢いで言うと、陽向先生は軽く肩をすくめ、
 ――まるで子どもをあやすように微笑んだ。

「え?」と小さく首を傾げて。
「その方が、断然面白くない?」

「お、面白くないですっ!!」

 ぷいっと顔を背ける結衣。
 けれど、頬が熱い。耳まで真っ赤だ。

 その様子を見て、彼は小さくため息をついた。
 そして一歩、彼女の方へ近づく。

 ――距離が、近い。

 陽向先生の指先がそっと触れる。
 結衣の唇に、かすかな指先の温度が伝わった。

「だってさぁ、……僕に口きいてくれなかった結衣が悪いんだよ?」

「んなっ……!」

 ドクン、と胸が高鳴る。
 世界が一瞬止まったように感じた。

 窓の外では、雨が上がり、光が差し込み始めている。
 その光が、ふたりの影をやわらかく照らした。

「もう、陽向先生のばか……!」

 そう言って胸を軽く叩くと、陽向先生はその手を優しく掴み、引き寄せる。

「はは、ほんとに可愛い。……結衣、大好き。」

 耳元に落ちた声は、どんな春風よりもあたたかかった。
 呼吸をするのも忘れるほど、近い距離。
 頬を伝う熱が、静かに心の奥に染み込んでいく。

 外では桜の花びらが雨に濡れ、静かに舞っていた。
 まるで、ふたりの“やきもち”ごと包み込むように。

 ――その瞬間、結衣は思った。
 好きになるって、こんなに不器用で、愛おしいことなんだ。

 新しい春が、少しずつ色を変えていく。
 恋の季節は、まだ終わらない。