蝶々結び

その日の夜。
 更衣室で制服を畳んでいると、柚希がまたにやにやと話しかけてきた。

「ねぇ結衣。佐々木さんさぁ、陽向先生のこと、ひょっとして好きなんじゃない?」

「えっ!?そ、そんなわけ……!」

「わかりやすいよ~。だって、陽向先生の話するときの顔、完全に恋する乙女だもん。」

「や、やめてよ、そんな大げさな……!」

「で、結衣はどう思ってるの?」

「どうって……別に、指導に支障が出なければなんだけど……。」

「ほんとに~?なんか声が震えてるけど?」

「…もう、…うるさい。」

 柚希がクスクス笑う。
 図星すぎて、結衣は反論できなかった。

(ダメだ、私……完全に子どもみたいになってるじゃない。)

 ――そう思いながら、夜風に混じる桜の香りを吸い込んだ。
 春は、恋も不安も、静かに芽吹かせる季節なのだ。






春の午後――。
 外来の廊下に差し込む陽光は、ガラス窓越しに柔らかく反射し、白い床に淡く光の帯を描いていた。

 昼下がり特有の眠気と静けさ。
 そんな中、橘結衣はステーションに戻る途中、足を止めてしまった。

 ――視界の先。
 診察室の前で、佐々木桃がまた陽向先生に声をかけている。

「陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」

 小さな声なのに、なぜか耳に響く。
 その響きは、まるで心の奥に落ちる小石の音のように、静かに波紋を広げていった。

(……また、あの距離感。)

 見ていると胸の奥がざわざわする。
 桃の頬は真っ赤で、瞳はきらきら。
 陽向先生はいつもと同じ穏やかな微笑み――けれど、それがやけに優しく見える。

「ん?ああ、佐々木さん。……いいよ、309号室の患者さんだよね。見せて。」

 彼の低い声。
 すぐそばで響くその音を、結衣は覚えている。
 夜勤明けの廊下で、ふたりきりで交わした小さな言葉たち。
 眠気まじりの"お疲れさま"が、どんなに優しく響いたかを。

 ――それなのに、今、その声は別の人に向いている。

(って、顔近くない?……あの距離、近いんだってば……!)

 視線を逸らそうとしても、目が離せない。
 気づけば、息まで浅くなっていた。

「ここはこの認識でいいよ。よく出来たね。」

「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」

 陽向先生が笑う。
 桃が嬉しそうに両手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
 その瞬間――ふと、彼の頬がやわらかくほころんだように見えた。

(……そんな顔、ずるい。)

 自分でも理由がわからない。
 ただ胸の奥がちくりと痛んで、思わず踵を返していた。

 ナースステーションに戻る途中、カートを押す手がいつもより強くなっているのに気づいて、結衣は小さく息をついた。

(……何やってるの、私。)
(別に、やましいことしてるわけじゃないのに……。)

 だけど、その“別に”の裏には、言葉にならない感情がいくつも積み重なっていた。