蝶々結び

―― 一年後の、春。

 春の日差しが温かい朝。
 病院の中庭には淡い光が射し込み、風に乗って桜の花びらが静かに舞っていた。
 花びらがアスファルトの上に落ちる音はしないのに、なぜか胸の奥がくすぐったい。
 橘結衣はナースステーションの机に向かい、書類の山に囲まれながらため息をついた。

 新しい年度の始まり。
 そして今日から、結衣は「新人教育係」として、後輩を育てる立場になったのだ。

(まさか、自分が“先輩”って呼ばれる日がくるなんて……)

 机の上には、新人教育マニュアルや技術チェックリストが並んでいる。
 自分が新人だった頃――緊張しすぎて手が震え、注射針を落とした日のことを思い出す。
 あの頃は、いつも陽向先生がさりげなくフォローしてくれた。
 思えば、彼との距離が少しずつ近づいていったのも、あの時期だった。

 そんなことを考えていた矢先――、

「橘せんぱぁいっ♡ 今日もよろしくお願いしますっ!」

 耳がくすぐったくなるほどの明るい声が背後から響いた。
 結衣が振り向くと、そこには小柄な新人ナース・佐々木桃(ササキ モモ)が立っていた。
 春の日差しを反射して、ネームプレートがきらきらと光る。
 ふわふわとした柔らかい茶髪、ピンク色のヘアピン、そしてぱっちりした目。
 まるで絵本から飛び出してきた妖精のような子だった。

「佐々木さん、おはよう。……そのテンション、朝からすごいね。」

「えへへ、だって今日も橘先輩とお仕事できるからです~♡」

 にこにこと笑うその顔が、春の陽射しのように眩しい。
 結衣は思わず頬を引きつらせた。

(私……こ、こういうタイプ、正直ちょっと苦手かも…)

 テンションが高く、可愛げがあるタイプ。
 どこか守ってあげたくなるような雰囲気を持っている。
 でも同時に、なぜだか放っておけない不思議な魅力もあった。

「佐々木さん、昨日の採血の練習はどうだった?」

「え、えっと……針、ちょっと変な角度で刺しちゃってぇ……患者さん、ちょっと泣いちゃいましたぁ……」

「えぇぇ……また?」

「す、すみませんっ!でも!橘先輩のアドバイス思い出して、すぐ謝って、次はうまくいきました!」

「……まぁ、それならよかったけど……」

 結衣は苦笑しながらカルテを閉じる。
 桃は自分の失敗を恥ずかしそうに笑いながらも、前向きだ。
 その明るさに救われる瞬間もある。

 そのやり取りを、ナースステーションの隅でそうろ見ていた柚希。
 長い髪をポニーテールに束ね、コーヒー片手ににやにや笑っている。

「ふふ~ん。なんか最近、結衣ってば“佐々木さん命”だよねぇ?」

「ち、違うわよ!ただの指導係だから!」

「へぇ~?前は私と一緒に休憩してくれてたのにぃ。最近ぜんぜん構ってくれないんだもーん。」

「そんなこと……。」

「むぅ~、焼きもち妬いちゃう~!」

 柚希は頬をぷくっと膨らませ、冗談めかして腕を組む。
 結衣は思わず吹き出してしまった。

「もう柚希、子どもみたいなこと言わないでよ。」

「だってさ、結衣が他の子に懐かれてるの見ると、なんか落ち着かないんだもん~。」

 その言葉に、結衣の胸がほんの少しだけ温かくなる。
 柚希はいつも口が悪いが、根はとても優しい。
 そして彼女だけは、結衣と陽向先生の“秘密”を知っている。

(柚希には、ほんと何でもお見通しなんだよね。)

 そんな平和な朝だった。
 ――この時までは。

 

 

 昼過ぎ。
 外来の診察室前は、いつものように患者と医師で賑わっていた。
 結衣がカルテをまとめていると、廊下の向こうで見慣れた後ろ姿を見つけた。

「佐々木さん?どうしたの?」

「橘先輩!陽向先生に、カルテのことでちょっと質問があって……あっ!」

 桃の視線の先。
 白衣をなびかせながら歩いてくるのは、陽向碧先生。
 清潔感のある優しい笑顔。落ち着いた声。
 通り過ぎるだけで、まわりの空気が一段明るくなるような人。

 その姿を見つけた瞬間、桃の目がきらきらと輝いた。

「ひ、陽向先生っ♡ あの、これ、確認お願いしたくてっ!」

「ん?ああ、佐々木さんか。……いいよ、見せて。」

 陽向はいつもの柔らかい笑みを浮かべて、桃に近づいた。
 その距離が、やけに近い。
 桃は緊張で顔を真っ赤にしながら、カルテを差し出す。

「こ、これです!ここの数値がちょっと……。」

「うん、なるほど。ここはこの計算でいいと思うよ。よく気づいたね。」

「ほ、本当ですか!?やったぁ♡」

 その瞬間の桃の笑顔は、まるで満開の桜のようにぱっと咲いた。
 ――結衣は、少し離れた場所からその光景を見つめていた。

(ちょ、ちょっと……近くない? 何あれ!顔、近くない!?)
(っていうか陽向先生、なんでそんなニコニコ笑ってんのよっ……!)

 胸の奥がじわじわと熱くなる。
 それが“焼きもち”だと認めたくなくて、ただ無言で書類に目を落とした。
 だけど、ペン先が震えて文字がうまく書けない。

「……橘さん?大丈夫?」
 陽向先生の声が耳に届く。
 咄嗟に顔を上げると、彼が不思議そうに首をかしげていた。

「な、なんでもないですっ。」

 つい語気が強くなってしまい、彼は少し目を丸くする。
 桃はそんな二人を見て、「仲良しですねぇ~♡」と微笑んでいた。

(……なんか、複雑なんですけど。)

 そう思いながら、結衣は心の中で深くため息をついた。