蝶々結び【完結】



ふと、結衣は膝の上に置いた小さなリボンに目を留めた。
 昼休みに、入院している子どもが落としていった髪飾りだ。
 ほどけたままになっている蝶々結びを、指先で直そうとする。

「うまく……できないな。」

「貸して。」

 陽向先生が優しく手を伸ばす。
 その手が結衣の手に触れ、わずかな温度が伝わった。

「一緒に、結ぼうか。」

「……はい。」

 二人の指が重なり合い、ゆっくりと紐を引いていく。
 小さく、でも確かに、結び目が形になっていった。
 柔らかく光を受けたそのリボンは、風に揺れて小さくきらめく。

「……できましたね。」

「うん。ほら、ほどけそうに見えて、意外と強い。」

「まるで……私たちみたい。」

 結衣が微笑むと、陽向先生も柔らかく笑った。

「そうだね。たまに緩むかもしれないけど、何度でも結び直せばいい。」

「……ええ。
 その度に、ちゃんと隣にいてくださいね。」

「もちろん。どんな時でも。」

 その返事は迷いがなく、まっすぐで温かかった。
 結衣は少しだけ目を伏せ、笑みをこぼした。

 次の瞬間――
 陽向先生が、そっと結衣の頬に唇を寄せた。

「……っ!もう、陽向先生!」

「ははっ、ついね。春のせいかな。」

「春のせいって……もう。」

 呆れたように言いながらも、結衣の頬はほんのり赤い。
 そんな彼女を見て、陽向先生はさらに優しく笑った。

「……なに、笑ってるんですか。」

「だってさ。結衣、幸せそうだから。」

「……そう見えますか?」

「うん。僕も、同じくらい幸せ。」

 その言葉に、結衣の胸の奥がじんわりとあたたかくなった。
 風がふたりの間を通り抜け、桜の花びらが結ばれたリボンの上にひとひら、そっと舞い落ちた。







 あの日、ほどけてしまった蝶々結び。
 もう一度、結び直せる日が来るなんて思ってもみなかった。

 けれど今、結衣は知っている。
 ――蝶々結びとは、支え合う心そのものなのだと。

 どちらかが緩んでも、もう片方がそっと引き寄せれば、また結ばれる。
 その形は不器用でも、真っ直ぐで、優しい。

 結衣は桜を見上げながら、隣の陽向先生の手を握った。
 彼もまた、静かにその手を握り返す。
 その温もりが、春の光と溶け合ってゆく。

「……陽向先生。」

「ん?」

「あの日の答えなんですけど…私、今がいちばん幸せです。」

「僕もだよ。……でも、これからもっと幸せにするから。」

「ふふ、……期待してます。」

 ふたりの笑顔が重なった瞬間、風が再び吹いた。
 花びらが舞い上がり、世界が淡い光で満たされる。
 その中で、二人の影が寄り添うように重なっていった。







 桜の花びらが舞い散る庭で、結衣は静かに目を閉じた。
 春の風が頬を撫でる。
 あの日から何度も結び直してきた心の糸――
 そのすべてが、今、ひとつの形になったような気がした。

 これからも、きっと何度も緩むだろう。
 喧嘩をして、すれ違って、涙を流す日もあるかもしれない。
 けれどその度に、こうして手を取り合い、また結べばいい。
 それが"ふたりで生きていく"ということだから。

 桜の枝が、優しく揺れた。
 空は限りなく青く、風は穏やかだった。

 結衣の髪に留まった花びらを、陽向先生がそっと指先で払う。

「……ねぇ結衣。」

「はい?」

「来年の春も、また一緒に見よう。」

「もちろんです。……その時も、お弁当作っていきますね。」

「じゃあ僕は、ココアも淹れて持ってくるよ。」

「ふふっ、楽しみにしてます。」

 桜の下、二人の笑顔が柔らかく重なる。
 花びらが風に舞い、まるで祝福のように降り注いだ。