早瀬先生と結衣が付き合い始めたのは、その少しあとだった。
当直の合間にこっそり食堂で一緒に夜食を食べたり、
休日に病院の近くの小さなカフェで待ち合わせしたりした。
「このケーキ、結衣が好きそうだね。」
「早瀬先生、私の好み覚えてるんですか?」
「当たり前。君のことなら、もうけっこう覚えてるよ。」
その言葉に、頬が熱くなった。
名前を呼ばれるたびに、世界が少し輝いて見えた。
帰り道、人気のない裏通り。
ふいに手をつながれて、心臓が跳ねた。
「手、冷たいね。」
「冬ですから……」
「じゃあ、俺が温めてあげる。手、貸してみて。」
そう言って、指先を包み込む彼の手。
少し大きくて、温かくて、まるで世界そのものを守ってくれるようだった。
笑うタイミングも、歩く速度も似ていた。
まるで神様が結んだ運命の糸みたいに感じていた。
「結衣、この先もずっと一緒にいよう。」
夜の公園で、彼がそう言った。
街灯の明かりが淡く照らす中、結衣は小さく頷いた。
あのとき信じて疑わなかった。
この人となら、何があっても乗り越えられるって。
――けれど、その糸は思いがけない形でほどけてしまったのだ。
その日も、日勤の終わりだった。
夕方の病棟は、いつものように慌ただしくて、ナースコールの音が途切れることはなかった。
それでも結衣は、仕事を終えたあとの小さな達成感に包まれていた。
夕日が廊下の窓から差し込み、床に長い影を落としている。
ナースステーションから医局の方をなんとなく見やったそのとき――
そこに、見慣れた背中があった。
白衣の袖越しに見える、あの人の背中。
隣には、後輩の若い看護師が立っていた。
まだ二十代前半で、誰からも可愛がられている子。
明るくて、愛されるタイプ。
結衣も彼女を嫌いではなかった。
けれど――その瞬間、笑い声が聞こえた。
早瀬先生の手が、その子の肩をそっと引き寄せた。
抱きしめる仕草。
世界が一瞬で静止する。
呼吸が止まり、鼓動の音さえ遠くに消えていった。
何かの見間違いだと思いたかった。
でも、二人の距離は、見間違うほど遠くはなかった。
視界の端がにじみ、手に持っていたファイルが落ちる音だけがやけに大きく響いた。
足元がふらつき、壁に手をついた。
心の中で何かが「ぷつん」と音を立てて切れた気がした。
頬を叩く音が、医局の中に響いた。
それでも涙は出なかった。
――「結衣…ごめん。」
「…っさようなら。」
たったそれだけの冷えきった言葉を残して、結衣は背を向けた。
*
その夜。
部屋の中は、静かだった。
段ボールをひとつ広げ、少しずつ荷物を詰めていく。
二人で撮った写真、誕生日にもらった小さなブレスレット、
彼が残した手書きのメモ――「無理してない?結衣の笑顔がみたい。」
ひとつ箱に入れるたび、心の中の糸が静かにほどけていく気がした。
「もう、いいよね……。」
声に出して言った瞬間、頬をつたう涙が継ぎから次へと止めどなく流れ落ちた。
その涙は、思っていたより温かくて、まるで長い間凍っていた心が溶け出したようだった。
窓の外は、雨と一緒にたくさんの滴が流れ落ちた。
ーーー
翌朝、鏡の前で結衣はハサミを握る。
結衣の髪は、彼に褒められた長い髪だった。
「長い髪、似合ってる。」――その言葉を、今でも覚えている。
けれど今、その髪を残しておく理由はもうなかった。
シャキ、シャキ、とハサミが落とす音が静かな部屋に響く。
肩に落ちた髪が、まるで過去の自分の破片のように見えた。
それから、気持ちを整理するかのように結衣は
気付いたら美容院の前に立っていた。
美容師に「本当に切っちゃっていいんですか?」と聞かれて、
結衣は鏡越しに自分の目を見つめた。
「はい、大丈夫です。」
そう答えた声は思ったよりしっかりしていて、
その瞬間、ほんの少しだけ本当に笑えた気がした。
***
そして今、電車がホームに滑り込んでくる。
ドアが開き、人々が流れ込む。
制服のボタンを留めながら、結衣は小さく息を吸い、前を向いた。
――ほどけた糸を、もう一度結べる日は来るのだろうか。
そう思いながらも、心の奥では、誰にも見えない新しい結び目を作っていた。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
だけど――人生の糸は、いつも思い通りには結べない。
しかし、これから彼女が出会う「ある男性」が、その糸を再び引き寄せてしまうことを、
このときの結衣はまだ知らなかった。
当直の合間にこっそり食堂で一緒に夜食を食べたり、
休日に病院の近くの小さなカフェで待ち合わせしたりした。
「このケーキ、結衣が好きそうだね。」
「早瀬先生、私の好み覚えてるんですか?」
「当たり前。君のことなら、もうけっこう覚えてるよ。」
その言葉に、頬が熱くなった。
名前を呼ばれるたびに、世界が少し輝いて見えた。
帰り道、人気のない裏通り。
ふいに手をつながれて、心臓が跳ねた。
「手、冷たいね。」
「冬ですから……」
「じゃあ、俺が温めてあげる。手、貸してみて。」
そう言って、指先を包み込む彼の手。
少し大きくて、温かくて、まるで世界そのものを守ってくれるようだった。
笑うタイミングも、歩く速度も似ていた。
まるで神様が結んだ運命の糸みたいに感じていた。
「結衣、この先もずっと一緒にいよう。」
夜の公園で、彼がそう言った。
街灯の明かりが淡く照らす中、結衣は小さく頷いた。
あのとき信じて疑わなかった。
この人となら、何があっても乗り越えられるって。
――けれど、その糸は思いがけない形でほどけてしまったのだ。
その日も、日勤の終わりだった。
夕方の病棟は、いつものように慌ただしくて、ナースコールの音が途切れることはなかった。
それでも結衣は、仕事を終えたあとの小さな達成感に包まれていた。
夕日が廊下の窓から差し込み、床に長い影を落としている。
ナースステーションから医局の方をなんとなく見やったそのとき――
そこに、見慣れた背中があった。
白衣の袖越しに見える、あの人の背中。
隣には、後輩の若い看護師が立っていた。
まだ二十代前半で、誰からも可愛がられている子。
明るくて、愛されるタイプ。
結衣も彼女を嫌いではなかった。
けれど――その瞬間、笑い声が聞こえた。
早瀬先生の手が、その子の肩をそっと引き寄せた。
抱きしめる仕草。
世界が一瞬で静止する。
呼吸が止まり、鼓動の音さえ遠くに消えていった。
何かの見間違いだと思いたかった。
でも、二人の距離は、見間違うほど遠くはなかった。
視界の端がにじみ、手に持っていたファイルが落ちる音だけがやけに大きく響いた。
足元がふらつき、壁に手をついた。
心の中で何かが「ぷつん」と音を立てて切れた気がした。
頬を叩く音が、医局の中に響いた。
それでも涙は出なかった。
――「結衣…ごめん。」
「…っさようなら。」
たったそれだけの冷えきった言葉を残して、結衣は背を向けた。
*
その夜。
部屋の中は、静かだった。
段ボールをひとつ広げ、少しずつ荷物を詰めていく。
二人で撮った写真、誕生日にもらった小さなブレスレット、
彼が残した手書きのメモ――「無理してない?結衣の笑顔がみたい。」
ひとつ箱に入れるたび、心の中の糸が静かにほどけていく気がした。
「もう、いいよね……。」
声に出して言った瞬間、頬をつたう涙が継ぎから次へと止めどなく流れ落ちた。
その涙は、思っていたより温かくて、まるで長い間凍っていた心が溶け出したようだった。
窓の外は、雨と一緒にたくさんの滴が流れ落ちた。
ーーー
翌朝、鏡の前で結衣はハサミを握る。
結衣の髪は、彼に褒められた長い髪だった。
「長い髪、似合ってる。」――その言葉を、今でも覚えている。
けれど今、その髪を残しておく理由はもうなかった。
シャキ、シャキ、とハサミが落とす音が静かな部屋に響く。
肩に落ちた髪が、まるで過去の自分の破片のように見えた。
それから、気持ちを整理するかのように結衣は
気付いたら美容院の前に立っていた。
美容師に「本当に切っちゃっていいんですか?」と聞かれて、
結衣は鏡越しに自分の目を見つめた。
「はい、大丈夫です。」
そう答えた声は思ったよりしっかりしていて、
その瞬間、ほんの少しだけ本当に笑えた気がした。
***
そして今、電車がホームに滑り込んでくる。
ドアが開き、人々が流れ込む。
制服のボタンを留めながら、結衣は小さく息を吸い、前を向いた。
――ほどけた糸を、もう一度結べる日は来るのだろうか。
そう思いながらも、心の奥では、誰にも見えない新しい結び目を作っていた。
“もう恋なんてしない”と固く結んだはずの糸。
だけど――人生の糸は、いつも思い通りには結べない。
しかし、これから彼女が出会う「ある男性」が、その糸を再び引き寄せてしまうことを、
このときの結衣はまだ知らなかった。



